秋空

 仕事終わりの旧友を呼び出すのは少し気が引けたが、背に腹はかえられなかった。せめてもの誠意として先に辿り着いた居酒屋。駅に着いたというメッセージを見てある程度のつまみの注文を済まし、温かいおしぼりで手をぬくめる。

「おう」
「おう、お疲れ」
「大地が“飲もう”って誘ってくるの、意外だよな」
「それはお互い様だろ」

 旧友――菅原と澤村は職種は違えど互いに激務をこなすで身である。故に都合が合わないことも多い為、気軽に誘い合える関係性ではなくなってしまった。それでも、今日という飲みの席が設けられたのにはそれなりの理由が存在する。

「金ならトイチで貸してやるぞ」
「悪徳業者か」
「冗談だって。……喧嘩でもしたな?」
「喧嘩、というか……」

 喧嘩ではないなと、澤村は昨夜起こった自宅での出来事を思い返す。自分自身は言い返す間すら与えられなかったし、なまえはなまえで激怒したというわけでもなかった。喧嘩というよりかは――「宿題を出されてな」この表現の方が正しい。

「なんの?」
「乙女心……らしい」
「ハッ。そんなの大地に求めたらアウトだべ」

 会話の流れで頼んでいたビールを受け取るなり「乾杯」の音頭代わりに笑みを零す菅原。グビリと傾くそのジョッキを見つめながら反論してやろうと意気込んでみたものの、言葉らしい言葉を吐きだすことは出来なかった。
 容易く核心をつかれたことにほんの少し悔しさを感じつつ、それを押し込もうと澤村の手に持たれたジョッキも傾いてゆく。

「それで。補習の為に菅原先生が呼び出されたと」
「……旭は今どこ居るか分かんねぇし。清水は色々忙しそうだし」
「消去法かよオイ」
「俺よりかはマシだろ」
「まぁな」

 そこで納得されるのも複雑な所ではあるが、これもまた事実である。テーブルを彩っているつまみに手を伸ばしながら「それで、一体どんな内容なんだ?」と問う菅原の言葉に「実は――」と昨日の出来事を口にする。

「なるほど。なんともまぁ、ありがちな」
「けど実際起こると太刀打ち出来ねぇもんだぞ」
「まぁな。“私、いつもと違うと思ない?”に“思わない”なんて返した日にはグーパンが待っている」
「言ってないだけマシだろ」
「だな。でもそれだと合格点は貰えない」
「“どこが?”も中々にまずい回答だった自覚はある」

 自宅に帰るなり口角を上げ出迎えてくれたなまえ。その顔を見つめホッとする気持ちを抱きながら微笑み返せば、なまえはそれでは物足りないという表情を浮かべ尚も澤村からの反応を待ってみせた。対する澤村は「ただいま」以外の何を言えばいいのかが分からず「ん?」と小首を傾げ逆になまえからの言葉を待ってみた。
 その時に言われた言葉が先ほど菅原が発した言葉だった。言われた瞬間、今こそ職業を活かす時と澤村は瞳を忙しなく動かし、彼女の身体に視線を走らせてみた。……が、なまえへの身体検査は困難を極め、ついには「どこが?」と困り果てた声色で音をあげてしまった。
 そうして降参を示した澤村になまえは「じゃあ宿題ね」と言い付け、「大地には無理だったかぁ」と前髪を触りながらボヤいていたことも記憶している。

 大地には無理だった――彼氏として中々に不名誉な判断を下された。しかしそれを違うと突き返すことなど出来はしないということを、澤村は自分が歩んできた年数分思い知っている。だからこそ、せめて宿題だけはきちんとこなそうという思いが今日この飲みの席を設けさせた。飲食代くらいなら安い授業料だ。

「そういうのってさ、大抵“なんか可愛くなったな”って言っとけばいんじゃねぇの?」
「その“なんか”を訊かれてるんだろ。答えないとだめだろ」
「うっわ、真面目だな大地。そういうのはほら……こう、ふわっと、ふわぁっとぼやかしてさ。加えて“うん、可愛い”って爽やかに言えば通るんだって」
「お前いつもそうしてるのか」
「…………いやそれは、」

 そりゃ昔は? 1回くらいは? やり過ごしたこともなくはないこともないけれども? と、もにょもにょと教員らしからぬ口調で尻すぼみしてゆく菅原の声。何をどう答えても墓穴を掘ることを理解しているからこその反応とも取れるその行為。こういう感じでなまえの質問もやり過ごせばよかったのだろうかと澤村は考えたがすぐさま打ち消す。……自分には出来ないし、なまえにはそんなことをしたくないと思ったからだ。

「せっかくのご教授に感謝したいところだが、俺はやっぱりなまえを褒める時は胸を張って褒めたい」
「へっ出たよ、結局こういうのってノロケになんだよ」

 菅原の顔がやさぐれた苦々しいものへと変わる。そうして食いちぎられた串焼きは少々乱雑な食べられ方をしている。その勢いでビールを飲み干しお代わりをねだる菅原。澤村は財布の中にクレジットカードはあっただろうかと意識を飛ばした。こうなった菅原は留まることを知らないので、今日は介抱コースになるなとバレないように気合を入れ直す。

「ちょっと俺なまえに連絡してくる」
「おー。そんでついでに今のセリフそんまま言ってこい。万事解決だから」
「そんな簡単に行くかっつぅの」

 女心と秋の空って言うだろ。だから絶対大丈夫――投げやりにもとれる旧友の助言。それを半信半疑で抱え居酒屋から出た先、見上げた空はいつもより空気が澄んで高く見えた。

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