躾のなってない男

 幸郎はカラッとした初夏の日差しを連想させる。全体的にみると秋のような春のような冬のような気もするけど。カラッとした日差し――それを連想させるのは、物事との距離の取り方による部分が大きい。

 幸郎の、他の学生にある“思春期特有のがっつき”がない所が好きだなと思った。バレンタインも体育祭も文化祭も何もかも。はしゃぐでもなく、つまらなさそうにするでもない。フラットに一定の距離を保つその様が他の男子生徒よりも格好良く見えた。きっと恋愛事においても凪いでいるのだろう、好きだと伝えても「ありがとう」だけで済まされるのだろう。そんな気持ち半分で行った告白には、「じゃあ付き合おっか」という予想外の言葉が付け足された。

 一体どうして――その疑問はそこから始まった交際で解消された。幸郎は、恋愛事においてもやっぱりフラットだった。もちろん、こちらが求めればそれを嫌がることはしない。デートに誘った時も都合が悪ければ残念そうな表情で謝ってもくれる。ただ、その先はない。きっと幸郎にとって、私という存在は彼女になろうがならまいが自分の中にある尺度を変える人物ではないのだろう。
 私はそれでもいいと思った。そういう幸郎が格好良いと思ったし、好きになった。だから、遠ざけることさえされなければ今の関係性で充分幸せだと思えていた。

「今日話してた男、誰?」
「……えっ」

 まさか幸郎からこんな質問を喰らうとは。
 一緒に勉強しようと誘った自室で、隣に座ってペンを走らせることだけに集中していた幸郎から思ってもなかった言葉を投げられ、思わずペンの足が浮いた。……こんなの、彼氏が彼女に嫉妬して言う言葉じゃないか。それをまさかあの幸郎の口から聞くとは。

「なんか、距離近かった気がして」
「そ、そう? 委員会が同じで、書類見ながら打ち合わせしてたから……かな?」
「ふぅん」

 ふぅん、と訊いたくせにあまり興味が見えない返事を寄越す幸郎。一体どんな顔をしてるんだろうと下からそっと見上げてみたけれど、幸郎の顔はいつもと変わらなかった。……あの幸郎のことだから、もしかすると本当に気になっただけなのかもしれない。幸郎なら有り得る。自分の彼女とはいっても、そこに独占欲など一滴も落としそうにない男――というか、実際そうだと思っている。その考えが頭の大部分を支配しだして、“純粋に気になっただけ”なのだという結果に脳内で傾きかけた時。首筋にチクっとした痛みが走り、肩が跳ねた。

「……幸郎が?」
「キスマーク付けて“幸郎が?”って言葉を返されるとは思ってなかったな」
「いや……だって、えっ」

 顎を引いて目線を下げてみても、自分ではそれを確認することが出来ない。必死に顔を下げていると、頭上で幸郎の「うん」という満足な声が聞こえてきた。パッと目線を幸郎に移してみれば、幸郎は既にペンを握って勉強を再開していた。

「さ、幸郎、」
「犬がマーキングする理由、知ってる?」
「……縄張り意識とか?」
「それもある」

 それもある――ということは、私は幸郎にとって“俺のモノ”という認識ということだろうか。そう判断した途端、余計にキスマークが見たくなって必死に目線を下げてみた。どうにかして見たいという気持ちで続けていると「お回りしてるみたい」と今度は声をあげて笑われた。他人事のような物言いをする幸郎にちょっとムッとすれば、幸郎が体を動かし私の後ろに回り込んできた。その行為にまたしてもハテナを浮かべていれば、後ろから腕が伸びてきて近くにあったミラーを手繰り寄せそれを私の前に置く。そうして映りこんだ2つの顔のうち、後ろに居るにやけ顔が耳元まで降りてきて「こうしたら見える」と声を発する。振わされた鼓膜を辿って視線誘導された先には、先程感じた痛みの正体が染みていた。

「俺さ、別に欲がないわけでも、なまえのこと“そこまで好きじゃない”わけでもないよ」
「……っ、」
「犬のマーキングには挨拶目的とか、ストレスとかも由来するって知ってた?」
「すとれす?」
「そう。“もっと触れ合いたい”とか、“もっと構って”とか。そういう、飼い主の気を惹きたいって気持ち」
「それって……、」

 パッと横を向けば、思ったよりも近い距離に幸郎の顔があって思わず息を呑む。その瞳がいつもとは違っていたから。夏の日差しのように熱くて、梅雨の湿気のように濡れたその奥に居座る欲望を見いだした時、私はとんだ勘違いをしていたのだと理解した。
 無着なわけではなく、ただ大事にされていただけだった。それを幸郎の無欲さなのだと勝手に決めつけ、距離を取っていたのは私の方だ。それを悟った瞬間、幸郎の瞳が緩やかな弧を描いた。

「あまり勘違いされるのも癪だし、もっとたくさん付けておいたがいい?」
「えっ、わっ……」

 後ろにあった圧が退いたと思えば、体を押し倒され今度はその圧が影を落とす。私の体なんてすっぽり収めることの出来る巨体が、その顔をゆっくりと降ろす。段々視界が狭まっていき、遂には幸郎の顔しか映らなくなった時、思わず「ま、待って!」と両手でその口を覆った。……そうでもしないと心臓が爆発しそうだったから。年頃の男の子が抱えていた欲が目の前で爆発しそうな今、それを相手するのが私だけという状況に不安を覚えてしまう。しかも相手はあの幸郎だ。……我慢していたツケは大きいだろう。

「わ、私1人じゃ相手出来そうにも……ないです」
「ははっ。じゃあどうする? 俺はなまえでしか解消されないと思うけど」
「……っ、じゃ、じゃあ、とりあえず1回」
「うん」

 抑えていた手の力を緩めた瞬間、その手を一回りも大きい手に捕らえられ床に縫い付けられてしまった。その動作に驚く声はあっという間に塞がれ、1回だけという制限をゆうに超える頻度で繰り返し行われた。僅かに離れた瞬間を狙って言葉を紡ごうと試みても、波のように訪れる口付けにそれすらも溺れてゆく。手で肩を押そうにも、掌でぎゅっと握りしめられてそれすら叶わない。どうにか一瞬の隙間に「ま、待て!」と差し込めば「俺は犬なの?」と破顔させながらようやく離れてゆく幸郎の顔。
 余裕綽々という様子を見せる幸郎に対し、私の息はすでに上がり気味で心臓の音だってドクドクと異常事態を知らせている。言いたいことは色々あるけれど、それらは言葉にするよりも先に「でも、俺は犬ほど賢くないから」と不敵に笑う幸郎によって食いつくされてしまった。

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