桃源郷は存在しない

 電子音に叩き起こされないのは一体何年ぶりだろうか。ふかふかな寝心地とはいえないけれど、近くから香るい草が深い呼吸を誘い、健やかな目覚めを感じる。
 吸った息を吐きだすと同時に布団の中で伸びをすれば、体の上に被さったブランケットがずれて籠った熱が逃げてゆく。

「んーっ、」

 腹の底から唸るように上げた声を勢いにして上体を起こせば、縁側に提げられた風鈴がチリンと控えめに音を立てた。

「ほんまにええとこやなぁ」

 ここに押しかけて来て3日が経つ。あれだけ乱れていた生活リズムも北家で過ごすうちに綺麗に整えられ、目覚まし時計がなくても6時には起きられるようになった。仕事じゃない日にこんなにも早起きが出来るようになるだなんて。ここでの生活は体にとって健康そのものだと思う。ご飯も美味しくて、空気が澄んでいるおかげで夜空もとても綺麗で、人間関係において感じるストレスもない。

「ずっとここに居りたい」
「そう思うんは自由やけど。働きもせんで生活するんはただの怠けやで」
「……おはようゴザイマス」
「おはよう」

 キリっとした面構えで田んぼに出かける北は身なりも何もかも整っている。6時に起きて早起きだと喜ぶ私と違って、北にとって今日という1日は既にもう何時間も前に始まっているのだ。

「今日はどんな仕事するん?」
「除草作業」
「へぇ。腰、痛なりそうやな」
「色んな機械に助けてもろうてるし、そうでもないで」
「そっか。気ぃ付けてな」

 ここに来た理由は結構ありがちなものだ。仕事がうまくいかない――とか、彼氏と別れた――とか。そういうのが重なって、色々嫌になって有給とって逃げた。それだけ。
 とはいっても、“逃げ”に使われた北からしてみれば良い迷惑だろう。押しかけた時は説教を喰らう覚悟だったけれど、北は「そうか」と言うだけに留め、なにも責めはしなかった。

「結仁依ちゃんおはようさん」
「なまえちゃんおはよう」

 結仁依ちゃん――北のおばあちゃんは高校時代よりも少し背が縮んだようにみえる。それでもその口角に滲ませる優しい笑みは変わらなくて、いつでも私の心をゆっくりと穏やかなものにしてくれる。“ええとこ”だと思える理由の1つが結仁依ちゃんだ。

「押しかけてしもうてごめんな」
「ええよ。なまえちゃんとおしゃべりするん、楽しいもん」
「私も。結仁依ちゃんとおしゃべりするの好きや。ずっとおしゃべりしときたいわ」
「ほんまぁ? ほんならずっとここ居ればええよ」
「そうしたいとこやねんけどな」

 ほんまに、そうしたいけど。それやと働いとうとはいえへん。こんな生活を続ければきっと北から「働かざるもの食うべからず」ってそれこそほんまに説教喰らう。
 実はここに来た時、“北の仕事の手伝い”を目的として来た。でもそれは「農業体験とちゃう。素人が簡単に手出していいもんやない」と正論パンチで止められてしまった。

「ずっとここに居って良い理由がないし。休ませてもらった後はちゃんと働かんとあかんな」
「そう? 私はなまえちゃんが居ってくれたら嬉しいけどな」
「ありがとう」

 唐突に押しかけた私を拒絶するでもなく、嫌な顔するでもなく、優しく受け止めてくれる北家。ここは私にとって癒しの場所だ。だから色んなことが嫌になった時、来たくなってしまう。

「あ、そうや。なまえちゃんにあとでお遣い頼んでもええ?」
「うん! 何でも言うて。肩も揉んだるよ」
「うふふ、ありがとぉ」



「北ー!」
「どうした、みょうじ」
「差し入れ! 持ってきたで」
「そらありがたい。みょうじの手作りか?」
「……私が作れたら少しは北の役に立てるんかもやけどな」
「ばぁちゃんの代わりに差し入れ持って来てくれるだけでも充分やで」
「結仁依ちゃん、やっぱり腰悪いみたいやな」
「まぁ、な」

 日もすっかり上って太陽に温められた熱が地面から体を這いあがってくる。その炎天下で黙々と作業をこなす北を呼べば、木陰のあるあぜ道に座り込んで汗を拭う。その隣に座って麦茶を2つ用意してその1つを北に渡せば一気に飲み干す北。空になったコップを受け取りもう1度麦茶を注いでいる間に、北は風呂敷を広げて昼食の準備を始めている。
 テキパキと進める北からは、普段からこの行為を繰り返していることが伝わってくる。きっと結仁依ちゃんと何度もこうしてお昼ご飯を一緒に食べ続けてきたのだろう。

「ほんまに、ええとこやな」
「せやろ」
「ふふ。うん。私、ここ好きや」
「そうか」

 木陰の中で見つめる田んぼはいくつもの苗が根を張りこれから先の彩りを予感させる。北はこれだけの面積に植えられた苗1つ1つにちゃんと手をかけ時間をかけ、丁寧な手間を継続して米を作り上げるのだろう。その結果が美味しい米となってそれぞれの家に届く。そして毎日のように食卓に並べなられて、その日常に組み込まれてゆく。
 ここには北の全てが詰め込まれている。

「ずっとここに居りたなってしまう」
「そうか」
「でも、働きもせんのは怠けもんやし。あかんな」
「まぁ、働かんでぐうたらするんはあかんな」

 私の日常は、ここじゃない。忙しさに身を置いて、時折癒しを求めに来る。ここは私にとってそういう場所。いわば夢の国のようなものだ。

「せやから、たまに来る分は今回みたいに許して」
「来るも来おへんのも。全部みょうじの自由や」
「そやけど。やっぱり3日も働きもせず居候するんはちょっぴり申し訳ないわ」
「たまにやったらええんちゃうか。1人増えた生活が3日続いたくらい俺も何も思わへんし」
「なんや。北にしては優しいな」

 おにぎりを頬張りながら漬物に手を伸ばし、きゅうりを口に入れボリボリと咀嚼する北。じっと北を見つめてみても、北の視線は真っ直ぐと田んぼに向けられている。北の隣はパリっとした空気が漂っているけれど、それが心地良い。本当はたまにとはいわず、ずっと居たい。

「俺はみょうじが居りたいんやったらずっとここに居ればええと思うとうで」
「……えっ」
「ただ、居るからにはちゃんと働かんとあかんで」
「……えっ、で、でも……農作業には手出すなって」
「そら軽い気持ちで手を出すんはあかんよ」
「そ、うやな。うん。……えっ? じゃあ、」
「もしみょうじが本気でここに居りたいて思うんやったら。俺かて本気で色々教えるつもりでおるよ」
「……ええの?」

 窺うように訊いた声を北は田んぼから視線を戻し、真正面から受け止め「ちゃんと、するんやったらな」と笑う。

 北の笑った顔は、結仁依ちゃんによく似て可愛いなと思う。これからはもっとたくさん、隣でその顔を見れたら嬉しい。でもきっと、今よりも怒られる回数のが多くなるのだろう。それでも。私はここを日常にしたいと思う。

「が、頑張る!」
「おん。一緒に、頑張れたら嬉しいわ」
「……うん!」

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