egoist
もうすぐ梅雨がやってくる。ただでさえ髪の毛がへばりついて鬱陶しいのに、空気中の湿気がそれをツタのように首に巻き付けてくるあの季節。
梅雨は嫌いだ。その先に続くうだるような夏も。何もかもをカラカラに乾かすあの灼熱は想像しただけでやる気を削ぐ。それなのにその前の季節はこんなにもじめじめとしている。
地球は一体人間をどうしたいんだろう。本気でそう思うこともしばしば。問うてみたところで、“お前らがそうしたんだろう”と地球には地球の言い分があるんだろうけど。
その点においては地球に何も言い返せない。人間は自分勝手だから。自分のやりたいように、都合の良いように、気に入らないものは見て見ぬふりか、徹底的に攻撃して除外するか。そのどちらかだ。地球は私達人間のことが嫌いなのかもしれない。勝手に棲みついて、我が物顔で居座る人間が。その気持ちは私にも痛いほど理解できる。
「今日は予告通りプール掃除なー」
「えー! バレーは!!」
「だから言ってただろ、晴れたらプール掃除だからって」
「えーーー!」
わいわいがやがやとうるさい教室。ただでさえ日差しがキツイのに、この教室から響く底抜けに明るい声は耳にくる。だけどその苛つきを顔に出した所で、私の感情なんて誰からも相手にされない。
私のことを誰も認識していない。まるで透明人間のようにして扱っている。それで良いと私自身思っている。
「はいじゃあ移動なー」
「バレーしたかったぁぁ!」
「いつまでもうるさいぞ! さっさと移動!」
「はぁい……」
しょぼくれた声をあげる男子生徒に、周囲の人間はその声に合わせたような明るさで彼を笑う。それがいつの日か青春の思い出になるのだろうが、のけ者にされている私からしてみれば良い迷惑でしかない。
「直射日光やばめ」
「あ、日焼け止め貸してー忘れたー」
「一緒行こうー」
色んな声をない交ぜにした後、それらを渦巻かせてごっちゃにした教室は誰も居なくなった所でようやくその雑音を教室に吸収させる。
シンとなった教室にぽつんと残された私はそこでようやくこの教室に私も存在しているのだと自覚することが出来た。
「……行こう」
本当はクラスの中に入りたい。私も皆と一緒になって日焼け止めの貸し借りや、廊下をゲラゲラと笑いながら歩きたい。だけど、私は地球が人間を嫌っているのと同じように、人間から嫌われている。
厳密に言うと1年の時に同じクラスになったカーストトップの女子からだ。入学当初は私もいわばキラキラ女子の中に居た。あの頃は毎日が楽しかった。友達とお気に入りのコスメとか香水とか、ヘアケアやアクセ、ファッションについて語り合って、意味もない笑い声をあげて。それらが楽しいことはあの日々で学んでいる。
その行為が取り上げられたのは、グループの中で最も発言力のある女子が好きだった男子生徒から告白されたのが原因だった。
傍から見ればそれも青春時代のよくあることとして笑い飛ばされてしまうかもしれないが、告白された側からしてみればそれは地獄の始まりだった。
勿論その告白は断ったが、いずれ広まるイベントだ。案の定その子の耳に入り、めでたく私はのけ者として扱われるようになってしまった。
あんなにコスメの話をしたのに。あんなに格好良い俳優の話で盛り上がったのに。次の日からそれら全ては私から遠のいてしまった。
代わりに与えられたのは孤独。何をするにしても全て1人。誰かに声をかけても向けられるのは冷たい目。
はじめのうちはめげずに作った笑みを浮かべてみせていたが、そのうちそれも無駄な努力だということに気が付いて、それも止めた。そうしてこれが私の高校生活なのだと割り切って2年生のクラスでも自ら独りを選び、過ごしている。
そうした方が惨めな気分を味合わずに済むから。少しでも自分の中に残った自尊心を保てる気がするから。そんな強がりを抱き、1人遅れて入った更衣室で顔がピシリと固まってしまった。
「うっわ、サイアク」
