交差する時間 | ナノ
 




波の音が聞こえる。





それと同時に、鼻につく磯の香り。





懐かしいと思ってしまうのは、十年もの間、自分がいた環境のせいだろうか。





けれど、今自分がいる場所は、そこまで海を身近に感じられない。










2、Undress 











ぼんやりと目を開ければ、そこは見慣れた天井ではなかった。
自分の部屋ならば天井にあるべきそれが見あたらない。
それどころか、木の節目がよく見える。
頭だけをゆっくりと巡らせれば、自分が横になっているのは和室だということがわかった。
けれど、つい先程までは自分の部屋にいたはずなのに、どうしてこんな場所にいるのだろうか。


それ以前に、自分はどこかで似たような経験をしたことがなかったか。


どこか違和感を感じる。
それと同時に、既視感も。


(そうか、ここ、磯の香りがするんだ)


くん、と一度鼻が捉えた匂いを嗅ぐ。
海に近い場所なのだろう。
身体を包む匂いと空気が懐かしい。
けれど、それは同時に有川家ではないことを意味する。
有川家は、そこまで海に近くはない。
ならば、ここは一体どこ?



ぼんやりと考えていれば、どすどすと足音をさせて廊下を渡ってくる音が聞こえてきた。
恐らく、自分をここまで連れてきた人なのだろう。
ならば、本人に直接聞いた方が早いかもしれない。


「入るぜ」


返事を待たずに障子が開く。
それは、未だ浅水が寝ていると信じてのことか。
けれど、声を掛けたということは、目を覚ましているかもしれないということを考慮に入れてのことか。
どちらにせよ、返事を返すことも、布団から起き上がることも間に合わなかった浅水は、横になったままの状態で来客を迎えることとなった。


「あぁ、目が覚めたみたいだな。どうだ?どこか、調子の悪いところはあるかい?」


自分の身を案じてくれるのはありがたい。
けれど、入ってきた人物に、浅水は開いた口がふさがらなかった。
まるで水中から陸に揚げられた魚のように、ぱくぱくと口を開閉させる。


「……お嬢さん?」


そんな浅水の様子を不審に思ったのか、彼は訝しげに眉を顰めた。


(どうして……)


目の前にいる彼は、自分の知っている姿よりも随分若い。
そう、まるで出会った頃と同じくらいに。


「あ、の」

「ん?」


ようやく声を発した浅水に、どこか安堵の溜息をつくのがわかった。
自分の次の言葉を待つ沈黙が、とても居心地の悪さを感じさせた。
一体どこから話せばいいのかわからない。
そもそも、どうして自分が再びこの場に来るはめになったのだろうか。
これが夢であるとすれば、自分は今、現代の自分の部屋にいるはずだ。


「……助けていただいて、有難う御座いました?」


自分が寝ている事から導き出した言葉だが、果たしてそれが合っているのかわからない。
それ故、疑問系になってしまう。
礼を言われた方も、やはり違和感を感じたらしい。
一瞬、ぱちくりと瞬きをすれば、豪快な笑い声を上げた。
そういえば、この人はいつもこうやって笑っていた。
心の底から楽しむように。


「お嬢さんは俺に礼を言うが、助けられた自覚はあるのかい?」

「いえ。けれど、こうやって私が床についていると言うことは、そういうことじゃないんですか?」

「目が覚めたばかりだってのに、随分と頭の回転がいいんだな」


小首を傾げながら問えば、彼は不敵な笑みを浮かべて見せた。
そうやって笑ってみせると、本当にそっくりだ。



ヒノエに。



どうしてここに辿り着いたのかはわからない。
けれど、ハッキリと言えることがある。
ここは、過去の熊野なのだと。
目の前にいる彼──湛快──は、自分が熊野に来て初めて会ったときと変わらないように感じる。
それはすなわち、湛快が現別当だということ。


「とりあえず、着替えを持ってきたんだ。着替えるかい?」


そう言って彼が差し出したのは、質素でありながらもそれなりの品だとわかる。
伊達に、自分も水軍として航海に出ていた訳じゃない。
それなりに見る目はある。


「こんなに立派な着物、いいんですか?」

「何、お嬢さんが着ていた物に比べりゃ、そうでもないさ」


その言葉に、浅水は思わず我に返る。
自分が着ていたのは祖母の着物だ。
過去に熊野に辿り着いたときは、姿が変わっていたせいもあって、着ていた服まで変化していた。
今の自分の姿は確認していないからわからないが、仮にこちらの世界の姿だったらまずいんじゃなかろうか。
この世界には幼い自分がいる。
成長したときに、今の自分と同じ姿というのは有り難くない。
けれど、記憶を掘り返してみても、この時期に自分と会った記憶はない。
となると、今は現代の姿なのだろうか。
だが、今重要なのはそれではない。


「あの、私は何か身につけていませんでしたか?……鱗のような物、とか」

「いや。俺が海からお嬢さんを引き上げたときには、何も持っていなかったぜ。もしかしたら、海に流されちまったかもしれねぇな……」

「そう、ですか」


わかりきっていたことだが、これで帰る手だてはなくなった。
自分の部屋の机にあった、白龍の逆鱗。
それを手にした途端、自分は再び流された。



過去の熊野に。



けれど、今はその逆鱗が手元にない。
アレがなくては、元いた時空に戻れない。
今の自分が現代の姿ならば、何も出来ないというのに。


「そんなに大事な物だったのかい?」


見るからに落胆した浅水を見て、湛快はそっと尋ねた。
熊野の地に落としたというのなら、烏を使って探すことも出来る。
だが、さすがに海の中は話が別だ。
ここでわめき散らされたらどうしようかと、湛快は必至に思考を巡らせていた。


