福寿草 〜こころつむぎ〜 | ナノ
 




薬師夫婦の朝は早い。
夜が明ける頃には褥を抜け出して、顔を洗い仕度を始める。
診察のための小屋へ持っていく薬の補充だとか、足りなくなってきた薬草を補充しに行ったりだとか。


もちろん、それは弁慶の仕事なのだけれど。
弁慶が薬関連の仕度をしている頃、那由多の方は朝餉の仕度や洗濯と言った仕事をしている。


六条櫛笥小路に住んでいる景時の邸は広く、身の回りのことは女房たちがしてくれる。
とはいえ、戦奉行でありながら洗濯奉行でもある景時は、自分の時間が出来れば洗濯をしているが。
だが、弁慶たちの住む五条の小さい邸では、女房の姿すらない。
そのため、自分たちのことは自分たちでという形だ。
本来なら別当家の姫であった那由多が、朝餉の準備や洗濯と言った仕事をしているというのは重畳とも言える。
だがそこは那由多。
二人で暮らすと決めたとき彼女は『これくらいやれないはずがない』とハッキリと言い切った。

昔から、興味を持った物には何でも挑戦していたのを知らない弁慶ではない。
その点は弟であるヒノエとよく似ているのだろう。


いつでも出掛けられるように薬箱の仕度をしてから厨を覗けば、鼻に届く匂いがほどよく胃を刺激する。
作業をしていた那由多が弁慶の姿を捕らえると、にこりと微笑みながら膳を持って側へとやって来た。


「ちょうど良かった。これを運んでもらえる?」
「ええ、わかりました。今日もいい匂いですね」


那由多の手から受け取った膳を持って、すぐ側の部屋へと入る。
一度それを置いてから再び那由多の元へ戻り、今度は彼女の持っている膳を持って部屋へと向かう。
それからおもむろに、二人で向かい合って朝餉を食べる。
これが弁慶と那由多の日常だった。


いつもなら朝餉の後、一息吐いてから弁慶が先に小屋へと足を運ぶ。
那由多が小屋へ向かうのは後片付けを済ませてからだ。
だが、その日はいつもと違っていた。


「え……?」


朝餉の途中、弁慶から告げられた一言に那由多は思わず箸を動かす手を止めた。
何かとんでもないことを言われたような気がする。
けれど、目の前にいる弁慶の表情はいつも通り。
まるでそれが空耳だったような錯覚すら覚えてしまう。


「もう一度言ってもらえるかしら」


持っていた箸を置き、真っ直ぐに弁慶を見やる。
すると、弁慶も那由多と同じように箸を置いてから、再び口を開いた。


「ですから、ヒノエが今日やって来るので留守を頼みます、と言ったんです」


やはり、自分の空耳ではなかったのか。
ふう、と小さく嘆息をつけば、次に耳に届くのは弁慶の苦笑。
そんな顔しないでください、と申し訳なさそうに告げるのは、本当に悪いと思っているからなのだろうか。
いつまでたっても弁慶は中々思考を読ませてくれない。
最近はようやく表情を崩してくれるようになったけれど、まだまだ足りない。


「……ねえ、弁慶」
「何ですか?」
「私、聞いてないのだけれど」
「ええ、そうでしょうね。話しませんでしたから」


きっと弁慶の元にはヒノエからの便りが届いていたのだろう。
でなければ今日やってくるとは言わないはずだ。
前から分かっていたのなら、どうして早く教えてくれなかったのか。
いくら弁慶の妻になったとはいえ、ヒノエは自分の弟でもあるのだ。


「知っていたのなら、教えてくれてもいいじゃない」


年甲斐もなく、思わず唇を尖らせてしまう。
こんな仕草、弁慶が熊野を去ってから、久しくしていないというのに。
弁慶は那由多の顔を見ると、少しだけ楽しそうに目を細めた。


