シュレディンガーの恋の行方

 一応、ボーダーにも医務室は存在する。とはいってもここで起こる怪我は大抵がトリオン体でのものなので、処置を必要とする人はあまり居ない。それでも私という存在がここにあり続けるのは、それなりの憩いの場としてここが機能しているからだと思いたい。

「なまえさーん、今度迅とソロランク戦するんだけどさ」
「最近迅くんとばっかしてない?」
「だってやっとアイツと久々にやれるんだぜ?」

 太刀川くんみたいに、どこも怪我してなくてもふらっと訪れては他愛もない話をする人が多い。C級の子から林藤支部長まで、色んな人が来ては世間話や相談事を持ち寄って来る。医師としてこう思うのはいけないかもしれないけど、怪我を持って来られるよりかは何倍も良い。

「それで、もし俺が勝ったらなまえさん俺とメシ行かね?」
「えー、でも太刀川くんお金ないじゃない」
「ねぇけど。なまえさんとのメシ代ならどうにかする」
「どうにかって?」
「忍田さんに借りる「私は貸さんぞ」……うわ、忍田さん!?」

 太刀川くんの言葉を切り捨てた人物。その人は医務室に現れるなり「慶、怪我なら私が治してやるぞ」と嫌味を言いながら太刀川くんの頭を小突いている。サボリがバレた太刀川くんは「結構で〜す」と言いながら医務室から出て行き、忍田本部長と私の2人だけとなる。……ここに忍田本部長が来るだなんて、オリンピックより珍しいんじゃないか。

「忍田本部長……どうされたんですか?」
「手当てをお願いしたくて」
「手当て? えっ、忍田本部長が怪我!?」
「はは、みょうじさんにとって私は超人か何かのようだ」
「あいえ、そういうわけでは……失礼しました」

 確かに忍田本部長だって人間だから、怪我の1つや2つくらいするだろう。それにここは本来そういう人の為に設けられた場所だから、忍田本部長の言葉に驚いては失礼だ。咳ばらいをしつつ、「どうされましたか?」と問えば袖を捲り腕を覗かせる忍田本部長。……血管やばいな、じゃなくて。この引っ掻いたような傷は……。

「猫にやられまして」
「猫。飼われてるんですか?」
「いえ。飼っていません」
「ほぉ?」

 傷から忍田本部長へと視線を移せば、その先にある頬をもう片方の指が掻いてみせる。どうして照れ臭そうなんだ? と思えば「基地に来る途中、木から降りられなくなった猫が居まして」と忍田本部長が言葉を発する。そうして続く言葉で、助けようと木に登ったは良いが寸での所で腕を引っかかれ、猫にも結局逃げられたという事の次第が判明した。

「ふふっ、じゃあ忍田本部長が逆に置き去りにされたってことですか?」
「……お恥ずかしくも。大の大人が1人で木から降りてくるシーンは、耐えがたかったです……」
「ははっ、さすが“やんちゃ小僧”ですね」
「な、なぜそれを、」
「林藤支部長はここのお得意様ですので」
「林藤……!」

 林藤支部長を思い出して歯噛みしている忍田本部長。その姿は普段のキリっとした装いとは違って、ちょっとおかしい。その様子を笑いつつ、引っかき傷のある腕に消毒液をつければ、忍田本部長の体がビクっと驚いた。その様子に「すみません、痛かったですか?」と見上げれば「……いえ、平気です」と平然を装われた。

「野良猫のようですので、もし熱や気怠さが出てくるようならすぐ病院へ行かれて下さいね」
「分かりました」
「ちなみに、今はそういった症状出ていませんか?」
「大丈夫です」
「……ほんとうに?」
「えぇ。大丈夫ですが……、」

 どうして喰い下がるのだ? という疑問が滲むのを見て、「瑠花ちゃんからも話はよく聞いていますので。……すぐ無理される方だと」と種を明かせば溜息を吐かれた。その溜息が呆れからくるものではないと分かるので、私の口角はまた緩やかにあがる。太刀川くんや林藤支部長、瑠花ちゃんから話を聞いている時は“あの忍田本部長が?”と驚いたけど、こうして対面してみると納得だ。

「私はあまりみょうじさんの信頼を得られていないようだ」
「どうでしょう? それなりに信頼しているつもりではありますけど」
「そうは見えないが」

 ずいっと覗き込まれる顔。……忍田本部長って、こんな風に距離を詰めてくるような人だったっけ? 普段よりも近い距離にぐっと詰まっていれば、「みょうじさんの中に居る“私”は、あくまでも慶たちから聞いたものに過ぎない」と真顔で告げられた。

「まぁ、それは確かに……そうかもしれません」
「私がどういう人かは、みょうじさん自身が確認するまで分からないだろう」
「はぁ……まあ、」
「そういうことなので、これからしばらくはこちらに世話になっても良いだろうか」
「はい。腕の治療もありますので、是非」
「……ありがとう」

 忍田本部長の希望に頷きを返せば、忍田本部長はまたふっと溜息を吐いた。その溜息には安堵と同じくらい呆れが入っているようで、またしても私は首を傾げるはめになる。そんな私を忍田本部長はじっと見つめ、「こちらとしてはやっと手に入れた大義名分なんでね」とまた1つ噛み砕けない言葉を寄越す。

「忍田本部長?」
「これから毎日、顔を出させてもらう」
「はい、お待ちしています」

 立ち上がって部屋から出て行こうとする忍田本部長を見送れば、「よろしく頼む」と念押しのような言葉を送られた。その言葉を放つ忍田本部長から、なんとなく“覚悟しておけ”と言われているような気がしたけど。……気のせいだろうか。

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