「なくなってしまった物は、仕方ありません。多分、何とかなると思います」


けれど、至極あっさりとした返事を返され、逆に呆けてしまう。
諦めがいいというか、潔いというか。


「気に入ったぜ。お嬢さんは、随分といい性格してるみたいだ。」

「有難う御座います」

「俺は湛快。お嬢さんは?」


名を問われ、思わず口ごもる。
ここには自分と同姓同名がもう一人存在する。
さすがにそれでは何か気付かれてしまうだろう。
かといって、偽名を使おうにも、その偽名が咄嗟に浮かんでこない。
どうすべきか……。


躊躇いは一瞬。

決断は、その直後。















「浅水といいます」















名乗った直後、湛快は浅水の顔を凝視するように覗き込んだ。
その様子からして、幼い自分はやはり湛快の庇護の元にいるのだろう。


「へぇ、偶然ってのはあるもんだな。俺の養い姫も、浅水っていうんだ」

「熊野権現様のお導きでしょうか?」


微笑を浮かべながら何事もなかったかのように振る舞う。
これ以上追求されないのは、今の姿と湛快の元にいる浅水の姿が違いすぎるからだろう。
寝具から起き上がろうとすれば、湛快が背に手を回し起きるのを手伝ってくれた。
そのまま部屋から出て行くのかと思いきや、浅水の方に背を向けて座り直す。
これは、このまま着替えろと言うことだろうか。
この熊野に害をなす人間かどうか、見極めるためでもあるのだろう。



熊野別当はいつだって、熊野を大切にしている。



嘆息一つついてから、浅水は着せられていた着物を脱ぎ始めた。
下を向いたときにい頬にかかる、短い髪。
それだけで、自分の姿がどんなものか想像がついた。
湛快が持ってきてくれた着物を見れば、あまり華美な物ではなく、どこか控えめなそれ。
自分くらいの年頃ならば、この柄は少し大人しすぎる。
どちらかと言えば、朔が選びそうな柄だ。
そう思ったときに、再び自分の髪に触れる。
そういえば、この時代の女性は髪を長くしているもの。
もしかしたら、湛快は自分を尼僧だと思ったのかもしれない。


(なんだって、こう面倒ばっかり……)


後から説明しておかなければ、と思いつつ、今は着替える方が先だ。
帯を解き、床に下ろす。
薄い着物一枚だけを身につけられていたらしく、元々身につけていたはずの下着は身につけていなかった。
そのまま着物も脱いでしまうと、裸体が露わになる。


「そういや、浅水はヒノエを知っているのかい?」

「え?」


衣擦れの音が聞こえ始めると、思い出したように湛快が口を開いた。
突然どうしてそんなことを聞くのか。
確かに自分はヒノエを知っている。
けれど、起きてから今まで、ヒノエという名を口にはしていなかったはずだ。
チラリと湛快の様子を確認しながら、彼の持ってきた着替えの中から襦袢を探す。


「いや、俺の気のせいならいいんだがな。浅水を助けたときに、俺を見て確かにそう言ったんだ」

「さぁ?私には、わかりかねます」


その言葉は事実だった。
湛快を見て、確かにヒノエにそっくりだと思った。
けれど、それを口にした記憶がない。


「そっか」


ただの確認だったのか。
それ以上湛快が何かを言うことはなかった。
その間に、ようやく見付けた襦袢に袖を通す。
さらりと肌に触れる布の感触。
それだけで、どれだけ高価な物かわかってしまった。
どこの誰かも知らぬ人間に、どうしてここまで。
襦袢に袖を通したきり、固まってしまった浅水には、遠くから聞こえる軽い足音など耳に入っていなかった。


「親父ーっ!」


ガラリと勢いよく開いた障子。
それと同時に聞こえてきた幼い声は、確かに耳に覚えがある。
思わずそちらを振り返れば、懐かしい彼の姿。


「オレに用って一体な、に……」


けれど、その言葉は最後まで続かなかった。
一体どうして、と思ったときに、浅水はようやく今の自分の姿に思い至った。


「あ……」


そういえば、今は着替えの途中だった。
しかも、襦袢に袖を通した物の、ただそれだけ。
あられもない姿は、浅水の正面にいるヒノエの視界に直接入る。
一呼吸置いてから、まるでゆでダコの用に顔を真っ赤にしたヒノエは、慌ててその場で回れ右をした。
その際、開けていた障子を閉めるのも忘れない。


「バッカ野郎!いきなり開ける馬鹿がどこにいるっ!!」

「わっ、悪かったって!でも、着替えてるなんて思わなかったんだよっ!」


直後聞こえてきた怒声と、慌てて弁解する声。
そのどちらも酷く懐かしい。
自分が二人を宥めるためには、まず着替えを済ませなければ。










着替え終わるまで、あと少し。










神が棲む場所 
2008.3.27



 
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