「おや、教えてほしかったんですか?」
「当たり前でしょう。ヒノエがやって来るなんて、久し振りだもの」


知らなかった、と言わんばかりに言われれば、今度は頬を膨らませてみる。
またしても幼い子供のような表情をする那由多に、弁慶はこっそりと笑みを深くした。


(そんな表情をするから教えなかった、と言ったら君は怒るかな)


自分に対してはあまりしてくれない表情でも、ヒノエに関することでなら簡単に表に現れる。
それが嬉しくもあり、憎くもあった。
自分しか見られない表情なら素直に喜べるそれも、ヒノエは既に知っていると思うと素直に喜べない。

ふと気付くと、那由多が表情を元に戻して弁慶を見つめていた。
どうかしたのかと首を傾げてみれば、言葉を選ぶように視線を彷徨わせている。


「……もしかして嫉妬してくれたのかしら」


チラリ、とこちらを盗み見るようにしながら紡がれる言葉に、ゆっくりと瞬きを一つ。


嫉妬。


そう言われれば、そうなのかもしれない。
だからこそ、彼女にヒノエの話を持ちかけるのも憚られて、結局今日になってしまった。


いつだって、自分が感情で動くのは那由多相手の時だけだ。
その場から立ち上がり、座っている彼女の側へと歩み寄る。
そうすれば、那由多が自分の動作を視線で追っているのがわかった。


「そうです、と言ったら君は慰めてくれますか?」


するりと頬に手を伸ばし、そっと口付ける。
触れるだけの口付けはお互いの唇の柔らかさを感じる程度。
直ぐさま離れるのは、自分たち以外に感じる気配のせい。
このまま見せつけても構わないが、それは後々面倒なことになりそうなので止めておいた。


「んっ……弁慶、本当に?」
「ええ、もちろんですよ。……なので、君はさっさと消えて下さい」
「え?」


那由多の頬を一撫でしてから、庭の方へと鋭い視線を投げる。
そうすれば、弁慶の視線を追うように那由多の視線も庭へと向けられる。
きっと彼女が気付かないのは、彼がそうさせないせいだろう。


だが、いくら彼女に気配を悟らせまいとしても、自分に対しては敵対心剥き出しでは、あまり意味を成さない。


沈黙したまま相手の動向を待ってみれば、しばらくして視界に朱が入ってくる。
気配でそんな感じはしていたが、やはりそうか。
半ば分かっていただけに、出てくるのは嘆息しかない。
だが自分にとってはそうでも、那由多にとってはまた別の意味になる。
弁慶とは違いその瞬間、ハッと息を飲んだのが気配で分かった。
それと同時に、その愛らしく柔らかな頬をほんのりと朱に染めているだろうことも。


「誰が見てるかわからない場所で、朝っぱらから盛ってる方が悪いんじゃない?」


姿を現しながら、相変わらず皮肉めいた言葉を投げかけてくる。
昔から彼は自分をあまり好いてはくれなかったが、那由多と夫婦になったことによってそれは顕著に表れているような気もする。
だからといって、ヒノエに何か言われるくらいで那由多を手放すほど、自分も諦めがいい訳ではない。


戦の最中は、いつだって源氏の勝利を先に見据えていた。
だからこそ、彼女の気持ちを理解していながらも、ぞんざいな扱いをしてしまったことに変わりはない。
それを後悔しているとは言わないが、今ならばハッキリと言える。





誰にも、彼女を渡すつもりはないのだと。

そう、それが那由多の弟であるヒノエだとしても──。





何やら、自分と那由多が口付けていたことが気に入らないらしい。
熊野別当とも在ろう人間が、変なところで子供だという事実。
弁慶の悪戯心に火が付かないはずがない。


それでなくともこの甥っ子は、あまりにも可愛すぎて苛めたくなる傾向にある。


その理由の一つとして、からかえばからかった分だけ反応を返してくるせい、と言うことも上げられる。
こちらからの行動に何も反応を返さなければそれでお終い。
けれど、彼は律儀にもわざわざ反応を返してくれる。
それを楽しまない手はないのだ。


