2文字のしあわせ

 大人になってからの5年って、思っていたよりもあっという間だったし学生の時よりも重たい5年だったと思う。その貴重な5年間を、私は幸郎と一緒に歩んできた。
 初めての出会いは合コン。帰省していた時に地元の友達から“ご飯を食べよう”と誘われ、来てみたらまさかの合コンだった――苦笑しながら白状する幸郎を笑い、そこから話していくうちにいい感じになって……という、まぁありがちな馴れ初め。それでも、遠距離だった時もそれなりにうまくやれていた。
 幸郎は束縛なんてしないし嫉妬だってしない。はじめの頃は大人だしスマートだし物腰も柔らかい人だと思って不満はなかった。……ただ、5年という月日は人に慣れを与え、その慣れをマンネリと呼ぶには充分な歳月だ。

「ごめん、今から緊急手術が入って……」
「……そっか。分かった、頑張ってね」
「ごめんねなまえ。毎回申し訳ない」
「……いいよ、仕事なんだから」

 初めて会った時は獣医学部の学生だった幸郎も、今では立派な獣医師として働いている。医学の道に“いつも通り”なんて存在しないことは幸郎の傍に居たら分かる。約束していたデートが流れることはこれで何度目のことだろうか。数えることも難しい出来事に「頑張ってね」という言葉で区切りを付けるのも何回目のやり取りになるのだろう。――労いの言葉に乗せる気持ちの純度が低くなってきだしたのは、いつ頃からだっただろうか。

 分かっている。幸郎の仕事は生命に関わる仕事で、その仕事に幸郎が一生懸命なことも、私との時間を大事にしてないわけじゃないことも。ちゃんと分かっているつもりなのに。いつからかそれじゃ足りないとわがままな自我が芽生えていた。幸郎に抱き締められながら夢を見たのはいつの夜だっただろう。去り際にキスをしたのはいつだっただろう。「ん」と差し出されたその手を握りしめ街中を歩いたのはいつのことだっただろうか。……この5年で、他の恋人たちより密着した時間はあっただろうか。私の5年は、果たして幸せだったんだろうか。



 明日は休みだし、今日は夜更かしでもしようと配信動画を漁っている時。玄関から解錠と共にそっと扉の開く音がした。私の家の鍵を私以外で持っているのは幸郎しか居ないので、その顔を浮かべながら廊下を覗けば「あ、起きてたんだ」と緩む顔。

「仕事、思ったより長引いちゃった」
「どうしたの?」
「最近会えてなかったから。たまには、と思って」
「そうなんだ。え、明日休み?」
「ううん。朝イチでオペがある」
「……そっか」

 ということは、明日の幸郎は私のものにはならないということ。しかも朝イチなら今日はもう明日に備えて寝た方が良い。幸郎と一緒に観たいと思っていた映画が配信されていたけれど、それはまた今度1人で観よう。明日は幸郎に合わせて一緒に早起きして、出来る事なら朝ごはんを振る舞いたい。お弁当も持たせて「行ってらっしゃい」と見送りたい。せっかくこうして会いに来てくれたんだし。……明日は昼近くまで寝ようって思ってたけど、幸郎が気を遣ってくれたんだし、私だって同じだけの気遣いをしないと失礼だ。

「お風呂入ったら寝るよね?」
「映画、観ないの?」
「それはまた今度にでも」
「せっかくだし観ようよ。俺もなまえも気になってたやつじゃん」
「ううん、幸郎は明日も早いんだし。夜更かしはだめだよ」
「……それもそうだね」

 返事の隙間にあった沈黙。きっと、幸郎は私の言葉に気遣い以外の気持ちが滲んでいることを気取ったはず。着替えとタオルを出しながら「明日は何時起き?」と続ける言葉には不機嫌ささえ混じってしまった。

「俺、帰ったがいい?」
「なんで? せっかく会いに来てくれたのに」
「でも、嬉しくはなさそう」
「そんなことないよ。会いに来てくれてありがとね」
「……なまえ」

 本当はもっとずっと一緒に居たいのに、幸郎はいつだって仕事にばかり気持ちを割く。好きな人が好きなことを一生懸命しているのだから、私はそれに対する気遣いをするべきだってことも分かっている。……分かっているのに、いつからか別の気持ちが浮かんですれ違いを生んでいる。

 命と恋を天秤に掛けたら、誰だって命をとる。それは幸郎もそう。一瞬の判断がその先の人生をも左右する仕事の中で、幸郎の気持ちが私に向くことは数少ない。それは獣医師として正しいことだし、そういう仕事に誇りを持っていることも知っている。
 幸郎は好きなことだから、そこに全てを賭けられるし、命がけで命を守っている。だから、私のわがままとも取れる感情は幸郎に向けるべきじゃない。……そう分かっているのに、いつからか仕事を優先する幸郎に不満を募らせるようになってしまった。

「なまえは俺と居て幸せ?」
「……なに、どうしたの急に」
「今のなまえは楽しくなさそうだから」
「……楽しい、よ」
「……なまえ。俺たちさ、」

 ――別れよう。
 一瞬、なんと言われたかが理解出来なかった。思わず零れ出た「え?」という言葉に対し、「俺と付き合うことがなまえにとって良いことだとは思えない」と返す幸郎。「今まで色々ごめん」と続けながら手渡された合鍵を呆然と見つめる私を少しだけ見つめた後、幸郎の足が玄関へと向かう。

