ありふれた日常

 何度も見つめ続けた黒い背中。あの頃より随分と逞しくなった背中は赤いユニフォームに袖を通し、世界と戦っている。

「あれ! 俺の後輩!」
「私の後輩でもあるし」

 アルコールによって赤くなった頬を弾ませながら何度も同じ自慢を繰り返す旧友。「ちなみに影山のサイン考えたのも俺」とドヤるスガは高校生だったあの頃と何ら変わりない。
 保護者からは“爽やか先生”と大評判なのだというのはスガ本人の証言なので信憑性に欠ける所。

「にしても。日向や影山はもちろんですけど、自分が実際戦った奴らも日本を代表するチームに居るっつうのはなんかこう……くるもんあるっスね」
「あぁ、だな」

 田中くんの言葉には大地が代表して返事をした。私はバレー部員ではなかったけれど、烏野をずっと応援してきた身として、田中くんと同じ気持ちを抱いている。

「俺らなんてちっぽけな存在だ」
「そう卑屈になるな、スガ」
「いやだって旭にも負けたんだぞ? あいつ今エジプトだべ? びゅん過ぎんべ」
「まぁ……それが大人ってもんだ」
「そんなのが大人だなんて、俺は学校で習ってない! 教えてない!」
「スガ……現実を見ろ」

 スガと大地のやり取りをみんなして笑い、こういう日常もアリなのだと分かち合う。日本を代表する人が居れば、オリンピック真っただ中に世界旅行へ旅立つ人も居る。宮城を出る人も居れば、出ない人も居る。
 私たちは宮城に残ることを選び、こうして集まれる関係性を選んだ。そのことを後悔する人は今この場には居ない。
 選択の連続の中で、私は今日を生きている。



「潔子さん、皿貸して」
「ありがとう。シンクに置いてくれたら私洗うから」
「うん、ありがとう」

 田中くんが潔子のことを“潔子さん”と呼ぶことは何年経っても変わってないけれど、言葉尻が砕けた口調になってからはどれくらいが経っただろうか。一緒に暮らしているんだし、2人の距離が学生時代よりもぐっと近くなることは必然ともいえる。……というかこの2人は夫婦だ。それが当たり前といっていい。

「田中と清水、未だに慣れない」
「嘘でしょ。さすがに慣れるわ」
「みょうじはあの田中が清水にタメ口って、変な感じしねぇの?」
「まー、それはある」
「だろ? なんか距離感に違和感。……お、これ韻踏んでる?」
「踏んでないから。てか大地、ビールもう飲まないの?」
「おう。明日早いしな」
「私送って帰るし、気にせず飲みな? たまにはいんじゃない?」
「さんきゅ」
「……違和感に距離感」
「まだ言ってんの? 踏めてないって」



「何にもねぇの?」
「何にもって?」
「大地とみょうじ」
「あー。ない」
「えー、まだ進展ねぇの?」
「進展もなにも。元から何もないし」
「はぁーやっぱ違和感」
「ウルサイ」

 田中夫婦は洗い物を。大地は職場からの電話対応を。残されたスガと私で片付けを。それぞれの割り振りで後片付けを行っている時、相方であるスガから慣れきった問いを投げかけられた。
 大地と私。この間に元から話題なんてない。……8年前、私が摘み取った。それなのにスガは今でもこうして水をやり、芽吹きはないかと様子を窺ってくる。

「大地とは旧知の仲。スガとも旧知の仲。旭とも潔子とも」
「そうだけども。お前らには学生の時から“旧知の仲”以上の何かがあったべや」
「……ないってば」

 誰かが空にしたビール缶を手にとり両手で抱える。それらを台所へと持って行き、潔子にすすいでもらう。そうして缶をべこっと潰し、ゴミ袋に入れ戻ってきた私にスガは尚も「大地のこと嫌い?」と追撃をかけてきた。流れを断ち切ったのに話題を戻してくるとは。……今日はやけに喰い下がるな。

「嫌いなワケないでしょ」
「だよなぁ。なのになんでフるかねぇ」
「付き合う理由がなかった」
「そんなの、付き合ってから見つければいいじゃん」
「簡単に言うわ」
「えー? だって「スガ、そこまで」

 ちぇ、と拗ねた顔を浮かべるスガに「まったく」と眉をひそめる大地。何故だか私が「ごめん」と謝るはめになってしまった。

「俺こそ、なんかゴメン」
「んーん。てか、スガが謝ってよね」
「何でですかぁ〜? “何がいけなかったか”そこを分かった上で謝らないと意味がないって、小学校の先生から教わらなかったですかぁ〜?」
「クソ教師」
「はい暴言〜! なまえちゃん、スガ先生はそんな言葉使いを教えましたか??」
「ごめんなさぁ〜〜い」
「ハァー? こんのクソガキ、表出ろ」
「クソ教師じゃん」



