Дикий кот

 北のウォール街。ここ小樽はそう呼ばれている。ニシン漁や炭鉱で栄えるこの街には、それに比例するように私娼窟の数も多くある。
 私娼とは、いわば無許可で体を売る女のこと。本来ならば違法だけど、それでもこうして私娼窟を成す場所が多くあるということが、どれだけの需要があるかを示している。

「ねぇ、今度はいつ来る?」
「知らん」

 部屋の真ん中に敷かれたせんべい布団。本来そこは2人分の重みが乗せられるはずなのに、今は私1人だけを支えている。毎回ここに来る度私を指名する男は、今日もいつもと変わらず窓辺から外を眺めるばかり。お金を貰ったからにはそれなりのお返しをせねば――その思いで何度か男の体に擦り寄ってみたけれど、その全てを素っ気なく跳ね返されてしまっている。

「なんで私なの」
「あ?」
「尾形さん、まともにまぐわりもしないクセに私ばっかり買うでしょ? なんでかなーと思って」
「なんとなく」
「何ソレ」

 今となってはこの距離感が私たちの常だ。尾形さんは決して自分のことを明かそうとはしないし、私のことを聞き出そうともしてこない。そういう近すぎず、遠すぎない関係性はなんとなく心地が良い。買ってもらったのに対価を渡せていないことはやっぱり少し引っかかるけど、多分きっと尾形さんがここに来ることにも、こうして窓から外を眺めることにも何かしらの理由があるはずだから。その役に立てているのなら良しと思うことにしている。

「今度あの豪商の息子が来るらしんだけど」
「呉服屋のヤツか」
「そう。その日、尾形さん私のこと買ってよ」
「誰が女買うのに約束なんかするか」
「えー、そんなこと言ったら軍人さんが頻繁に女を買うのもどうなのよ」
「別に俺は買ってねぇ」
「買ってるじゃん、私を」
「体は買ってねぇだろ」

 ズバっと切り返され思わずむっと押し黙ってしまう。確かに尾形さんは私を買うというより、“この場に居る為”に時間と空間を買っているような気がする。つまり、私はおまけだ。……別に、良いんだけど。

「……買えば良いのに」
「ふっ。そんなに嫌か、あの男が」
「嫌……まぁ、そうね。嫌いかも、あの坊ちゃん」
「へぇ。羽振りは良さそうだけどな」
「別にぞんざいな扱いを受けるとかもないけど。なんかほら、いかにも愛されてます〜って感じが伝わってくるっていうか」
「……愛されてる、ね」
「それ故に世間知らずで、自分のお金で女1人買えない所とか。どうもイライラしちゃうんだよね」

 尾形さんは私のことを聞き出そうとはしない。でも、こうして私がポロっと出す本音に意外にもじっと聞き耳を立ててくれる所が可愛いなと思う。それと、今日はいつもより話題への喰いつきが良い気もするので、私の言葉もいつもより止め処なくなる。普段は景色ばかりを移すその瞳が、私を捉えていることに体中の熱が沸き立つ。

「でも相手してんだろうが」

 そうして一通り私情を吐き出した後、容赦なく切り返される言葉。……いつもは私が尾形さんで、呉服屋の息子が私なのに。一喜一憂させられる側というのは、どうしようもなくもどかしい。自分の思い描いた通りの筋道を歩めないことに歯痒さを覚える。それでも、尾形さんとの会話を求めてしまうのは、私が尾形さんを求めているからに他ならない。……尾形さんになら買われても良い……いや、尾形さんに私を買って欲しい。求めて欲しい。その思いを尾形さんはどうせ汲んではくれない。その証拠に、尾形さんの瞳はもう既に空へと移ろいでしまっている。

「……してるよ。それが私の仕事だから」
「はっ。まったく、どの体で言ってんだか」
「……腹の中でどう思おうが私の勝手でしょ。相手をどう思っていようが、思っていなかろうが。全部私の自由じゃん」
「テメェの自由、ね」

 私の言葉をなぞるように言葉を呟く尾形さん。その声色が少し虚を衝かれたようなものだったのが少し意外だった。“自由”なんて、私が説明しなくても尾形さんは既に手にしてるとばかり思っていたから。……私はやっぱり、尾形さんのこと何も知らないんだな。

「Барчонок」
「ん?」
「今度、お坊ちゃんが来たらそう言ってやれ」
「ばるちょ、……もっかい言って」
「言わねぇ」
「ロシア語? そんなの1回で覚えれるわけないじゃん」

 むぅっと頬を膨らませながらもかろうじて耳が捉えている残響を必死に唇で手繰り寄せる。にしても尾形さん、めちゃくちゃ綺麗な発音だったな。いや、ロシア語のことよく知らないけど。それでも、尾形さんのさっきの言葉の巧さは伝わって来た。ロシア語、戦争の為に覚えたのかな。 

「そうだ。猫ってロシア語ではなんて言うの?」
「……あ?」
「尾形さん、猫っぽいから」

 そう言った途端、尾形さんから距離を詰められた。今まで1度も覆いかぶさられたことなんてなかったのに、今、尾形さんの鋭い眼光が真っ直ぐに突き立てられている。その距離を認識するよりも先、尾形さんの手が私の首を這う。尾形さんを怒らせるようなことをした覚えはないけれど、どうやら尾形さんのご機嫌を損ねてしまったらしい。……あぁ、せっかくさっき教えてもらった言葉、綺麗サッパリ吹き飛んでしまった。

「やだ、殺さないでよ」
「……殺すかよ、めんどくせぇ」

 怒気はあれど殺気はない。そのことを見抜いた私の顔が不敵に歪んだのを察知した尾形さんは、舌打ちと共に再び距離を取ってしまった。あーあ。あともう少しで口付けの1つくらい出来たのにな。

「私、尾形さんの死に目に会いたいんだよね」
「は?」
「なんか、尾形さんって誰にも死に際を見せなさそうでしょ? だから、見たい」
「……ハハッ。誰が見せるかよ」
「いーじゃん、私には見せてよ」
「死に様を見せろって……なまえは酷な人間様だな」
「へへっ、そうかも」

 尾形さんの目は冷たい。普段荒々しい熱ばかりをぶつけられる私からしてみたら、その冷ややかさが堪らなく心地良く思えてしまう。そして、その冷たさの隙間に垣間見せるものには、確かに尾形さんの熱があるのだ。その熱は燃え盛るような激しいものじゃないけど、決して冷酷なんかじゃない。
 時折尾形さんが見せるソレは、私の名前を呼ぶ時やふと緩む目尻や口角に現れることをきっと尾形さん自身は知らない。だから、私も言わない。これは私だけが知っていることであって欲しいから。それさえ知っていられれば、他のことには全て折り合いを付けて生きていける。……だけどもし、他の願い事をしても良いというのであれば――。

 これからも、ふらっと現れて、ふらっと去って良いから。最後にはどうか、私のもとに帰って来て欲しい。……そんな大それたことを願いたくなる。

「ねぇ、また絶対来てね」
「約束はしねぇ」
「……ふふっ。やっぱり尾形さんって猫みたいだね」

 でもきっと、尾形さんはその願いを叶えてはくれないのだろう。

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