「荷物は送るか捨てるかしてくれたらいいから」
「さ、幸郎、」

 どうにか紡いだ名前。その名を持つ人物は既に覚悟を決めた瞳を浮かべ「……幸せになってね」と微笑んでくる。一瞬一秒を競う世界に生きている人の決断はあまりにも早くて、一体何が何だか分からない。どうしてそんな簡単に別れの言葉を出せるのかも、“幸せになって”と他人行儀な祈りを置き土産に出来るのかも。何も分からない。ただ分かるのは、幸郎と積み上げて来た5年という歳月はたったの5文字で終わりを迎えたという結末だけ。



 幸郎と付き合うことが私にとって良いことかどうかは私が決めること。そして、私という存在が幸郎にとって良いかどうかは幸郎が決めること。

 幸郎が好きなことをしている姿を心から応援することが出来なくなってしまっていた。幸郎がくれた気遣いを心から喜ぶことが出来なくなってしまっていた。すべき気遣いをしてあげることが出来なくなっていた。……私は、幸郎にとって“良いこと”にはなれなかった。 

 そのことに辿り着くまでに経た5年という期間はそれなりに大きい。私は結婚もしたいし子供だって欲しい。本当は幸郎と家庭を築きたいと思っていたけど、幸郎とは無理だった。……幸郎にとって、私と過ごした5年は幸せになっていただろうか。

 幸郎の荷物をまとめるのに数週間かかってしまったけれど、いざまとめ始めると小さめの段ボールに収まった。5年間の思い出がこの箱に詰めれてしまった事実に、鼻の奥がツンとした。力をこめてそれを啜り、サンダルをつっかけコンビニへと足を向ける。そんなに重くもない段ボールを大事に抱え歩く道のりは、鉛を付けたように重たくて。……私と幸郎の5年間。この中にはそれなりに思い出も詰まっている。そう思ったら、途端に段ボールがずっしりとした重みを与えてきた。

「……楽しかったなぁ」

 幸郎と過ごした時間は、たとえ良いことに思われなかったとしても、私にとっては間違いなく幸せな時間だった。……どうしよう、私、幸郎のこと今でも好きだ。






「……なまえ」
「……幸郎?」
「荷物、捨てちゃった?」
「捨ててない……今送ったとこ」
「そっか」
「急ぎの荷物でもあった?」
「ううん。違うくて」

 ぽっかりと穴が空いたような身軽さで帰宅した先。家の前で佇む人物に駆け寄って見上げれば、幸郎は困ったように笑いながら「ごめん」と詫びる。……ごめんって言葉、今思い返せば幸郎の口から1番聞いた言葉だったな。妙に耳馴染みの良い言葉を受け取りつつも、脳内には疑問符が浮かび続ける。一体、幸郎は何に対して謝罪をしているのだろうか。

「俺、やっぱりなまえのこと好き」
「……えっ」
「自分では割と切り替え早い方だって思ってたんだけど。……なまえのことだけは忘れられない」
「うそ……、」

 自分勝手でごめん――改めて言い直された言葉もうまく噛み砕けなくて瞳を泳がせれば「我慢出来なくて、会いに来ちゃった」と吐き出される言葉。ちょっと事態が理解出来ない。

「ふとした瞬間になまえの顔が浮かぶんだ。何をしてても。前は寝顔だけでも見たいって思ったら会いに行けてた。……だけど、別れちゃったらそれも出来ないんだよね」
「会いに……?」
「あ、なまえが居ない時に勝手に忍び込むとかはしていないからね?」
「幸郎が、私に、会いたい……?」
「……なまえは会いに来てくれたってよく言ってたけどさ。違うんだ。俺が、なまえに、会いたかったから会いに行ってた」

 幸郎は私を気遣ってたわけじゃなく、自分がそうしたいからしてたってこと。幸郎の中で命と恋を天秤に掛けた時、それは等しく同じだったらしい。幸郎はずっと平等の想いを私に向けてくれていたのだ。

「……俺、仕事と同じくらいなまえのことが好き」
「幸郎……、」

 わがままでごめん――その言葉を言い終わるよりも早く幸郎の腕に飛び込む。私にとっての5年と、幸郎にとっての5年。どちらも同じ重みで育っていたことが知れてどうしようもなく嬉しい。

 私たちは互いを気遣い過ぎて言いたいこと、言うべき気持ちを口にしてこなかった。私たちは何もマンネリになってもないし、気持ちも劣化していない。……もっとちゃんと、「好きだ」とわがままに伝えあうべきだった。

 溢れる幸福感に胸を圧されながら「私も、幸郎のこと好き」と告げる声はひどく震えている。その震えが感情を揺らし涙腺を刺激する。……こんなにも大きな想いに育ったのは幸郎と一緒に過ごした5年間のせいだ。

「俺が切り捨てられなかった相手だから。それなりに執着すると思うけど。なまえはそれでもいい?」
「そんな幸郎がいい」
「……そっか。良かった」
「ねぇ、幸郎。私のこと、幸せにしてくれる?」
「うん。絶対幸せにする」

 ねぇ幸郎。これからはもっとたくさん、わがままに想いを伝え合っていこうね。出来るなら10年、20年。――死が私たちを分かつその時まで。

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