「悪いな。遅くなったのに送ってもらっちまって」
「いいって。私お酒飲めないし、大地の家通り道だし」

 田中家から歩いて帰れる距離に家があるスガのことは放り出し、大地と2人で乗る車。私の車に違いはないけれど、大地と一緒だとなんだかパトロールをしているような気分だ。現に助手席に座る大地の視線は窓の外へと這わされていて、彼の職業を思い知る。

「立派なおまわりさんだ」
「はは、そんなんじゃねぇよ。それに俺は特集番組に出るような課じゃねぇし」
「生活安全部だっけ? なんかよく分かんないけど、とにかく立派にやってるってことだけは分かるよ」
「それ本当に分かってんのか?」

 目を細め見上げるようにして私へと向けられる大地の視線。その視線に横目で「どうだろ?」と返せば「こら。脇見運転厳禁」と叱られてしまった。

「あ、なんか今の言い方部活中の大地っぽかった」
「そうか?」
「うん、なんか懐かしかった」
「……ほんと、懐かしいな。もう何年前だ?」
「8年前とか? わ……やば、高校時代がもう8年も前だって」
「……歳とったなぁ」
「私の前で歳のハナシ厳禁」
「はいすみません」
「次言ったら罰金とるから。点数も引くから。一発免停だから」

 今度は前を見ながら告げれば、「了解しました」と畏まった声が聞こえてきて思わず吹き出してしまう。
 8年。私と大地が“旧知の仲”で居続けることを選んだあの日から8年が経ったのか。
 普段は思い出すこともないけれど、今日はスガに絡まれ続けたせいでふと甦ってしまう。大地から告げられた「好き」という好意。それを退けた私の行為。あの日の選択を後悔することなく今もこうして大地たちとの関係を続けられている。

「私のワガママ聞いてくれてありがとね」
「ん?」
「いやほら……あの時、“友達のままで居たい”って。あれ、結構気まずかったんじゃないかなぁって」
「あぁ。……あったな、そんなことも」

 大地の声が懐かしそうに緩む。その声色にも後悔という文字は見つからないけれど、8年経った今だからこそ踏み込める話題だと言ってもいい。
 スガからは何度も訊かれた部分を、こうして当事者同士で話すことは初めてだ。

「俺はみょうじの気持ちも理解出来たし。“応援する”って言った気持ちも嘘じゃねぇ」
「うん。ありがとう」
「それに、“仕事を頑張りたい”っていうのは俺も同じだったし。良い発破をかけてもらったと思ってる」

 大地から告白されたのは、念願だった職業に就職が決まったばかりの頃だった。あの時は本当に仕事に専念したかった。だから、大地の気持ちを退けた理由に嘘はない。……だけど、それ以上に“ありふれた日常生活なんて送りたくない”という気持ちが強かった。
 バリバリ働いて、自分の足でしっかり立って、一人前の社会人として生きていきたかった。誰かと恋をして、なんとなく“そういうタイミングだから”と妥協のように結婚なんてしたくないと思っていた。……今思えば尖っていたのだ。とはいえ、そういう気概のおかげで8年経った今でもこうして自分の足で立てている部分も大きいけれど。

「でも私、ちょっとは丸くなったのかも」
「ん?」
「しみったれでも、ありふれた日常でも。良いじゃんって思えるようになった」
「みょうじ?」
「世界と戦うようなビックプレーヤーが居れば、地元でコツコツと仕事に勤しむ人だって居る。みんな、それぞれの生活がある。それはそれで、それぞれに幸せなんだよね」
「……? まぁ、俺は自分の仕事に誇りを持ってるし、こうしてお前らと集まれることも幸せなことだと思ってるよ」
「……ねぇ。大地」
「ん?」

 右折をする為に出したウィンカーがチカチカと小気味よい音を奏で、車内に鳴り響く。
 もう芽吹くことなどないと思っていたのに。どちらかが水をやった訳でもないのに。8年経った今、ひっそりと小さく、けれどもしっかりと根付いた芽が芽吹く気配がするのは何故だろうか。

「私のこと、まだ好きだったりする?」
「……それは……その、そういう?」
「うん。恋愛感情、あったりする?」
「ない……といえば嘘になる」
「そっか。……良かった」
「……どうしたんだ? 急に」
「ねぇ。すっごい自分勝手なこと言ってもいい?」
「あ、あぁ」
「私、大地となら“ありふれた日常”過ごしてみたいかも」
「えっ」

 右折を終えて、後は直進するだけの道のり。
 こんな風に思うまでに8年かかった。その気持ちを大地の家に着くまでにうまく説明出来るかは分からないけれど。大地はきっと最後まで聞いてくれるだろう。
 身勝手に芽吹いた芽を「今更だな」と笑うかもしれないけれど、摘むことはしないだろうなんて。変な自信があるのは気のせいなんかじゃない。

 だって、助手席から聞こえる大地の声が嬉しそうに笑っているから。

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