かちあった瞳を逸らしながら向こう岸の女子が声色を落とす。その声を受けて周りも同調するように私に冷ややかな目を送る。よくもまぁ半年以上も飽きずに容赦ない悪意を向けられるものだ。
隣のクラスになったあの時のキラキラ女子と運悪く鉢合わせてしまい、険悪な雰囲気が更衣室に漂う。周囲の人間はその雰囲気に巻き込まれないようにこちらを一切見ようとしない。
これも一種の孤独だ。誰も手を差し伸べてくれない。もう今更慣れたけど。
「行こ」
尖った声を発しながら乱雑にドアを閉めた彼女によって、空間的にも孤独を演出される。でもそれでようやくホッと一息吐けてしまうのだから皮肉なものだ。
私が一体何をしたというんだろう。……やっぱり人間は嫌いだ。自分勝手にやりたい放題。やられた側の気持ちなんて考えてもいないんだから。あぁ、髪の毛も邪魔くさい。何もかも鬱陶しい。
2時間設けられた体育の時間は私に孤独を感じさせるには十分過ぎる長さだ。体育や理科の実習は大嫌いだ。グループ分けを行う授業は私を惨めにする。本当はサボリたいが、1度サボってしまえばそこからなし崩しのように自我が保てなくなる気がして、今まで1度もサボったことはない。
そんな自分を褒めて鼓舞して続けたプール掃除もようやく先生の声と共に終わりが近づく。
「おーし、じゃあ最後は水で流して終わりなー」
「ヘイヘイヘーイ!!」
その声と共に一斉に浮ついた声が上がる。先ほどまでバレーが潰れたことを嘆いていた男子生徒は今では1番このプール掃除を楽しんでいるように見える。
「わー、もう木兎っ、濡れちゃったじゃーん」
「悪ぃ!……て、オイ! 俺のがズブ濡れじゃんか!」
「えへへ、仕返し!」
キラキラ女子達と盛り上がるその声の端をなるべく目立たないように、それでいて気にしていないかのようにそっと通り過ぎる。私も友達や好きな人とこうやって笑い合いたかった。眩しい直射日光に手を翳して日の光を見つめてみたかった。だけどそれら全てのけ者にされた私には出来ない行為だ。
日陰の中を誰の目にも入らないようにして過ごす。それが私に許された生き方。
全っ然楽しくない。……あぁ、早く季節が巡ってしまえば良いのに。梅雨も嫌いだし、夏も嫌い。人肌が恋しくなる季節も、何もかも。全部大嫌い。
へばりつく髪の毛と思考にイライラして髪を乱雑に押しのける。そうして反射的に顔を上げた時、思考を真っ白にするには十分過ぎる衝撃が体前面からぶつけられ、思わず体を硬直させた。
「悪い!! 手が滑った!!!」
パシャパシャと水を跳ねのけながら近づいてくる男子生徒を見上げ、その瞳を見つめる。
「大丈夫……じゃねーよな、ほんとゴメン!」
必死に謝る彼から悪意は感じられない。どうやら本当に故意ではないらしい。
「うわ木兎えぐ」
「みょうじさんかわいそー」
「ヤバー」
だけど木兎の向こうに居るキラキラ女子からは下卑た笑みが垣間見える。それが嫌で私は必死に謝っている木兎から目を逸らし「別に平気」とスタスタと歩みを進める。
「え、あ、ちょっ、みょうじ!」
髪の毛が含んだ水分が重力によって下へと落ちていく。ただでさえ鬱陶しいのに、水分を含んだことによってより一層の重みを伝えてくる。何なのもう。私が何をしたっていうの。どうしてこんな目に遭わないといけないの。
あぁ、もう、嫌だ。消えて無くなりたい。こんなことならいっそ、誰の目にも映らない存在になってしまいたい。
「みょうじ!! 待てって!」
「……なに」
体操服の重みや、髪の毛の重み、それらが伝播するように垂れ下がった私の顔を木兎はどうにか覗き込もうとしている。絶対に見られたくない。こんな捻くれた顔。見たら笑うに決まってる。
「怒ってる……よな?」
「怒ってない。怒ってないから、向こう行って」
「でも……」
「良いから! 放っといてよ!」
木兎の善意をへし折るように鋭い声を発する。自分勝手でごめん。でも、こうしないと私がまた陰で言われちゃうから。これ以上悪目立ちしたくないんだ。もうこれ以上私のことを誰からも認識されたくないの。だから、お願い。私に関わらないで。
