炎天下を泳げ

 ぱちっと目が覚めるより先、鼻腔を消毒液の匂いが支配した。普段嗅ぎ慣れない匂いを不思議に思いつつ、むくりと体を起こせば「あなまえ。起きたわね」と母親の軽い声が私を出迎えた。

「ここ……ん?」
「あんた、急に気を失ったんだって」
「わた、私が……?」

 検査してもらったけど、どこも異常がないらしいから、きっと貧血だったのだろう――「軽い捻挫で済んで良かった」最後にそう付け加えられ、自分の足首に視線を移す。確かに、私の左足には患者が施される白い布が綺麗に巻かれている。ちょっと足を捻ってみれば、チクリとした痛みが走り思わず顔をしかめてしまった。

 私が、気を失った、急に。
 母親の言葉をぶつ切りにして整理してみる――が、急に意識を失うなんてこと、考えられない。それに、急なんかじゃないはずだ。……何か、その直前に、何かが私の身に降りかかったような気がする。

「最近暑かったし。そのせいもあるのかもね」
「……そう、かも?」

 母親の言葉で、外の気温の暑さを思い出す。ここ最近はかんかん照りだったし、日差しも強かった。もしかしたら、陽の光に当てられて……。――光? そうだ。確かあの時、視界に白い何かが広がったんだ。…………思い出した。私、そうだ。そうだった。

「なまえ?」
「……ううん、なんでもない」

 母親には言えない。私が気を失う直前に不良に絡まれただなんて。そのせいで階段を踏み外しただなんて知られたら、心配をかけさせてしまう。……それにしても、階段から落ちたにしては体が綺麗な気がする。もっと擦り傷とか打ち身とかあっても良さそうなのに。……まぁ、ないに越したことはないけど。



 経過観察を兼ねて訪れた病院の帰り。午前中はさすがに潰れてしまったけど、まだお昼時だ。学校はあらかじめ休みを取っているし、平日の昼間にそそくさと家に帰るのはなんだか勿体ないような気がする。……とはいっても、ほっつき歩くことは出来ないので、ジュースを買って公園のベンチで一休みするくらいがせいぜい。

「ねぇ」
「へっ?」

 そうしてボケーっと公園を眺めている時、唐突に声をかけられた。あまりにも軽い口調でかけられた声に素っ頓狂な声をあげて振り向けば、小柄な男の子が鯛焼きを咥え突っ立っていた。バチっと絡み合った視線に、この子は私目がけて声をかけてきたんだということを確信する。とはいっても、私はこの子を知らないし、どうして声をかけられたのかも見当が付かない。戸惑いを乗せたまま視線を返せば、その子はふいっと視線を外し私の隣に腰掛けた。
 正直、この間の1件もあって知らない男の人に近付かれるのは怖い。バレないようにゆっくりとお尻を後ろにずらし、男の子と距離を取ってみる――が、男の子が顔をずいっと近付けてくれば、そんなのは意味を成さず。

「……やっぱ怖い? 俺のこと」
「えっ?」
「……ゴメン」
「えっ?」

 私はこの子と“やっぱり”と思う程接点がないし、ましてや“ゴメン”と謝られる筋合いもない。出会い頭に「何見てんだテメェ」と絡んできたあの不良ならまだしも。この子は金髪だし、平日の昼間なのにこんな所に居る辺り、そりゃ優等生とは言えないかもだけど。……でも、それは別に私には関係のないことだ。

「あの……私とどこかで会ったことあります?」
「え、覚えてねぇの?」
「え、えと……すみません」

 許す限りの時間で頭をフル回転させてみても、記憶の中にこの人は居ない。素直に謝れば、金髪を揺らしながら「ふぅん」とちょっぴり頬を膨らませてみせる男の子。……さっき、“怖い?”と訊かれたけど。その質問には首を振っても良かったなと思う。この人は怖いとかそんなカテゴリーには入らない。先ほどの質問に否定を返せなかったことも含めてもう1度「ごめんなさい」と謝罪すれば、「ウン。良いよ。これあげる」と途端に顔をほぐし、ほかほかと熱を持った袋を手渡された。

「これ……」
「ここの鯛焼きチョーうめぇんだよ。だからお前にもやる」
「でも……えっと、」
「マイキー」
「ま、マイキー……さん、が、食べるはずだったんじゃ?」

 その問いには「んーん。はじめっからなまえにやるつもりだった」と断言された。……え、え? なんでマイキーさん、私の名前知ってるんだ? 驚きで見開かれた瞳の奥に何が居るのか口にせずとも分かったようで、マイキーさんは「生徒手帳。見たから」と学生鞄の中に入っているであろう手帳の存在を口にしてきた。……私の生徒手帳を見た……? 一体いつ。どこで。

「てかさ、早く食べろよ。冷めちゃうよ?」
「あっ、わっ」
「ちょっ!」

 私の両手に抱えられていた袋を覗き込み、その距離感のまま顔を上げられれば、先ほどよりも近い場所にマイキーさんの顔が現れた。あまりの近さに思わず体をのけ反らせれば、マイキーさんの慌てた声が後を追い、小柄の割にはガッシリとした手に腕を掴まれた。そうしてぐいっと引き戻され、今度は距離そのものが失われた。……この感覚、私どこかで……。

