福寿草 〜こころつむぎ〜 | ナノ
 




「お帰りなさい」


そう言って、満面の笑顔で出迎えてくれる妻の姿に、思わず顔の筋肉が緩むのを感じる。
それまで考えていたことが些細なことに思えるのは何故だろうか。
けれど、いずれは考えなければならないこと。
だが、そこまで切迫した状況ではない。
考えるのはもう少ししてからでもいいだろう。


「ただいま帰りました」
「お疲れ様、大変だったでしょう?」


目の前にいる彼女に帰宅を告げれば、労いの言葉が返ってくる。
確かにいつもより疲れてはいるが、那由多の顔を見ただけで随分と疲れが取れたような気がする。
何て単純な、と思わずにはいられない。


「そういえば、ヒノエはもう帰ったんですか?」


今朝、庭から現れたヒノエはそのまま邸に上がった。
彼の履き物がここに見当たらないのはそれが理由だ。
だからこそ、彼が六波羅のアジトに戻ったのか、未だに邸に滞在しているのかが分からない。
その確認を兼ねた問いかけだったのだが、答えたのは那由多ではなくヒノエ本人だった。


「その口ぶりじゃ、オレに帰って欲しかったみたいだね」


少し離れた場所にある柱に背を預けて立っているヒノエの姿を確認すると、そんなことはありませんよ、と小さく苦笑する。
どうだか、と返してくるヒノエの口調は、どこか皮肉めいていた。

邸の中に足を踏み入れれば、ふわりと香る匂いに胃が刺激される。
どうやら彼女は夕餉の仕度をしていたらしい。
そういえばそんな時間だったか、と思わず納得してしまう。
普段なら、診療を終えて二人で帰ってきてから夕餉の仕度に取りかかる。
その為、夕餉が遅くなるのは日常茶飯事だ。
帰って来てすぐに夕餉にありつけることは、那由多が市に買い出しに行くときくらい。


「もう少しで夕餉が出来るから待っててくれるかしら?」
「ええ、構いませんよ」


普段はもっと遅い時間の夕餉だ。少し待つことくらい、何と言うことはない。
それにヒノエと話したいこともある。
那由多が席を外している今、これほど好都合なことはないだろう。
チラリと視線をヒノエへ移せば、それだけで理解したのかヒノエが軽く頷いた。
相変わらず頭の回転が早くて助かる。

言葉にしなくても、こちらの言わんとしていることを理解してくれるのは那由多と同じ。
それが血の為せる業かどうかは分からないが、一々口にしなくてすむのは有り難い。
これが九郎ならば、ちゃんと言葉にしなければ理解してもらえないのだろう。


「じゃあ、出来たら教えるから部屋で待っていて頂戴。ヒノエ、後はよろしくね」
「ああ、姉上の頼みだからね」


そう言って、ぱたぱたと厨へと戻っていく那由多の後ろ姿を二人で見送る。
那由多の姿が見えなくなれば、その場に流れる空気が微妙に変化した。
それはどこか緊張感を孕んだ物。


「では、僕の部屋へ行きましょうか」
「野郎と二人きりってのは勘弁して欲しいけど、こればっかりは仕方ないからな」


相変わらずの口調は三年前のそれと変わらない。
けれど、本心からそう思っていないことは明らかだ。


「彼女に関係することですからね」
「……あんた、本当に変わんねぇな」


言葉に含みを持たせれば、途端に顔を顰める。
年相応な彼のそんな表情に少しだけ笑みが浮かんでくる。
自分が捻くれていることは、誰に言われずとも重々承知している。
今更それを変えるつもりはないし、身体に身についてしまったそれは変えられる物でもない。



だからこそ、それを貫き通す。



身についてしまった習性を正そうとすれば、きっと何事だと思われるに違いない。
もっと年老いてからならまだしも、今それをするのは自分にとっても得策ではないだろう。


「この性格は変えようがありませんよ」


そんなことを思いながら返事をし、ヒノエを自室へと促す。
あまりこの場で時間を取られすぎて、那由多が呼びに来てしまっては元も子もない。
それに、今日彼と話が出来なければ、後日改めて来てもらうことになる。


いくら平穏な日常が戻ってきたとはいえ、彼は熊野をまとめる別当だ。
いつまでも熊野を空けてはいられないだろう。
今回の来訪だって、ようやく時間を見付けることが出来たから、と文に綴られていた。
それを思えば、いくら弁慶とはいえあまり時間を掛けようとは考えない。


邸に上がり、薬箱を持って歩き始めれば、弁慶の後をヒノエが付いてくる。
それを気配で確認しながら、弁慶は何も言わずに自室へと足を向けた。















四半刻後。
夕餉の仕度が出来た那由多が二人を呼びに行こうとしたが、どの部屋で待っているのか分からないことに気が付いた。
いつも弁慶と食事を共にしている、厨の隣にある部屋に二人の姿はなかった。
確かに部屋で待っていてと言ったのは自分だが、その部屋を指定していなければ意味がない。
狭い邸だから、捜すのに時間は掛からないだろう。
それに、隣の部屋にいなければ、二人が行きそうな場所は弁慶の私室しかない。

