その名を恋と云う

「なまえちゃんの仕入れは腕が良い」

 酒保に商品を買いに来る軍人に言われる度、酒保商人として嬉しくなる。兵営の酒保に何を仕入れるかの最終決定を下すのは上の人だけど、私の店に委託されるようになってから質が上がったと喜ぶ軍人は確かに多い。次はどんな商品を仕入れようか――そう考えながら歩いている時。

「百之助〜」

 軍人にしては明るい調子で名を呼ぶ声。軽い声色で呼ばれた名前に、私の心臓はドキリと重たい音を立てて弾む。その名を持つ人物を頭に思い浮かべ「百之助さん」と真似するように呟けば、「なんだ」と真後ろから応じる声が届き、先ほどとは比べ物にならない重量で心臓が跳ねるのが分かった。

「ピッ」
「ぴ?」

 わけの分からない鳴き声をあげた私に、尾形さんが首を傾げる。どうしよう。絶対聞かれた。“なんだ”って言ったってことはそういうことだ。……どうしよう。

「あ、あああのっ」
「なんだ」
「ちょっと百之助ってば。呼んでるんだから置いて行くなよ……って、なまえさんだ」
「あ、こんにちは」

 遅れてやって来た宇佐美さんがにこやかに挨拶を返す。そうしてその軽さのまま「ねぇ聞いてよ百之助」と尾形さんの名前を軽やかに呼ぶ。宇佐美さんが何度も尾形さんの名前を口にする度、私の中に恥ずかしさがこみ上げてきて堪らなくなる。

「おいみょうじ」
「ハイッ」
「さっき俺の名前を呼ばなかったか」
「いえっ! よ、呼んでなど……っ」
「そうか? おかしいな。確かに“百之助”と言われた気がしたんだが」
「ヒィッ」

 やっぱり聞こえてた。いや分かってたけども。……ちょっと出来心で呼んだだけなんです。卑しい気持ちは決して……いや、これも嘘だ。
 ずっと宇佐美さんが尾形さんのことを下の名前で呼ぶのを羨ましいと思ってきた。今日はその気持ちがついその名前を口にさせたのだ。まさかそれを本人に聞かれるとは思ってもなかったけど。
 気まずさから顔を伏せていれば、「へぇ〜」と宇佐美さんの笑う声が耳に届いた。やばい、バレた……! そう思い顔を上げた先には、“もう遅い”と顔に書いた宇佐美さんが「なまえさんもどうせなら百之助って呼べば?」とからかいの言葉を口にしてみせる。

「どうせならってなんだ」
「なまえさんってみんなから“なまえさん”って呼ばれるだろ? だからこの際百之助も下の名前で呼びなよ」
「……? それがなんでみょうじが俺のことを下の名前で呼ぶことに繋がる」
「だからどうせだって。百之助が下の名前で呼ぶなら、なまえさんも百之助って呼べば? って話」

 宇佐美さんの言葉に尾形さんは何も言葉を返さない。まるでこの会話に興味がなくなったようだ。私としては今すぐこの場から離れたいけど、尾形さんの足も宇佐美さんの足も動かないので私も離れることが出来ない。どうすれば良いだろうと悩んでいれば、「ほら。じゃあ先に百之助から」という宇佐美さんの言葉が展開を促す。

「なまえ」
「……っ! し、失礼しますっ!」
「あっ次はなまえさんの番……って行っちゃった」

 無理だ。あまりにも衝撃過ぎて思わず駆け出してしまった。だって……だって尾形さんの口からなまえって……! なまえって呼ばれた……! 衝動に身を任せてパタパタと走り、一定の距離を稼いだ所でふと足が止まる。

「百之助……さん」

 お返しのように口にした名前。そうすればそれに呼応するように思い起こされる「なまえ」という声。再びカァッと熱を持つ頬に手を当てたあと、それじゃ足りないと両手で顔を仰ぐ。……次会った時、なんて呼べば良いのだろう。尾形さん……はなんだか寂しい。
 百之助さん――と呼んだら彼は、また「なまえ」と私の名前を呼んでくれるだろうか。

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