「鯛焼き、潰れてねぇ?」
「……え、わ、ど、うだろ」

 パッと離された腕。もうマイキーさんに掴まれてないのに、未だにじんとした熱を帯びているような気がする。その熱に気付かないふりをしつつ、袋をそっと開けば、お腹の辺りから少しだけあんこが飛び出してしまっていた。ゆっくりと鯛焼きを掬い、外の世界に飛び出させれば、マイキーさんが「おー、まぁいけんだろ」と嬉しそうに笑う。その笑顔のまま「良かったなぁ〜、お前。ちゃんと食べてもらえるよ」と鯛焼きに向かって無邪気で残酷な言葉を向けるから、私は思わず吹き出してしまった。しまった――と思った時には、もう遅くて。再びバチっと絡む視線。

「……良かった、元気そうで」
「え?」
「大丈夫だな」

 目尻を下げて微笑むマイキーさん。その笑顔を見た瞬間、木々がざわめき、夏風がマイキーさんの髪を揺らした。ふわっと羽のように舞う金髪。……思い出した。あの時、不良に絡まれた私を、マイキーさんが助けてくれたんだ。急に始まった喧嘩に驚いて、足を踏み外した私をマイキーさんが既の所で腕を掴み助けてくれた。だから、私は軽い捻挫で済んだのだ。……どうして、こんな大事なシーンを忘れちゃってたんだろう。

「マイキーさん、私、」
「思い出した? あの時のこと」
「ごめんなさい。マイキーさんが私のこと病院まで運んでくれたんですよね」
「踏み外したと思ったらなまえ、意識トばすんだもん。俺ビックリしたよ」
「ご、ごめんなさい……その、色々とありがとうございました」

 “よく知らない男の子”から、“命の恩人”に格上げされたマイキーさん。近い距離感にビビっている場合ではないと頭を勢い良く下げてお礼を述べれば、ほんの少しの間沈黙が訪れた。マイキーさんから何か言われるまで頭を上げるべきではないと思い、下げ続ける頭。耳からは絶えずセミの鳴き声が届けられ、その鳴き声が私の心音さえも急かす。体中の熱が上昇するのを感じ取っていると、「ゴメンは俺の方」とマイキーさんがポツリと呟いた。

「え?」
「なまえに絡んだカス、ちょっと前に俺がボコってたんだ」
「えっ、ぼ、ボコ……ん?」
「変にイキり散らしてウザかったからさー。つい」
「えと、マイキーさんが、あの人を、やっつけた――ってこと?」
「そ。俺、意外と強ぇの」
「へ、へぇ」

 にこりと笑うマイキーさん。さっきと同じように笑っているのに、何故だか纏うオーラが違うように思える。それが、マイキーさんの言葉が嘘じゃないってことを証明しているようで、思わず肩に力が籠った。その私の心情の揺らぎをもマイキーさんは気取ったようで、「天下無敵のマイキーだからね、俺」と今度はおふざけに比重を傾けた口調で言葉を続けてみせた。……マイキーさんは不思議だ。おぞましいほどの威圧感を与えられているような、それでいて、ひどく落ち着く空気感を持っているような、そんな感覚がする。

「集会終わりにふらついてたらアイツがなまえに絡んでるの見えたから、近付いてもう1発お見舞いしてやったんだよ」
「なるほど……。それは……お礼を言えば良いのか、なんというか……」
「別にそんなん要らねぇ」
「んー……でも、助けてもらったのは事実だし、こうして鯛焼きを差し入れてくれたのも事実だし。……やっぱり、ありがとう、です」
「……なまえがそう思うんなら、言えば良い」
「うん、ありがとう。マイキーさん。鯛焼き、いただきます」

 あんこが出てしまった所から勢い良くかぶりつけば、「腹から派か〜」とマイキーさんの関心する声が響き、思わずむせそうになってしまった。そう言うマイキーさんはどこからなんだろう――そんな風にマイキーさんに興味を持つのと同じタイミングで、マイキーさんが「ごめん」と呟いた。

「……私、マイキーさんから謝られること、何もないですよ?」
「ケンチン……俺のダチがさ、“オレらの世界はオレらの中だけで片付ける”って言ったんだ」
「オレらの世界……?」
「一般人に被害出しちゃダメ、周りの奴泣かしちゃダメって」
「はぁ、」
「そんでさ、“下げる頭持ってなくてもいい。人を想う心は持て”って。教えてくれたんだ」
「……素敵なお友達ですね」
「だろ? 最高にカッケー男なんだよ、ケンチンは」

 今までで1番顔をくしゃくしゃにして笑うマイキーさん。その笑みにつられて、私の頬も緩む。私の顔を見つめた後、マイキーさんはもう1度顔を引き締め、「だから。なまえを巻き込んじゃってゴメン。なまえが怪我をしたのは俺のせい」と何度目かの謝罪を口にしてみせた。

「……じゃあ。今度お詫びに鯛焼き、奢ってください」
「んー、鯛焼きも良いけど。俺、どら焼きが好きなんだよね」
「どら焼き?」
「うん。だから今度は、どら焼き奢ってやる」
「……はい! 楽しみにしてます」

 もうマイキーさんのことは怖くない。そのことを伝えたくて、じっと顔を見つめる。「おう」と答えるマイキーさんの顔は、ケンチンさんのことを語っていた時に負けないくらいの笑みが浮かんでいて。その笑みを見つめ、私はぼんやりとこんなことを思った。

 いつか私も、マイキーさんに負けないくらいの笑みを浮かべて、マイキーさんのことを語る日が来るかもしれない――と。

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