暇を見ては那由多が掃除をしている彼の部屋は、昔のように荷物が山積みになる事はなくなった。
ちゃんと足の踏み場もあるし、何よりその部屋で寝ようと思えば寝られるのだ。
二人が何か重要な話をするのなら、弁慶の部屋でしていると考えて当然だろう。


もしかしたらまだ話は終わっていないのかもしれない。


そんな考えが頭の中を過ぎったが、せっかく出来た夕餉。
冷めてしまっては美味しく無くなってしまう。
そう思うと、二人に夕餉を食べるか否かの確認だけでも取らなくては、と考える。


「ヒノエ?」


そんな矢先、こちらへ向かって歩いてくる人影に思わず首を傾げた。
その人影は一つで、こちらの方向にあるのは厨と玄関だ。
ヒノエの好みは幼い頃から知っているので、夕餉に関しては何ら問題はないはず。
だとしたら一体──?


「や、姫君」
「もう話は終わったの?ちょうど夕餉の仕度が終わって、二人を呼びに行くところだったのよ」


呼びに行く手間が省けた、と那由多が喜べば、申し訳なさそうな表情のヒノエが視界に入った。


「姫君の夕餉は惹かれる物があるけど、今日はこれで帰るよ」
「今から?随分急なのね」
「悪いね、オレもちょっとやらなきゃいけないことがあってさ」


弟が多忙であることは重々承知している。
年若くても熊野別当なのだ。
決して暇と言うことはないだろう。
久し振りに会えたというのに、もう別れなければいけないと思うと、多少の寂しさが胸の中を過ぎる。


「安心しなよ、また会いに来るからさ」
「そう、ね。待ってるわ」
「ああ」


見送りはいらない、というヒノエの言葉を無視して玄関先まで見送れば、夕餉を取るために邸へ戻る。
ヒノエが帰ったと言うことは、弁慶も今頃部屋から出て来ただろう。
彼がヒノエを見送らなかったのは、本人がそれを拒んだためだろうか。


「ヒノエは帰りましたか」
「心配なら、ちゃんと見送れば良かったんじゃない?」
「僕がそんなことしたら、ヒノエはきっと嫌がりますよ」


くすくすと笑みを零す弁慶に、やはりそうかと納得する。
二人の関係は相変わらずらしい。
きっと、このまま関係が変わることはないのだろう。


「それじゃ、夕餉にしましょうか」


てっきりヒノエも食べていくと思い、いつもより多く作ってしまった。
余った分は明日に回せばいいだろう。
そう考えながら、二人は邸の中へと戻っていった。















いつもと変わらない夕餉の風景。
ただ、今日は那由多が診療に行かなかったので、そこであったことを弁慶から聞く形となった。
患者の様子だとか、怪我と病気のどちらが多かっただとか。
補充しなければいけない薬などの話を一通りすれば、今日の仕事についての話題はそれで終わりになる。


途端、その場を包む静寂。


ヒノエが帰っただけで、こうも静かになるのだろうか。
そんなことを弁慶がぼんやりと思っていれば、小さく音を立てて那由多が箸を置いた。


「ねえ、弁慶」


真っ直ぐに自分を見つめてくる瞳は、いつだって変わらない。
まるで、自分を捉えて離さない。


「何ですか?」


那由多に会わせるように弁慶も箸を置き、真っ直ぐに彼女を見据える。
一体何を思い、何をその胸に秘めているのだろうか。
逡巡の後、意を決したように那由多はその口を開いた。





「私に、何か隠し事をしていない?」





ひゅ、と弁慶は思わず息を呑んだ。
何故、と聞きたかったが、賢い那由多のこと。
きっと何かしらを感じ取っているのだろう。
だからこその問い。


「……ええ、していますよ」


下手に惚けても、きっと彼女のことだから気付いてしまう。
それならばいっそのこと、始めから告げてしまった方がいいだろう。


「そう、それならいいわ」
「いいんですか?」


けれど、思いもよらない切り返しに、弁慶の方が聞き返してしまう。
普通、隠し事をしていると言えば、その内容が気になって当然という物。
それなのに、隠し事をしているのならそれでいいという。

わからない。
一体彼女は何を思っているのだろうか。


「ええ、弁慶が私に何か隠しているのなら、それでいいの」


それは、隠していることまで聞き出すつもりはない、と言外に言われているようだった。
そう言われると逆に言ってしまいたくなるのが人間の心理。
だが、今の彼女にそれを話そうとしても、きっと拒絶されるのだろう。


見事な心理戦。


これが那由多の策なのか、それとも本心なのか、弁慶には判別が付かなかった。









胸の奥の奥、僕でさえも知らない隙間 
傍にいるのに、誰よりも遠い 





2009.9.23
ヒノエ退場

  
 
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