愛を塗す

 いつも、そういう雰囲気になった時に待ったをかけるのは私の方だった。少し近い距離で会話してる時とか、ふとした瞬間に訪れる沈黙とか。そういう、“キスをする雰囲気”というのは付き合っていると幾度か訪れた。カゲとキスしたくないわけじゃない。どっちかというとそろそろキスの1つや2つ経験しておきたいとすら思う。ただ、その1つや2つも経験したことがない私にとって、初めてのキスはとてつもなくハードルが高いのだ。

「カゲ」
「あー?」
「あ、あの、」
「……?」

 いつもカゲの視線から逃れ、その雰囲気を不意にさせてしまう私。だけどカゲはイラついたり、怒ったりすることはしなかった。いつだって体を少し脱力させ、手を私の頭に置いてぐしゃぐしゃと髪を掻き乱すだけに留めてくれる。その優しさが堪らなくて、どうしようもなく申し訳ないと思う。
 そして、自分の意気地のなさに愛想を尽かしたのはカゲじゃなく私自身だった。もうそろそろ勇気を出せ、私。必死に発破をかけながらカゲの名を呼べば、カゲも私の感情を察したらしく静かに私の言葉を待つ。

「き、キス……しよ」
「はぁ?」

 勇気をこれでもかと振り絞ったか細い声。その声を拾い上げたカゲは腹から唸るような低い声で応えてみせた。思わず顔を伏せると、頭上で揺れるカゲの気配。きっと彼は今困っている。いきなりそういうことから逃げてばかりだった彼女から「キスがしたい」などと言われれば無理もないだろう。カゲを困らせてしまっているのだと分かり、緩やかに自己嫌悪の沼にはまり始めた時。

「おい。なまえ」
「……、」
「顔見せろ」
「う、」

 要は顔を上げろということ。その言葉に従わないと、きっとカゲは私の頬を掴んで無理にでも上げさせるだろう。私がこういう感情にはまりかけている時、カゲは乱雑にその沼から掬い上げてくれることを私は知っている。だからこそこれくらいは自分でどうにかしようと素直にカゲの言葉に従って顔を上げれば。すぐさまカゲのカサカサした長い指が私の頬を下から掴み上げた。

「い、いひゃい」
「あー? んだテメェ。んな顔しやがって」
「これはカゲのへい」
「うるせえ。……良いのか、本当に」

 カゲのせいだとうまく回らない呂律で責めると、むぎゅっと指に力を込められ言葉の出口を塞がれてしまった。なんとも言えない顔のまましばらく見つめ合ったあと、私の感情に“拒否”が混じってないことを感受したらしいカゲが最終確認のように言葉を投げかけてきた。……多分、雰囲気に流されようと思っても私はきっと無理だ。ちょっとくらい強引に踏み込まなければ、いつか私は私を嫌いになってしまう。

「カゲと……キスが、したい……です」

 恥ずかしいとか焦りとか、色んな感情のその奥底に居座る本音を溢せば、カゲの手が頬から離れうなじに這わされた。そうして近付いてくるカゲ本体に思わず体がのけ反ってしまう。……あぁ、まただ。この少し甘めの雰囲気がどうしようもなく恥ずかしい。いつもより優しい力で触れてくるカゲの手も、ゆっくり近付くカゲの顔も。何もかもがいつもとは違っていて堪らなく恥ずかしい。バクバクと鳴り響く心臓に脳が慌ててストップをかけようと私の腕に命令を送る。これはきっと防衛本能に近い。

「おい」
「は、ハイっ」
「手、退けろ」
「うっ、」

 いつもだったらこの手をカゲは拒まない。その代わりに自身が退き、私の頭を慰めるように撫でてくれるのに。今日はそれをしようとはしないカゲ。これは私の望んだことでもあるので、どうにか言われた通りにしようと試みても手はカゲの肩口から離れようとはしてくれない。いい加減怒られても仕方ない――そんな焦りが湧いてきた時、カゲが私の手に自身の手を重ねてみせた。その手は頭を撫でてくれる時のように温かくて、こんな私でもカゲは大事に大事にしてくれていることが良く伝わってくる。

「俺を殺す気か?」
「……へっ?」
「なまえから言っただろ。キスしてぇって」
「そ、うです……ハイ」
「それ聞いてもう我慢出来る程俺は我慢強くねぇ」
「……ごめん、」

 カゲの手に覆われた自分の手をぎゅっと握りしめる。ついさっきまでストップの意味を持っていたその手は、今はカゲに縋る為にある。こんなに大切にしてくれる人に、私は今も我慢をさせてしまっている。その我慢の蓋は私自身が外したというのに。……ごめん、ごめんね。カゲ。そんな気持ちを縋る手に乗せれば、カゲの掌に力が込められた。

「あー焦れってえ。良いか。これが最後だ。……なまえ、本当に良いんだな?」

 死にそうな程焦らされたカゲが、最後の最後にもう1度だけ私の意思を確認してくれる。この人は、一体どれだけの優しさを持っているんだろう。結局意気地を見せられないでいる私を、あとは頷くだけの状態まで運んでくれるだなんて。
 もうこれ以上カゲを苦しめたくない。自分のことを嫌いになりたくない。その思いに背中を押され、ゆっくりと首を縦に大きく振ってみせる。私の答えをじっと見つめていたカゲは「こっから先はもう止まんねぇからな」と呟き、私のうなじに再び手を這わせた。

「ひゃ、」

 同時に背中にまわされていた手によって、体ごとカゲに抱き寄せられる。思わず目を瞑ったその先、過去最大に近い距離でカゲの気配を感じる。反射的にカゲの肩を押してもカゲの気配が遠のくことはない。そのままゆっくりと近付いてくるのが分かり、心臓が破裂するんじゃないかという速度で早鐘を打つ。目も口も肩も何もかも。身体中の筋肉という筋肉全てに力を込めてカチコチになる私の、今1番意識が集まっているであろう場所。そこに柔らかな感触が触れた瞬間、ビクっと肩が跳ね上がり喉から声にならない声が溢れた。

 カゲとのキスは思ったより長く続いた。カゲのことだから一瞬で離れていくのだろうと思ったにも関わらず、初めの1回は数秒の時をかけられたし、離れたあとも2、3秒の時をかけて幾度も繰り返された。その間まともな息継ぎも出来なかった私がついに「カ、カゲ、」と名前を呼んで縋るとようやく離れていくカゲの顔。……ちょっと今はまともにカゲの顔が見れそうもない。そんな思いでカゲから顔を逸らしても、ガッツリと抱きしめられたこの距離感ではあまり意味もないような気がする。

「恥ずかしいか」

 カゲは私の息が整うのをちゃんと待ったうえで私に今の気持ちを問う。……訊かなくても分かるはずなのに。あえて私の口から言わせようとしているカゲは、きっと不安で心配なんだろう。サイドエフェクトを持っていなくても分かるカゲの気持ち。その気持ちをカゲがいつも私にしてくれるみたいに拭ってあげたくて、私は素直に自分の気持ちを口にする。

「めちゃくちゃ恥ずかしい……くて、嬉しい」
「へっ。しようがしまいが恥ずかしいんなら、どっちも一緒だな」
「えっ? うわっ、わ、」

 私の気持ちを受け取ったカゲがもう1度手に力をこめ私を閉じ込める。そうしてもう何度キスされたか分からなくなった頃、私はある1つのことを思い知る。それは、カゲの愛情はとてつもなく大きいということ。

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