福寿草 〜こころつむぎ〜 | ナノ
「は……?」
弁慶は思わず絶句した。
生まれてきてからこれまで、果たしてこんなに驚いたことがあっただろうか。
人は心底驚愕したときに、声が出なくなるらしい。
まさかこんなことで言葉が出なくなるとは。
まるで言葉と一緒に、息の仕方まで忘れてしまったようだ。
「弁慶、大丈夫か?」
顔を覗き込まれ、思わず我に返る。
そういえば、今は兄の湛快と話をしていた最中だった。
返事をすれば、ようやく呼吸が出来たような気がした。
たった一言でここまで動揺するなんて自分もまだまだ、と内心苦笑する。
しかし、一体兄も何を考えているのだろうか。
自分の娘を娶れ、などと。
しかも本当に娶るわけではなく、仮の形でいいと言う。
縁談が破談になり、良くない噂が出回っているのは知っている。
だからと言って、これでは彼女があんまりだ。
「……で、どうだ?」
「兄上。いくらなんでも、それでは那由多の気持ちはどうなるんですか」
それなりに身分のある家に生まれた女性は、家の目的の為に嫁がされる運命にある時世。
湛快の娘であり、自分の姪である那由多もまた、そうであった。
だからこそ、彼女の縁談が決まったときに、自分は彼女を諦めるより他なかった。
叔父と姪という間柄という時点で、期待はしていなかったが。
「あー……それが、な」
珍しく湛快の歯切れが悪い。
いつもなら、物事の白黒をはっきりとつける彼らしくない。
これは何かあったのだろう、と考えるのが自然だ。
藤原家の姫として生まれた彼女は、生まれ持った美貌のせいで、その場にいるだけで華が咲いたように見える。
そう、黙っていれば。
けれど一度口を開けば、その聡明さで大の男をも言い負かす。
更に湛快と弁慶が師事したこともあり、武器の扱いも中々のもの。
元来、穢れに弱いという体質だったせいか、幼い頃より薬の知識も学んでいる。
恐らく、湛快が頭の上がらない人物は、彼の妻と娘の那由多、ただ二人だけだろう。
「どうしたんですか?」
何も知らない振りをして問いかける。
これで口を閉ざすようなら、きっと自分に縁談話など持ってこないはずだ。
しかも、本人にすら了承を取っていない話を。
「那由多の奴、俺に絶縁を言い出してきやがった」
「絶縁、ですか」
これまた極端な、と思うが、那由多なら言いそうなことだ。
きっと、破談による良からぬ噂は彼女の耳にも届いている。
それゆえの決断だろうことも。
那由多もこの熊野という土地を愛している。
それと同時に、血の繋がりのある家族も。
自分のせいで一族が悪く言われることを嫌ったのだろう。
熊野の姫だけでなく、薬師としても名を知られている那由多だ。
姫としての肩書きを捨てても、彼女なら何とかやっていける。
だからこその、絶縁。
けれど、父親である湛快としては、そんなことは出来ないのだろう。
自分の血が流れる愛娘。
例え何があったとしても、己の腕の中で守れる間は守ってやりたいのか。
(ああ、それで形だけ、というわけですか)
言いたいことはわかった。
そして、兄が自分に話を持ってきた理由も。
昔から弁慶は熊野に戻るたび、湛快以上に那由多と同じ時間を共に過ごした。
本来なら有り得ないことだが、それを那由多が望んだからだ、と湛快から聞いたことがある。
――そのせいで、甥であるヒノエにはあまり良く思われなかったが。
年が三つしか離れていないこともあり、叔父と姪というよりは、兄と妹のほうが近かったかもしれない。
那由多が自分に向ける感情は、家族としてのそれとは違うことも感じ取っていた。
もちろん弁慶も那由多に向ける感情は、家族愛と言うよりも恋慕に近い。
とうの昔に諦めた想いを蘇らせるには、充分過ぎる申し出。
だが、罪人である自分にその感情は許されないこと。
まして仮初めならば尚更。
けれど那由多が辛い思いをし続けるのも嫌で、自分に話を持ってきたのか。
きっと湛快も、那由多が自分に想いを寄せていることに気付いている。
「お前が仏門に身を置いているのはわかってる。だがこれだけはどうしても、お前に頼みたい」
そう言って頭を深々と下げる湛快に、弁慶は思わず目を丸くした。
まさかこんな自分に頭を下げるなんて、と。
熊野別当である湛快に、ここまでされて頷かないなどということは出来ない。
しかも、相手は幼少時に唯一自分の味方であった兄。
参った、と思いながら弁慶は深く息をついた。
「仕方がありませんね」
少しばかり苦笑の混じったそれに、勢いよく湛快の頭が上がる。
「それじゃあ、お前」
望みが繋がった、と言わんばかりの湛快の瞳に自分の姿が映る。
「ただし、条件があります」
条件?と首を傾げる湛快に、これからの那由多の在り方を話す。
