疑問符はとめどなく

 ベッドの寝心地がいつもと違う……?
 枕の固さやスプリングの跳ね返りが自宅のそれとは異なる。普段の安っぽい感触ではなく、高級ホテルに設置されているベッドのようだ。柔らかく包み込まれるような寝心地から目覚めた時、霞む視界を瞬かせながらなまえは違和感の正体を掴もうとした。
 手をさわさわと泳がせてみれば、滑らかな衣擦れの音と共にふんわりと鼻腔をくすぐる匂いが漂う。

「……ん?」

 違和感から既視感。なまえはこの匂いを知っている。一体どこで嗅いだ匂いだろうか。それらが疑問へと変わり白む部屋に目が慣れた頃、なまえの視線がある場所で留まった。

「せ、先輩……!?」
「起きたか」
「えっ……えっ?」

 目の前に居るのは同じ職場の先輩にあたる男だった。なまえの脳内におびただしい量の疑問符が勢いよく沸き起こる。それに動揺が加わるのは、なまえと男――忍田がいわゆる“そういう関係”ではないからだ。

「体調はどうだ?」
「……えっ?」

 寝覚めにかけられる言葉が“おはよう”の挨拶ではなく体調の変化。昨日のことを全く覚えていないなまえは許容量を超す疑問符のせいで先ほどから単語しか話せていない。動揺が隠せていないなまえに対し、忍田は落ち着きを見せている。

「とりあえず水を飲め」
「あ、ありがとうござ……いま、す……あの、先輩……なんで……!」

 ベッドの上で縮こまるばかりの後輩を気遣って、冷蔵庫からペッドボトルを取り出しそれを届ける忍田に礼を告げるが、それもまともなイントネーションで紡ぐことは叶わなかった。ペッドボトルを受け取りながら浮かんだある可能性に、なまえは顔面を真っ青に染めあげた。

「本当に何も覚えてないんだな」
「えっ……えっ、あ、あの、私……っ、」

 忍田は忍田で、そんななまえにさらに追い打ちをかけるような言葉を放つ。すぐさま毛布の下に隠れた自分の体に視線を這わせたが、自分の体はきちんと衣服に守られている。では一体どうして目の前の男は上半身を曝け出しているのか。なまえの頭からはもう少しで湯気が出そうになっている。

「私より飲めないことを、お前はきちんと弁えているだろう」
「……もしかして私……」

 この雰囲気は一夜を共にした者の間に流れるような空気ではない。甘さとは程遠い忍田の口調が、後輩を叱るそれになっていることに気付きなまえは即座にベッドの上で居住まいを整えた。どうやら自分はお酒で記憶をなくし、忍田の自宅に押し掛けたらしい。そして忍田はそんな自分を介抱し、更にはベッドを貸してくれたのだろう。
 全ての流れを察知した時、なまえは叱られる準備をした。下手したら今日は訓練という名のしごきを受けるかもしれないと恐れおののきながら。

「先輩……怒ってます、よ……ね?」
「……」
「ヒィッ! 申し訳ございませんでした!!」

 一縷の光を求め見上げた先、そこになまえの求めるものはなく、厚かましくも慈悲を望んだ自分を懺悔するように平伏した。

「二度と自制が効かなくなるほど酒を飲まないように」
「かしこまりました……!」
「他人様に迷惑をかけないように気を付けること」
「承知いたしました……!」

 服を纏いながら懇々と告げる忍田の言葉を、鵜呑みするように言葉を返し続けるなまえ。そのやり取りを数度交わした後、忍田の口から仕上げの溜息が吐き出された。なまえはそこまで忍田を失望させてしまったことに泣きそうになったが、それと同時にそれだけのことをしてしまったのだと自分自身を恨みたくなった。

「私はこれから仕事を1つ片すから、それが終わったらまた起こしてやる。だからもう少し寝ていなさい」
「いえ……! 準備したらすぐにでも出て行きますので……!」

 確かにこの時間ならばもう少し睡眠時間がとれるが、なまえはその睡眠を悠長にとれる立場ではない。

「今から家に帰っていては出勤に間に合わんだろう」
「で、も……、」
「走り込みを終えてシャワーも浴びた。私はもう寝るつもりはないし、ここまで貸したんだ。最後まで貸してやる」
「……すみません、」

 忍田の言葉に申し訳なさがこみ上げてくる。忍田はなまえの為にベッドを明け渡し、自分はソファで寝たのだと推測すれば、罪悪感に押しつぶされそうになった。上半身裸の忍田を見て肉体関係を持ったのでは、と邪推した心もその要素と呼ぶに相応しい。

「本当に……なんとお詫び申し上げればよいのか、」
「もう怒っていない。後輩の面倒を見るのも私の役目だ」
「ありがとうございます……」

 忍田は叱る時はしっかり叱り、その後はきっぱりと割り切る男だ。それがまたなまえの心を不甲斐なくさせる。もっと怒鳴るなり、小言を吐くなりしてくれた方が幾分心が落ち着くのに――自分本位な考えを浮かべていることに気付けば、ずるずると自己嫌悪の沼へと沈むばかり。

「私は少しだけ嬉しくもあったよ」
「……え?」
「みょうじが記憶をなくした時に頼る相手が私だったこと」
「せ、先輩……?」
「他の男には頼らないように」
「は、い……?」

 なまえの思考は原点回帰していた。状況把握をする為に浮かべていた疑問符が、今度は忍田の言葉の意味を推し測る為に浮かんでいる。先輩として、後輩に頼られることが嬉しいという感情は忍田という人物を思えば頷ける――が、1番最後の言葉、特に“男”という特定だけはいまいち噛み切れない。

「記憶なくして男の部屋に押しかけるなんて、何をされても文句は言えないからな」
「……あ、あぁ。……はい、分かりました。私は、命拾いしたってことですね」

 今度こそ忍田の言っている言葉の意味を落とし込むことが出来た。なまえの邪推は忍田相手には空振りに終わったが、相手が相手ならば現実になり得たことだ。自分は幸運に恵まれたのだと、忍田に感謝の念を述べようとしたなまえの言葉は忍田の言葉によって遮られた。

「だから、もし次私の家に来る時は覚悟して来なさい」
「…………え?」

 なまえの思考はぐるぐる巡る。

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