夜の波

 極楽浄土に向かった一員が長い期間を越え帰還した。厳粛を正とする山田家もこの日ばかりは阿鼻叫喚、狂喜乱舞がない交ぜになる程だった。

 帰還者の中に士遠様の姿を見つけた時は、危うく極楽浄土が見えかけた。安堵から腰を砕かせ、へたりそうになった私を支えてくれたのは、逢いたくて恋い焦がれたその人で。

「どうしたんだいなまえ。化け物でも見たような面をしているな?」
「……御冗談が過ぎます」

 膨れ面を見せるとくすくすと可笑しそうに笑い、睫毛にかかった髪を梳いてくれる。その手の優しさがほんに士遠様であることを伝えてきて、堪らず抱き着いた。

「よくぞご無事で戻られました……!」
「うん。なまえに逢いたくて。だけど目だけはやられてしまったようだ」
「……それは元からにございます」
「あぁ、そうだったね」

 こうしてご自分の双眼について言う駄洒落ももはや懐かしい。思わず口角を上げると士遠様も“波”でそれを気取ったらしく、同じように微笑んでくれた。



「なまえは少し見ない間に随分綺麗になったようだ」
「あら。貴方様のお眼鏡にかなったようでなによりです」
「はは。成長したな」
「当たり前でしょう。私を一体誰とお心得で?」
「……私の大事な妻だよ」
「ふふっ」

 慌ただしい時間を終え、ようやく訪れた2人の時間。寝屋に敷かれた布団の上で睦言を交わし、愛おしい旦那様の胸元へしなだれる。

「……お帰りなさいませ。私の愛おしい旦那様」
「あぁ。なまえに逢う為に乗り越えてきたよ」
「お勤め、ご苦労様でした」
「お勤め――と言っていいかは少し首を捻ってしまうけれど」

 私の手をやわやわと握っては、その存在を確かめるようになぞってくる士遠様のかさついた指の腹。その指がつつつ、と腕を駆けあがりその先の顎先を捕らえ上へと向かせる。

 そうして見つめ合った顔と顔。士遠様と同じ様に瞳を閉じ、その後に続く口付けを待つこと数秒。いつまでも降ってこない士遠様からの施しを不思議に思い、瞼を開けると眉根の寄ったお顔があった。

「旦那様?」
「実はあちらに着いてすぐ、監視役の囚人から口付けをされてしまってね、」
「えっ……」
「直ぐに突き放しはしたんだが……。なまえを裏切るようなことをしてしまった。申し訳ない」

 言わなければ分らぬものを、士遠様はこうして馬鹿正直に懺悔する。決して簡単に垂れてはいけぬものであるのに、士遠様は私に向かって恭しく謝罪してみせる。……その話を聞いて、衝撃を受けたのは事実。だけれど、それ以上に士遠様が生きてここに居ることが嬉しい。だから。

「っ!」
「では、これでその口付けはなかったということで」
「……なまえはそれでいいのかい?」
「いいもなにも。過ぎたことにございます。今回に限り! 目を瞑りましょう」
「……それは私が向こうで使ってしまったな」
「まあ。夫婦ですから、似てしまったのでしょうか?」
「ふふ。そうかもしれないね」

 士遠様の指が顎から唇へと移動し、下弦を端から端へと滑る。そうして今度は掌全体で私の右頬を覆い、今度こそ施された口付け。あぁ、士遠様の温かさが伝わってくる。本当に、生きて、戻って来られた。それだけで私は幸せで、他の贅沢は全て放棄したって良い。

「あちらに行って知ったことなんだけれど」
「……何でしょう」
「私が日頃例えていた“波”なんだが」
「あぁ。旦那様が感じていらっしゃる――」
「そう。それの正体は“氣”というものらしいんだ」
「タオ……にございますか?」
「そう。それには相克、相生といって相性があるんだ」
「はぁ。……して、何故それをこの状況で?」

 この状況とは、私を組み敷いた状態のことにある。これから続くであろう久しい行為に、少なからず胸を高鳴らせている時にこの話題。この話題とこれからの行為の関連性とはなんぞや。その疑念を抱いていると、士遠様の手が私の寝間着にかかる。それに驚き、手で制止をかけると「嫌かい?」とわざとらしく尋ねてくる士遠様。
 分かっているくせに。そう拗ねても士遠様には通じない。観念したように手をどけると心なしか弾む表情。そうして寝間着を脱がせながら「私は木、なまえは水」とまたしても訳の分らぬ単語を口にしだす。

「水……?」
「そう。水の属性は木の属性にとって“相生”つまり、私のタオを高める存在なんだ」
「では、私は旦那様にとって良き相性ということですか?」
「あぁ。そういうことになるね」
「それは、なによりにございます。……しかし、やはり私の疑念は晴れませぬ」

 はだけた肌を掠る指先。それに呼び起こされる何かを奥底に感じながらも言葉を連ねる。ここまできたらこの話の行き着く先を知りたい。

「房中術――というのがあってね」
「ぼ、ぼうちゅうじゅつ……」
「なまえは博識だから察しがつくと思うけれど」
「それを、相生である私と行えば旦那様のタオをより高めることが出来る、ということでしょうか?」
「それを確かめてみたくてね」

 房中術がなにを意味するのかはなんとなく分かる。そして、その言葉が出た時点で士遠様のせんとすることも理解出来た。士遠様はいついかなる時も真面目にあられる。そのお姿を懐かしいと思うやら、少し寂しいと思うやら。
 なんにしても。士遠様の為になるのなら――私は喜んでこの身を差し出そう。

「では、試してみましょう。私はなにを致せばよいのでしょう?」
「はは。そうやって乗り気ななまえにもそそられるね」
「なっ……私は旦那様の為を思って……!」
「うん。それはタオを気取らずとも分る。だから、房中術はやめだ」
「えっ?」

 覚悟を決めて尋ねた言葉に、水をかけるようなことを言う士遠様。じゃあどうして今タオだの房中術だのを持ち出したのだろうか。士遠様の意図が汲めず、まじまじと顔を見つめても瞳の奥は覗けない。

「私はなまえと鍛錬をしたくはない」
「で、でも……」
「この行為は愛を以てするもの。だからなまえはただ受け取ってくれれば良い」
「あっ……、」

 その言葉と共に始まった夜。もっと沢山言いたいことはあったけれど、それら全て士遠様の口吸いによって吸い上げられた。それから先はただひたすらに、士遠様の起こす波を漂うだけの夜だった。

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