さよならヴァルゴ

 忍田本部長はノーマルトリガー最強の男と名高い。実際ボーダー隊員の中で1位の座を手にしている太刀川でさえ打ち負かしている。ちなみに、私が忍田さんを師事していた頃も勝ち越しは叶わなかった。今となってはほとんど手合わせをする機会はなくなってしまったけれど、きっと結果は昔と変わらないのだろう。

 忍田さんは私に色々なことを教えてくれた。

 行く当てもなく荒ぶり、落ちぶれてゆく私を止めてくれたのも。剣術という生きる術を与え、私にも存在理由があるのだということも。何もかも忍田さんが教えてくれたこと。
 おかげで今では戦闘の際は軍事指揮官として隊員に指示を出すこともある。……とはいっても、私は指揮を執るより指揮の下で動く方が得意なのだけれど。

「なまえ。今帰りか」
「忍田さんこそ。今の今までお仕事ですか?」
「それが私の仕事だからな」
「じゃあ私もです」
「はは。それもそうか」

 今帰りかと声をかけてきた忍田さんも手には鞄が下げられている。恐らくその鞄の中にも仕事の資料がいっぱいなのだろう。この人が椅子に腰かけじっとしているだなんて、昔からは想像もつかない姿だ。昔はもっとこう……「やんちゃ小僧」では済まされないほどのとんでもないことばかりしていたというのに。

「それにしてもなまえは誰よりも訓練をしているようだな」
「一応は指揮を執る側の人間ですし。誰よりも強くないと」
「確かにそうだな」
「とはいっても、やっぱり私は誰かに指示を出すより、出される方がいいですけどね。言われた通り暴れる方が性に合ってます」
「やんちゃ娘に変わりはないようだ」
「そりゃあ忍田さんの弟子ですから」

 忍田さんの眉根が少しだけ下がる。自分の過去をからかわれたのだと分かり、辟易しているらしい。その様子がおかしくて「ふふふ」と笑ってみせれば「それよりも。私はたまには体を休ませることも大事だと教えたはずだが?」と説教モードへと切り替えられた。その言葉に負ける私ではない。

「それ以上の運動量で剣術叩き込んだのも忍田さんですけど?」
「……その減らず口は相変わらずだな」
「あだっ」

 本人からしてみたら軽いデコピンかもしれないけれど、受ける側したら激痛だ。この仕打ちはあんまりだとヒリヒリする額を抑え、抗議の目を向けると「送って帰ろう」と往なされてしまった。忍田さんはこういう所ばかり大人になっている。

「いいですよ、1人で帰れます」
「こんな夜更けに鉢合わせして、そのまま帰すわけにもいかんだろう」
「えー、平気ですって」
「なまえ」
「うっ……」

 あの頃は知らなかったけれど、ここ数年になって忍田さんの声に熱が籠ることが時折出てきた。その声で名前を呼ばれると、体の奥底からもぞとぞとした気持ちが沸き起こってしまうことも。何も知らなかったあの頃と今とでは随分と関係性が変わってしまったものだ。

 それはいけないものだと分かっているのに。無視しなくてはいけないものなのに。

「良いから。一緒に来なさい」
「……はい」

 手招かれる誘惑に屈し、その背中を追ってしまう。どこでスイッチが入るかなんて私には知らない。どこにあるのかも分からない。全部、忍田さんに教えてもらうしかない。



「ありがとうございました」
「あぁ」
「では、これで」
「……なまえ」
「は、い」
「これだけか?」
「う、」
「茶の1杯ももてなしてはくれないのか?」
「で、でも……」
「なまえ」
「だ、だって忍田さんは」
「なんだ」

 私が忍田さんを受け入れたくない理由なんて、口が裂けるほど言ってきたのに。何度も口にさせてはそれを無視して踏み込んでくる。まるでそれがただの建前であることを知っているかのように。

「わ、たしの友達の……」
「そんなの、私の気持ちの妨げにもならない」
「っ、でも私には……」
「本当に嫌なら帰る。なまえ、君は一体、本当はどうしたい?」
「ず、ずるいです……忍田さんはずるい……」
「ずるくないと大人にはなれないからな」

 そう言ってバイクのエンジンを止めヘルメットも脱ぐ忍田さん。私が答えを告げる前から答えなんて知り尽くしているくせに。あえて私に答えさせて建前をへし折ってくる。そういう律儀なところが彼らしくて、どうしようもない。

「さて、どうする?」
「……上がっていってください」
「そうか。ではお言葉に甘えて」

 甘えるだなんて、一体どの口が言うんだ。こんなにずるい人だなんて、全然知らなかった。ただ純粋に剣術だけを教わっていたあの頃がもはや懐かしい。

 私は忍田さんに色々なことを教え込まれている。

 歯止めがきかないほど荒ぶる想いも、いけないと分かっていても止まれず落ちてしまう気持ちも、求められる気持ち良さも、その想いにすがる心地良さも、何もかも。

 全部、忍田さんが私に教えてくれる。

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