「別に、僕たちは夫婦ですからね。やましいことなんて何もありませんよ。ねえ、那由多」
「ちょっ、弁慶。ヒノエがいるのにっ」


ヒノエに返事を返しながら、那由多の肩を更に抱き寄せる。
そのことに彼女から少し声が上がったが、聞こえなかったことにしてヒノエに見せつけるように顔中に口付けを落とす。
そうすれば案の定、ヒノエの態度があからさまに変化する。


「わざわざ熊野からやって来たってのに、随分な挨拶だな」
「ふふ、来てくれと頼んだ覚えはありませんからね」
「ほんっと、ヤな奴」
「ヒノエ?」


二人の会話に付いていけない那由多が、どういうことだとヒノエに視線を投げかける。
弁慶が頼んだわけではないのなら、ヒノエの意思で京までやって来たのだろうか。
もしそうでないのなら、熊野が何かしら動いているということになる。
例え京に身を置いていたとしても、熊野の一員であると思っている。
だからこそ、ヒノエの本意を知りたかったのに。


「やあ、姫君。熊野はいつだって姫君を迎えるよ」


いつもと変わらない、軽い口調。
それだってヒノエの本心だと分かるからこそ、それ以上は何も言えなくなる。


「またそんなことばかり……」
「俺は本気だぜ?もし熊野が恋しくなったら言いなよ。そのときは熊野を上げて迎えに来てやるから」


小さく溜息をつけば、パチンと片目を閉じながら豪語される。
もちろんその言葉にも偽りはない。
このままでは平行線にしかならないと判断すると、那由多はヒノエと遅ればせながらの挨拶を交わした。


離れていたのは約半年。
熊野で望美が言っていた現代風の婚儀を上げてしばらくした後、弁慶と那由多は京へと住居を移した。
それから那由多はヒノエと会っていない。

どうやら弁慶は別当であるヒノエと何かしら接触していたらしいが、それは那由多の耳にまで届かなかった。
京の生活に慣れるまで、余計なことは話さない方がいいと弁慶が判断したらしい。
それも一理あるが、ヒノエが訪れていたのなら教えて欲しいと話したのは那由多だった。


「挨拶はすみましたか」


再会の挨拶が住んだ頃合いを見計らって、弁慶の言葉が挟まれる。
それに難色を示したのはもちろんヒノエだ。


「……何だ、あんたまだいたの」


ここは自分の邸のはずなのに、どうしてヒノエが主人面をしているのだろうか。
痛くもない頭を抱えるのは嫌なので、ヒノエのことは早々に視界から追いやろうとする。


「では那由多、留守を頼みますね」
「ええ、行ってらっしゃい」


未だ自分の腕の中にいる那由多の額に口唇を落としながらそう告げる。
ついヒノエと遊んでしまったが、いつもならば小屋へと向かっている時間だ。
最近は治安も随分と良くなり、患者も少なくなって来たからまだいいが、それでも自分を必要としてくれる人はまだまだいる。
そんな人を待たせておく訳にもいかなかった。


「姉上ならオレに任せときなよ」
「本当は君に任せるよりも、僕の手元に置いておきたいんですけどね」


笑って見送ってくれる那由多に、行ってきますとだけ告げると、弁慶はするりと彼女から離れた。


触れていた温もりが急速に失われていく。


それがこんなにも切ない物だったなんて。
ともすれば、もう一度抱き締めたい気持ちを何とか抑える。
部屋の隅に置いていた薬箱を持って、弁慶は邸から出て行った。
自分が帰るまで、ヒノエの相手は彼女がするだろう。
それはつまり、自分が那由多といる時間がいつもより少ないということだ。





弁慶は、今日ほど仕事を休んで那由多の側にいたいと思ったときはなかった、と後に那由多本人へ告げたという。








憎むだけでは足りない 
てのひらに残る微かな体温 





2009.8.11
ヒノエ登場

  
 
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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