ちゃんと

 もう限界。辞めたい。辞めてしまいたい。

「辞めたらええやんか」

 まさかこの言葉を信介から聞くなんて思ってもなくて。「何言うとんねん。ちゃんとせぇ」って叱られるもんだとばかり。信介が言いそうなことなんてこれだけ一緒に居れば聞かずとも分かる。それでも、週末の夜になればその先の月曜日を引き連れた感情が身を襲う。

「ブラック過ぎんねん……。もう嫌や……」

 信介は高校を卒業すると同時に農家になった。もともとおばあちゃんが小さな畑を持っていて、畑仕事をよく手伝っていたのだという。信介は大学には行かず、知り合いの農家から田んぼを譲り受けて1から開拓していった。
 農家仲間のもとに話を聞きに行ったり、今も机の上には資料が広げられていたりと目標に向かって“ちゃんと”している。これ以上勉強したくないし、という逃げから就職を選んだ私とは大違い。
 朝が早い信介とは、“この日”と約束をしていないと会うことは難しい。一般企業に就く私と農家として働く信介のスケジュールを合わせようとすると必然的に土曜日になる。というか、農家に休日なんてものは存在しないので、私に合わせてもらっているという言い方のが正しい。

「そんだけ辛いんやったら、辞めたらええやんか」
「せやけど……まだ2年しか経ってへんし、一人前にもなれてへん……」

 マーカーを滑らせる信介の手は止まらない。私と会っている時間は仕事から手を離そうとしてくれるけど、私は信介の真剣な表情を見るのが好きなので「勉強、しててええよ」と促している。許可を得てまで勉強をしたいと思ったことがない私には想像も出来ないけれど、「すまん」と断りを入れて資料を読み込む信介はすごく楽しそうなので私も嬉しい。
 彼氏はこんなにも立派に社会人として世の中に貢献しているのに。彼女である私は残業が多いことを嘆くばかり。信介に就労時間の長さを愚痴るのは恐れ多いことだとも思う。だけど、私が唯一弱音を吐ける相手は信介しか居ない。叱られて自分を律することが出来れば――心のどこかでそう思いながら吐露した本音を信介は跳ね返さず受け入れた。

「一人前かどうかは分からんけど。2年しかの意味はよお分からん」
「どっちも分かってへんやん」

 想像と違う信介の言葉に喰い下がれば、信介はマーカーを置いて私に向き合う。ぱちりと絡む視線の先は見慣れた信介の顔。“自分は普通である”という強い意志を宿す信介は、知り合った当時から私には普通には見えなかった。今だってそう。射抜くような鋭い視線は私の心の捕えて離さない。

「なまえがキツいと思うんやったら、キツいんや」
「それは……でも、自分が甘いだけかもやん」
「なまえはそんな人やない」

 きっぱりと言い切られ言葉に詰まった。信介から言われるとなんだかムズ痒い。恥ずかしさから視線を泳がせば「照れる場所でもないやろ」と冷静に切られてしまった。

「社会人やし、そらちゃんと働かんとあかんよ。せやけどそない暗い顔する程辛いんやったら、辞めたがええ。身体壊してしまうわ」
「でも……、」
「俺もそろそろ田んぼの面積増やそう思うとうし。俺と一緒に農業やってくれんか」
「……うん??」

 信介の言葉に思い切り首を捻った。農家の“一緒に働いてくれ”は他の人のそれとはちょっと意味合いが異なるように感じたからだ。意味を計りかねて、もう10度首を傾げてみせれば「結婚して欲しい」ととんでもない言葉を釣りあげてしまった。

「待っっっって。ちょお待って」
「ええよ。いつまでも待つ」
「うん。いやありがとう。でもな、ちゃうねん。そういう待ってやないねん」
「俺は何を待てばええ?」
「いや私の気持ちなんやけど。いや、ちゃう。……あぁいや、その、うーん…………なんでやねん!!」

 まさかこんな生粋のツッコミを自分がすることになるとは。嬉しいのと驚きと動揺と、プロポーズのタイミングが意味分からんのとがごちゃ混ぜになって「なんでやねん」が生み出された。

「なんでて。結婚する相手はなまえしか居れへんし。タイミングとしてどんぴしゃやん」
「うん。せやな。むっちゃええ時期やと思う」
「……俺と結婚するん、嫌か」

 信介が辿り着いた勘違いには「それは違う」ときっぱり言い切れる。私だって結婚する相手は信介しか居ない。ただ、あまりにも唐突で飲み込みきれないのだ。結婚に踏み切るのって、もっと慎重な1歩なんだとばかり思っていたから。

「信介と結婚はしたい。でも、こんな思いつきのプロポーズ受けると思ってへんくて。ちょっぴり驚いた」
「思いつきやないで。俺はずっとなまえと結婚したいて思うてた。お互い二十歳やし、俺も仕事が安定しだしたし、なまえは会社を辞めたがっとうし。……言うなら今やって思うて。今、結構勇気出しとう」

 信介の目を見ればその言葉が嘘じゃないことは分かる。というか信介は冗談でこんなこと絶対言わない。……こんだけ一緒に居っても信介のこと分かってないんやなぁ、私。

「せやけど確かにもっと色んなこと準備してから言うべきやったな。すまん」
「ううん。勇気出してくれたのに、ごめん。……私、会社辞める」
「なまえが辞めたいなら、それがええ」
「農業のこと、なんも知らんからちゃんと教えてな?」
「ええよ。ちゃんと1から教えたる」
「なぁ、信介」
「なんや?」
「プロポーズ、めっちゃ嬉しい。ありがとう、大好き」
「……俺も。ありがとうな、なまえ」
「幸せになろうな」
「せやな」

 これからは信介の隣で、信介のことをちゃんと知っていきたい。そして私のこともちゃんと知ってもらって、互いに支え合っていけたらいい。そんな毎日を過ごしながら、いつか自分たちで作った米でご飯を食べられたら。きっと、ものすごく美味しいのだろう。

 私の夢もちゃんと出来たよ、信介。

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