証明保証
「帰らないで下さい……」
数十年生きてきて、初めてこんなセリフを他人に向けて放った。放たれた相手は相手で口をポカンと開けて時を止めている。
諏訪さんが自宅に来る時、大抵小説を読んで過ごす。私は諏訪さんオススメの推理小説を読んで、諏訪さんは私オススメのミステリー小説を読んで。そうしてダラダラと時間を過ごし、「そろそろ帰るわ」という声に小説から目を離さず「お気をつけて〜」と適当な声掛けをして送り出すこともある。そういうサッパリとした付き合いだという自覚もあったし、互いにそれが丁度良い温度だと思ってもいた。――にも関わらず。一体どうした私。
「……お前ほんとにみょうじかよ?」
「トリオン兵と入れ替わってるかもですね……」
見開いた目を絡ませ動揺を走らせる。どうせまたすぐ会えるのに、どうして今日に限ってこんな風に諏訪さんの服をきゅっと握りしめているのだろうか。こんなの、めちゃくちゃ可愛い彼女がする行為じゃないか。柄にもない行動が恥ずかしくて、その手を引っ込めようという意識はある。なのに手は頑なにその場を動こうとしない。
「みょうじ?」
「うわ、なんだろ……どうしよう……。帰って欲しくないです……」
「わ、分かった。とりあえず落ち着け」
反対の手で顔を覆い、動揺を隠そうとしても溢れ出る感情。どうしても、今日はまだ一緒に居たくて堪らない。こんなの、初めてでどうしたら良いか分からない。
それは諏訪さんも同じようで、何度も「分かった、分かったから」と独り言のように呟いている。普段の私だったらここで「いや私何も言ってませんけど」なんて言葉で茶化している所だけど、今日はそれ所じゃない。
「だめだ、諏訪さん。ちょっと柄にもないこと続けて良いですか?」
「……お、おう」
許可を得てから手を一瞬離し、すぐさまその手を背中へとまわす。そうして近付いた体は諏訪さんの服に染みついた煙草の匂いを嗅ぎつけた。そのことにひどく安堵して、奥底から湧き出る気持ちが口から零れ出る。
「……ぎゅっとして欲しい、です」
「おい、お前ほんとにどうした?」
「諏訪さんが居るって確かめたいみたいです」
「あー……」
額を擦り付け、匂いだけでなく体温からもそれを感じ取ろうと必死になっていれば、諏訪さんもこの感情の源に行き着いたらしい。「1番乗りでキューブ化しちまったしな」と喉元を震わせ苦笑してみせた。その振動をピッタリとくっ付けた体越しに感じ取り、安心すると同時に嬉しさがこみ上がってくる。
「もし戻れなかったらどうしてました?」
「どうしようもねぇだろ。キューブ化してんだし」
「ははっ、確かにそうですね」
ぎゅっとして欲しいという願いを聞き入れたといは言い難い力だけど、それでも私の体を覆う諏訪さんの腕からは充分なほどに想いが伝わってくる。それが諏訪さんがここに居るという存在証明のようで、私の心はまた1つ安心を与えられたようにぬくもりを持つ。
普段はそこまで熱々な関係を求めないけど、それでもやっぱり。諏訪さんという適温は私の生活になくてはならないものなのだ。
「もし諏訪さんがキューブから戻れなかったとしたら、私が面倒みたと思います」
「キューブの面倒って、何すんだ?」
「さぁ?」
さぁって、オイ――そう言って笑う声は、直に私の鼓膜を震わすから。諏訪さんはちゃんとここに居ると主張されているみたいで、思わず笑いが込み上がる。良かった、私はこれから先もずっと諏訪さんの隣に居ることが出来そうだ。
「……てか。今日のこと、誰かに言いふらしたらぶっ飛ばしますからね」
「今俺が抱き締めてるヤツは、間違いなく俺の彼女様みてぇだな」
「トリオン兵じゃなかったみたいです」
「あぁ、だな」
いつもとは違う、可愛らしい彼女だけど。諏訪さんはちゃんと私がここに居ると保証してくれるらしい。