AM9:32

 都会で働く人間の殆どが電車通勤だ。私もその例に漏れず、朝から人でいっぱいの電車で座ることも許されず、振動に耐えていた。

 今日は会議に必要な資料を纏めて、それから――入社して数ヶ月の新米なりに仕事の内容を必死に整理している時。

 もぞり、とお尻に奇妙な感覚が走った。これはもしや……。思い当たる熟語が頭を過るが確認も出来ない。ピシリと固まる体になんとか指示を出し、体を捩ってみせるが生暖かい感触は尚もついてくる。

 もしかしたら誰かの鞄が当たっているだけかもしれない。そう思い込もうとするけれど、この生ぬるさは人間のソレだ。

 まさか自分が痴漢に遭うだなんて思ってもいなかったし、こういう場面に遭遇したら本当に声も出ない。誰か助けて――泣きそうになりながら心の中でそう叫ぶ。が、声にならない助けなど、誰も拾ってくれない。

 すぐに絶望が私を覆いつくし、顔を俯かせ必死に時が過ぎるのを祈る。その瞬間、後ろで何か大きな物体が移動するのが分かり、それと同時にお尻にあった手が離れていくのが分かった。

 咄嗟に振り向くと、大きな物体の正体は眼鏡姿の男性だった。まじまじとその顔を見つめるも、相手の顔はぼやけて見える。その理由が私の目が潤んでいるせいだと理解した途端、恥ずかしくなってパッと顔を前に戻してしまった。

 助けてくれたのになんて不愛想なことを――そう悔いる気持ちもあったけれど、なによりも今は溢れ出そうな涙と嗚咽を我慢することでいっぱいいっぱいだ。



 数分後に電車が停まる。目的地ではないけれど限界だった。人にぶつかるのも気にせず、駆け下りたプラットホーム。柱にもたれながら口を抑えてみても、必死に我慢していた分、嗚咽は止まってはくれない。手は震え嗚咽も零れ出る。そんな私のことを、朝の通勤ラッシュで急ぐ人々はチラリと見つめはするが、我先にと歩みを進めてゆく。

 それがありがたくて、寂しい。

……会社に電話しないと。でもこんな震えた声でどうやって。口に当てていた手をどうにかカバンに忍ばせるけれど、また涙が溢れて視界がぼやける。

「大丈夫?」
「へ、」

 水のペットボトルと共に差し出された声。その先を見上げると、そこには間に入ってくれた眼鏡の男性が立っていた。

「まぁ、大丈夫じゃなさそうだから声かけたんだけど」
「す、すみませ……、」
「相手、捕まえられなかった。ごめん」
「い、いえ……。あまり大ごとにはしたくないので……」
「そっか。でも、落ち着くまではここに居た方が良いね」
「あ、お水。ありがとうございます。それにさっきもお礼言えなくて、」
「いいえ。お礼言われるほどのことじゃないから」

 遠慮がちに背中を2度叩き、どこかに姿を消す男性。私の状態を見て、もう大丈夫だと思ったのだろう。こうして一緒に降りてくれただけでなく、お水まで与えてくれて。物凄く親切な行為を重ねてくれている男性に、私はちょっとだけ寂しいと思ってしまった。
 恐ろしいことがあった直後で、1人は心細い。でも、もうちょっと一緒に居て下さいとはさすがに言えない。それに、今会ったばかりの人に縋るのはちょっと抵抗がある。

 大丈夫。自己暗示をかけるようにぎゅっと目を閉じて息を吐く。だいぶ呼吸も落ち着いたし、今なら会社に連絡も入れれそうだ。

「ふぅ〜……」
「電話、俺がしようか?」
「えっ」

 深く息を吸うと同時に、男性が再び声をかけてきた。どこかに行ってしまったと思っていたから、思わぬ登場に目を見開いていると「その状態じゃ話、無理でしょ?」と優しい声で続けられた。

「で、でも……そこまでして頂く訳には……」
「んー、でもほっとけないし」
「あなたの時間も取っちゃってますし……」
「それは大丈夫。今電話入れてきた。俺の会社、そこまで出勤時間に厳しくないから」
「……で、でも」
「まぁ無理には言わないけど」

 だいぶ落ち着いた私を見て、ベンチへと誘導し1つ席を空けて腰掛ける男性。ホームには私とこの男性だけ。1人は嫌だけど、この人が居てくれるだけで心が不思議と落ち着く。……この人になら甘えてもいいのかもしれない。

「お、お願いしても……良いですか……」
「もちろん。番号教えて」
「あ、はい」

 男性は私から名刺を受け取ると、そこに書かれた会社名をポツリと呟き、番号を打ち込んだ後スマホを耳に押し当てた。

「突然の電話失礼します。私、赤葦と申します。実は今、御社に在籍されているみょうじなまえさんと一緒に居りまして。……えぇ。実はみょうじさんが電車内で体調を崩されてしまい、私が偶然そこに居合わせたものですから。はい、今はだいぶ落ち着かれていますので、もう少ししたら出社できるかと。……はい。不躾ではありますが、取り急ぎの連絡を私から差し上げた次第です。……はい、あぁいえ。では」

 数秒だけ間を置いてスマホを耳から離す男性――もとい赤葦さん。流れるような説明に思わず聞き惚れてしまったけれど、これは私の為にしてくれたこと。

「あ、ありがとうございました……っ、」

 そう言って頭を下げると「出社するって言ったけど、みょうじさん大丈夫そう?」と穏やかな声が降ってくる。

「はい。……あの、赤葦さん」
「ん?」
「もし良かったら赤葦さんの勤め先教えて頂けないでしょうか」
「そうだね。素性を明かさないのはダメだったね」
「あ、いえっそういう訳ではなく……! お礼に伺わせて頂ければと思いまして」
「そんな気遣い大丈夫だよ」
「……そ、で、でも、」
「でも一応名刺は渡しておくね。会社で何か言われたら俺がまた説明するから」
「あ、ありがとうございます……」
 
 次の電車を調べて「5分後か。俺、その電車で行くね」と予告する赤葦さんにそれに私も乗ることを告げると安心したように微笑んでくれた。

「また明日も同じ時間のに乗るんならさ。連絡くれたら近くに立つよ」

 そう提案してくれた赤葦さんに今度はすんなりとお願いしますと告げると「畏まりました」と頷いてくれる赤葦さん。

 お礼はその時に改めてしよう。心の中でそう呟いて、赤葦さんから貰ったお水をこくりと1口飲んだ。

 嫌なことの次は良いことがやってくるんだと、昔誰かが言ってたっけと思いながら。

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