一つは、仮初めの夫婦となったとしても、那由多を熊野に置いて行くこと。
自分の友であり主でもある九郎には、この件は黙っておいたほうが良策だろう。
真面目な九郎のことだ。
仮初めの夫婦、などと告げれば何を言われるかわかったものじゃない。
それに、那由多を熊野に置く理由はもう一つある。
穢れに弱い那由多を京へ連れて行くよりも、霊地である熊野にいたほうがいい。
いざとなれば、本宮で湛快に厄介になることも出来る。
何より、彼女の弟のヒノエがそうさせるだろう。
そして、二つ目。
何かあったときには、那由多に自分の代わりをしてもらうこと。
近い将来、きっと大きな戦になるだろう。
そのときに自分の思考を考えとり、かつ行動に移してもらう。
知識も充分にあり、理解力も判断力もある那由多ならきっと出来るはず。
那由多は弁慶が何をしたかを知っている。
もちろんその結果も。
だからこその、条件。
「どうせあなたも、那由多からの絶縁は方便にするつもりなんでしょう?」
笑って尋ねれば、湛快はニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべて見せた。
やはり。
自分の娘が頑固だということは理解しているらしい。
だからこそ先手を打っておこうというところか。
「あぁ、それともう一つ」
「まだあるんですか」
これ以上自分に何をさせようというのか。
そんなことを思っていた弁慶は、湛快の言葉に少しだけ息を呑んだ。
「間違っても、那由多に手は出すなよ」
これは牽制のつもりだろうか。
きっと湛快は自分たち二人の気持ちを理解している。
知っていて釘を差すと言うことは、方便が真実になることを恐れてか。
それとも、自分に大切な娘はやれないと思ってか。
どちらにせよ、彼女が何と言ったところで手を出すつもりはない。
仮初めと言われ、誰がこの手に抱けるだろうか。
まして、仮初めの関係が終われば、他の男に嫁ぐかもしれない彼女を。
「心配せずとも、彼女を抱いたりはしませんよ」
「弁慶、お前……」
弁慶の言葉に何かを感じたのか。
湛快の顔が訝しげに歪んでいる。
それに微笑で返せば、今度こそ湛快は何とも言えない顔をした。
ふ、と意識が浮上する。
耳に届く鳥のさえずり。
重い瞼を押し上げれば、腕の中で眠る赤茶色の髪と愛しい人。
ならばあれは夢だったのか。
二年半も前のことを夢で見るとは、一体どういうことなのだろう。
隣の彼女を起こさぬように、重い溜息をそっと吐き出す。
辺りはまだ薄暗く、眠りに落ちてからさほど時間は経っていないだろう。
「んぅ……」
出来てしまった隙間を埋めるように、すり寄るようにぴたりと身体をくっつける。
そんな姿は昔と変わらない。
けれど、確かに変わったところもある。
昨夜は二人、互いを求めるように身体を重ねたまま眠りについた。
直に触れる彼女の柔肌が、熱い行為を思い返させる。
知らないうちに成長していた白い肢体。
甘い声が耳朶をくすぐれば、それだけで理性など吹き飛ばされるよう。
これまで色々な女性と身体を重ねたことはあったが、所詮それは身体だけの関係。
情報を聞き出すためだったり、性欲のはけ口だったりと様々だ。
だからこそ、目の前の彼女に夢中になる自分に驚きさえ覚える。
「本当に君は、僕の心を捉えて離さないんですね」
顔に浮かぶのは作られた微笑ではなく、心からのそれ。
那由多の顔に張り付く髪をどけてやれば、小さく震えたまつげがゆっくりと開かれる。
先程まで繰り返された情事の後を色濃く残す瞳は、未だ熱に浮かされたように潤んでいた。
「すいません、起こしてしまいましたね。もう少し寝ていても構いませんよ?」
「べん、け……」
愛しげに髪を撫でれば、掠れた声で自分の名を呼び更に身体を密着させてくる。
それはまるで、恐怖に怯えた姿にも似ていた。
そんな那由多を宥めるように背中を撫で、額に唇を落とす。
すると、彼女の方から触れるだけの口付け。
もちろん、素肌を密着させたこの状態はそれだけで済むはずがなく。
「っ……ん……」
「那由多、愛してます」
口付けの合間に愛を囁けば、更に深く求められる。
「私、も……っ、ぁ……」
もう無理だと、か細く訴える彼女の口から零れる甘い嬌声。
まるで年若い者のように何度も求めてしまうのは、先程見た夢のせいだろうか。
「手放せるはず、ありませんよ」
一度味を占めてしまった甘い蜜を、誰が手放すことが出来ようか。
まして、過去に諦めた物なら、尚更。
あのとき手を出すなと言いながら、その実弁慶がそうすることを願っていたと湛快が告げたのは、二人が夫婦となってから。
甘く響く鼓動を重ねて
この身を蝕む愛と欲
2009.7.5
紫陽花から半年後のスタートです