始めの第1歩

 私を拾った男が帰って来なくなった。そのことを不思議に思いはしたけれど、血眼になって探したいとも思わなかった。むしろ、解放感すら覚えたような気がする。

 男は何かと面倒事ばかり抱えていたし、食い倒れていた私を拾ったのもその面倒事を肩代わりさせたかっただけだろう。とはいっても、拾ってもらった恩は揺らぎのないものだったので、私も文句1つ言わず男の指示通り動き続けた。盗みも、娼婦まがいのことも、色々やった。“これが私の生き方なのだ”と割り切って生きてきたつもりだったけど、男が居なくなってから感じた解放感によって私の生き方は息苦しいものだったということを知った。

「おい」
「……はい?」

 どこかで野垂れ死んでいるかもしれない男を少しだけ思い浮かべ、脳内から抹消しようとしていた時、若い軍人から声をかけられた。座したまま見上げてみれば、その軍人は背丈の違いなどお構いなしの様子で立ち尽くし、私を見下ろしている。……わざわざ店内に入って来てまで私に声をかけるとは一体何事だろうか。軍人に声をかけられるようなことはここ最近していないはずだけど。
 首の痛みに耐えつつ、じっと目線を上げ続けていれば「お前の父親のことだが」とその体勢のまま言葉を投げかけられた。

「父親?」
「……父親ではないのか?」
「あー……父親、ではないですけど。他人でもない、といいますか」
「なんだそれは」
「……それで、何のご用でしょうか?」
「最近姿を見ないが。どこに行った」

 もう無理だと首を元の位置に戻せば、男は断りもなく反対に腰掛けた。そこで少しだけ近くなった視線は、私の口元に留まっていた饅頭に釘付けになっている。せっかく腹ごしらえにと思っていた饅頭だったのに、これじゃ味もよく分からない。……というか、めちゃくちゃ見てくるなこの人。饅頭が好きなんだろうか。ちらりと盗み見た男の表情は、独特な眉毛のせいか厳つく見える。そんな射抜くような視線で見つめられても。饅頭はこの1つしかないし、分けるのも変な感じだし。……食べにくい。

「私にも同じものを1つ」
「……食べるんですね」
「悪いか」
「い、いえ。おかげで食べ易くなりました」
「食べ易い?」
「こっちの話です」

 給仕に声をかけ、饅頭が届けられるまでの間、軍人はピシっとした佇まいで饅頭が届けられるのを待っていた。それだけでこの軍人がどれだけの品を持ち合わせているかが分かる。……というか、身なりからして相当良い所の出だろう。私とは大違いだ。果たして、そんな人間が何故私なんかに目をつけ、声をかけて来たのだろうか。

「食べないのか」
「そちらの……えっと、」
「鯉登だ」
「鯉登さん、の饅頭が届くまではなんというか……」
「お前、名は何という?」
「あ、なまえです。みょうじなまえ」
「なまえは律儀なんだな」
「えっ、いや……そんな、」

 律儀だ――なんて、今までただの1度も言われたことがない。というか、他人に褒めてもらったこと自体が初めてのことで、一体どう反応するのが正解か分からない。むず痒い気持ちが顔に浮かんでいる気がして、思わず顔を伏せれば鯉登さんの口からふっと笑いが零れ出たのが分かった。

「お待ちどうさま」
「ありがとう」

 饅頭がそこまでの時間をかけずに届けられたおかげで、むずむずした気持ちはそう長く味わわずにすんだ。そのことにほっと胸を撫でおろせば、鯉登さんが再び口角を緩めながら「なまえも食べろ」と声をかけてくる。別に鯉登さんの奢りでもないんだけどな――なんて心の中で苦笑しつつも、「はい」と返す声色は随分も丸いものだった。



「あの、その、」
「なんだ」
「ご馳走になってしまって……なんとお礼を申せば良いのか、」
「別に構わん。饅頭の1つや2つ」
「……饅頭の1つや2つでも、大変なんです」
「ん?」
「その日を生きていく為に必要な銭を稼ぐというのは、とても大変なことです」
「……そうか。……そうだな」
「だから。ありがとうございました」

 店先で深々と頭を下げてお辞儀をすれば、鯉登さんは「あぁ」としっかりとその気持ちを受け取ってくれた。歳はきっと私とそこまで変わらないはずなのに、鯉登さんから醸し出される雰囲気や余裕や逞しさは凄まじい。今の私の話だって、鯉登さんからしてみれば想像もつかない話だっただろう。それでも、鯉登さんは馬鹿にするでもなく、しっかりと頷いてくれた。それだけで私の心はすっかり鯉登さんに気を許してしまっている。その気持ちを自覚し、ひっそりと呆れ笑っていれば鯉登さんの目つきが少しだけ鋭くなった。

「それで、男の行方をなまえは知らないのか」
「……あ」

 男の存在を口にされ、鯉登さんの目的が私ではなく男にあることを思い出した。……そうだ、鯉登さんは目的があって私に近付いたに過ぎない。何を浮かれていたんだろう、私。あの男のことだからきっと、軍に追われるような何かをしでかして逃げ回っているのだろう。もしかしたらその尻拭いをさせる為に、また私を利用しようとしているのかもしれない。