「そんな顔してるヤツそのままになんて、出来ねぇだろ」
「っ、」
冷たい声で拒絶したにも関わらず、木兎は私の腕を掴んだまま静かに言葉を発する。しかもその力を少し強めて。まるで逃がさないとでもいいたげだ。
「みょうじが周りの女子とうまくやれてねぇのは何となく気が付いてた。……何があったんだ?」
「言いたくない」
「そっか。それもそうだよな。……悪い、こういうの、“野暮”って言うんだよな? とにかく、みょうじが元気なさそうにしてんの、俺ケッコー気にしてるんだぜ?」
「……そう」
「うん! だから何か話したいことあったら俺に話してみ? 話を聞くくらいなら出来るし! な!」
「……木兎って、意外と良いヤツなんだね」
「意外ってのが余計だ!……わ! 冷てっ」
頬を膨らませ、目を吊り上げてみせた木兎の頭皮をシャワーの先から零れ落ちた水滴が襲う。その水滴に驚いた木兎によってここが丁度シャワーを浴びる場所だということに気が付き、私は木兎の腕から抜け出す。
「木兎は自分がもし周りとうまくやれなかったらどうする?」
「俺か?……うーん、そりゃヘコむけど、気にしない!」
「気にしない、ねぇ」
「あぁ! だって、それ気にして合わせたって結局キツイだろ? どっちもキツイなら、気にしないキツさを選ぶ!」
「……そういう所が周りを惹きつけるんだろうね」
「? そうなのか? 良く分かんねぇ」
私の言葉に本気で首を傾げる木兎を笑って、シャワーのレバーを捻る。
「っ!? わっ、ま、待って! と、止めろ! おいみょうじ!」
「さっきのお返し」
「うわ、まじかよ! 冷てぇ!」
一気に水浸しになる木兎。シャワーから抜け出せば良いのに、と慌てている木兎を見て思わず笑いがこみ上げてくる。
「わっ!?」
「ここまで来たらみょうじも濡れろ!」
「は、はぁ!? 何その理論!?」
「おっしゃぁぁ! 水遊びだ!」
「止めて! ちょ、木兎っ!」
「ヘイヘイヘーイ!」
鬱陶しくて仕方なかった髪の毛を木兎によってくしゃくしゃにされる。視界が水や髪の毛で覆われて良く見えないけれど、隙間から覗く木兎の笑顔は真っ直ぐと私の瞳に届く。
どこまでも自分勝手で、それでいてその自分勝手を全力を楽しんでいる木兎が羨ましいと思った。私もこんな風に周りの目を気にせずに過ごせたら。もっと、今よりも楽しい毎日が訪れてくれるのだろうか。
「てか木兎着替え持ってんの?」
「……持ってない!」
「え、ヤバイじゃん」
「それならみょうじもヤベェだろ」
「私は下水着だし」
「えっ」
「……なに」
「……いや、なんか……エロいなぁって」
「はぁ!? 何それ!……見んなバカ!」
「痛ぇっ! 俺巻き込まれただけなのに!」
遠くから「お前ら何やってんだ!」と荒ぶる先生の声が聞こえてくる。その声に慌ててシャワーを止めて、ようやく止んだ雨。その場に残された互いは水浸しで。ほんと、何やってるんだろう。
「木兎の髪、しょぼくれてる……」
「いやみょうじもだからな」
「ふはっ、やっば……おっかしい!」
「なっ、わ、笑うなよなぁ!」
「あはは! やばい! 駄目、無理っ、笑う……っ」
さっきまで感じていた鬱陶しさはもうどこかに消えた。それは先生に2人で取り残されて怒られている間も、そんな私達を生徒が好奇の目で見ている時も、キラキラ女子が私を睨んでいる時も、もう顔を覗かせることはなかった。
それはもしかしたら、隣に木兎が居たからかもしれない。
「みょうじのせいで怒られたんだからなー?」
「ごめん」
「けどさ、スッゲー楽しかったな!」
「……そうだね」
やっぱり、地球にはもう少しだけゆっくり自転欲しい。梅雨は嫌いだし、夏も、秋も冬も春も嫌い。だけど、もしかしたら好きになれるかもしないから。木兎の隣で、ゆっくり味わってみたいと思っちゃったんだ。
人間ってやっぱり自分勝手だ。