「なまえ?」
「……大丈夫です」
「顔色が悪いが」
「なんでもないです。……男の行方ですよね? 生憎、行きそうな場所も思いつかなくて」
「……そうか」

 こういう尋問を受ける時、男の行方を知っていようがいまいが“知らない”と言うようにと教え込まれている。とはいえ、今回は本当に行方知らずなので鯉登さんに嘘を吐かないで済んだ。そのことが少しだけ息苦しさから私を解放する。ふぅっと深く息を吐いた私に鯉登さんは少しほっとした様子を見せ、そこから更に「刺青のことなど、聞いたことはないか?」と重ねてきた。……刺青、なんだろう。男はもんもんを入れてはなかったし。特に何も耳にはしてない。

「特には……」
「本当か?」
「……はい。何も聞いてないです」
「……分かった。信じよう」
「ありがとう、ございます」

 心底ほっとしたような表情を見せた鯉登さん。対する私は、一体このやり取りで何を聞き出そうとされているのかが分からなくて、困惑している。いつもあの男の話をする時は嘘ばかり吐いていたから、こうして本当のことを話し、そのことを是として受け入れられたことも初めてだ。

「なまえは男が帰って来なければどうするつもりなんだ?」
「もう少し待ってみて、それでも帰って来ない時はどこか遠くに行きます」
「遠くに行くのか?」
「はい。もう拾ってもらった恩は充分返せたと思うので。これからは自分の力で、自分の為に生きていこうかと」
「そうか。……それが良い。なまえは一応北海道から離れた方が良いかもしれん」
「北海道から?」

 鯉登さんの言葉を不思議に思いぱっと顔を見上げれば、鯉登さんも同じように私のことを見つめている。さっきは冷たい視線だと思ったけど、今は心なしかその視線に温かさを感じる。その温かさが厚意によるものだというのが分かるのは、鯉登さんの態度や言葉のおかげだ。こんな風に私個人を尊重し接してくれたのは鯉登さんが初めてだからよく分かる。

「詳しくは言えんが、なまえと一緒に居た男はとある刺青のせいで狙われた可能性が高い」
「……あの男はくりからもんもんを入れてなかったと思うんですけど」
「本人が入れてなくても、情報を知っていた可能性がある」
「情報……?」
「すまん、あまり詳しく知ろうとしないでくれ」
「あ、はい。すみません」

 鯉登さんの言葉で、あまり深入りをしない方が身の為だと察知しスッと押し黙る。そうすれば鯉登さんはまた安堵した表情を浮かべるから、私の心もほんの少しむず痒くなる。鯉登さんを困らせるくらいなら、あの男のことなど1つも知りたくない。……不思議なものだ。数年一緒だったはずの男よりも、数十分を共にした鯉登さんの方を信頼したいだなんて。もしかすると、私は結構簡単な女なのかもしれない。……まぁ、それならそれで良い。これからは“そうしたい”と思う方を私の意思で選べるのだから。

「とにかく。ここに居てはなまえも狙われる可能性がある」
「分かりました。……ここはあまり良い思い出がないし、丁度良いかもしれません。それに、もう寒さにはこりごり」

 へへっと笑ってみせれば、鯉登さんも同じように笑い「その点、かごんまは良かど」と聞き慣れない言葉を向けて来た。急に砕けた言葉に目を見開けば、鯉登さんもハッとし誤魔化しの咳払いをしてみせる。

「すまない。地元の話をしようとするとつい」
「もしかして、鹿児島の出ですか?」
「もす」
「鹿児島かぁ……良さそうでごわす。……合ってます?」
「まだまだだじゃっどん、見込みはあっど」
「えへへ。鹿児島、行くのに時間はかかるかもしれませんけど、いつか行ってみます」
「あぁ。なまえもかごんまのこと気に入っじゃろう。かごんまに着いたら桜島大根を食ぶっとよか。アタイは嫌れじゃっどんな」
「桜島大根か、美味しそう」

 地元の話をする鯉登さんの表情はずっと穏やかで、どれだけ地元を想っているのかが伝わって来る。……そういうの、良いなぁ。私は残念ながら生まれ育った場所に愛着を抱けなかったから、いつか鹿児島に行った時、その分“良い所だ”と思えると良いな。

「もし鹿児島に行けたら、」
「ん?」
「その時はまた、鯉登さんに会えますかね?」
「オイの帰っ場所ど。会ゆっに決まっちょ」
「そっか。じゃあ、絶対行きます」
「……あぁ」

 それまで達者でな――最後に鯉登さんはそう言って私を送り出してくれた。自分の力で生きて行こうとする私にとって、鯉登さんと過ごした時間は格別な門出になったと思える。これから、精一杯生きて行こう。そして、いつかまた会えた時、そこまで生きて来た日々をまた鯉登さんと饅頭でも食べながら話せると嬉しい。……早速私の人生の目標が出来たな。

 その目標に向かって踏み出す1歩目は、今まで生きてきた中で1番軽やかな足取りだ。

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