泡沫の夢 | ナノ
 




雨は音を立てて降り続ける。


いつもなら聞こえてくる喧噪の音も、雨のせいですっかりとなりを潜めている。
歩く度に泥が跳ねて、着物の裾を汚していく。



こうして一人でいればいるほど、先程見た光景が頭から離れない。



知盛と望美。



二人の立場を知らないままだったら、単に知盛の悪い癖だと思えたのかもしれない。
性格や態度がアレでも、見た目だけはいい。
弟の重衡と連れだって歩けば、女房だけでなく姫君たちからも感嘆の溜息が零れるほどだ。
無駄にフェロモンを放出しているのだから、望美がそれにやられても仕方がない。


何も知らなければ、そう思えたのに。


きっと望美は源氏にいる。
確信にも近いそれを抱いてしまったのは、彼女と同行していた一人に弁慶がいたから。
そして、九郎と言った男。
笹竜胆と白は源氏を象徴している。
あそこまであからさまな出で立ちをされては、不審過ぎて逆に呆れてしまいそうになる。
けれど、弁慶の姿があるということは彼がそうだと考えていいのだろう。

それを思えば、赤の陣羽織を堂々と着ている将臣も疑われて仕方ない。
赤は、平家の色だ。

自分と弁慶が顔を合わせた時点で、既に疑いは持たれただろう。
後はどうやって弁慶以外の人物に悟られないようにするかだった。
将臣はともかく、自分に関しては一般人と変わらないことをアピールしたつもりだったが、望美たちがどう捕らえたかはわからない。


けれど、望美があの場で知盛と出会ったことで、この先どうなるかわからない。
知盛自身ならば、望美がそうなのかわかるだろう。
だが、あんなシーンを見た後に平然として顔を合わせることなど、出来そうもなかった。

いくら口先だけの許嫁であったとしても、身体を重ねた回数は少なくない。
身体だけの関係、と言い切ってしまうには少し流されすぎたような気がする。


「……あ」


ようやく宿が近付いて来たと思ったら、それまで降り続いていた雨が上がった。
そのことに気付いて空を見上げれば、厚く空を覆っていた雲が切れ、青空が覗き始めている。

空と同じように、この気持ちも晴れてくれれば良かったのに。

そう思うが、一度重くのし掛かった暗雲はそう簡単に晴れそうもない。
さてどうしたものか、と空を見上げていた顔を正面へと戻せば、目の前に映る光景に思わず頬が引きつった。


「あ゛……」


雨が上がったので宿の外に出てきたのだろう。
扉の脇にもたれかかり、両腕を組んで笑顔で立っている人影が見える。
その笑顔はどこか怒りさえ含んでいるのは気のせいではないだろう。

出掛ける前に、夕餉の前には帰ってくると告げてある
今はまだ日も高く、夕餉の時間には早いはずだ。
だからどうして将臣が怒っているのか、皆目見当もつかない。



それよりも、将臣の姿を見付けた途端にどこか安心を覚えた自分がいて。



全身濡れ鼠では、視界がぼやけたとしても些細なことでしかなった。
冷たくなった身体に、温かい雫。
どれほど身体が冷え切っていたのかを痛いほどに実感する。

将臣との距離はそう離れていない。
わざわざ駆け出したりしたら、きっと彼が心配する。
だから、足取りは重くともいつも通りのスピードで。
へらりと笑みを浮かべながら、ひらひらと手を振ってみせる。
すると、こちらに気付いた将臣がその場から駆け出したのが見えた。
その形相はまさに鬼のようで、思わず逃げ出したくなったのは言うまでもない。
だからといって逃げてしまっては、その後が怖くなる。
一体どうしたらいいだろうかと、半ば働かない頭を必死に動かしてみる。


当然の事ながら、将臣が自分の前に辿り着く方が早くて、悠はその場から逃げることも叶わなかった。










あぁ、この空気が痛い。

内心そんなことを思いながら悠は濡れた着物を着替え、将臣の前に背を向ける形で正座していた。
後ろに座る将臣は、乾いた手拭いでわしわしと髪を拭いてくれている。
その大きな手は、すっかりこの世界で成長した証。


「ったく、雨の降る中帰ってくるより、どこかで雨宿りしてこいっての」


ぶつぶつと文句を言いながらも、その手は止まらない。
何だかんだ言って何気に世話好きなのだ。


「大体、知盛のやつはどこに行ったんだ?一緒に市に行ったんだろ?」


その言葉に、あの光景が頭を過ぎる。
けれど、それを口に出すことは出来なかった。
言ったら全てを認めてしまうような気がして。


「途中ではぐれちゃったの。で、あの雨じゃない?まぁ、ちもも子供じゃないんだから、宿には帰ってこれるでしょ」


肩を竦めながら言えば、どうやら将臣も納得してくれたようだった。
全てを話したわけではないが、嘘をついたわけでもない。
はぐれたのも、雨が降ったのも事実。
それに、知盛のことだ。
帰省本能くらい人並みにはあるだろう。


「ったく、本当に仕方ねぇやつだな。ちょっと俺は出てくるから、お前は宿に残ってろよ?」
「はいはい、言われなくたって留守番してますよ」


どうやら髪を拭き終わったのか、新しい手拭いを悠の頭の上に被せる。
まだ少し髪は湿っているが、これ位なら風に当てておけば乾くだろう。
拭いてくれたことへの礼を告げれば、ひらひらと手を振る返事が返ってくる。
そのまま将臣を見送れば、部屋から出て行った。
窓際に移動して、ぼんやりと外を眺めていれば、宿から出て行く将臣の後ろ姿が見える。
無事に知盛を連れて帰ってくればいいが、そうじゃない可能性も少なくはない。
もし将臣が知盛と望美を連れてきた場合、自分はいつものように彼女と話せるだろうか。


「……どこの中学生だっつーの」


ぼそりと呟く声は低く、ここに誰もいなくてよかったと安堵する。
初恋なわけでもあるまいし、ましてやこの世界でも年を重ねたのだ。


「考えるのも面倒だわ」


雨に当たりすぎただろうか。
ぼんやりとした思考は、何かを考えるという行為自体が億劫だ。
それに、頭も重い。
床の準備をして寝ればいいのだろうが、そのために動くのが面倒で仕方ない。


「……風邪引いたのは、知盛のせいだ。あんなとこで望美と一緒にいなければ、風邪なんか引かなかったのに」


朦朧とした頭では、思考もまともに働かない。
口から出てくるのは八つ当たりの言葉。

それから先は、覚えていない──。















ひんやりとして気持ちいい。
覚醒してきた頭が思ったのは、まずそれだった。
重い目蓋をゆっくりと開ければ、見覚えのない天井。
いつから自分の部屋はこんな天井だったろうか、と考えてから、熊野に来ていたことを思い出す。
そういえば、知盛を連れてくると行った将臣はもう帰ってきたのだろうか。


「あぁ、目が醒めたんですね。気分はどうですか?」


ぐるりと部屋を見渡すと同時に、声の聞こえてきた方へと頭を巡らせる。
そこには何かを持って部屋に入ってきた黒い法衣。
どうして彼がここにいるのだろうか。


「なん、で……?」


声が掠れて上手く言葉が出ない。
そのことに顔を顰めていれば、上半身を起こして水を飲むのを手伝ってくれる。
喉が潤えば、ようやくまともに声が出るようになった。


「どうして弁慶がここにいるの?」


そう、起きるのを手伝ってくれたり水を飲むのを手伝ってくれたのも弁慶だ。
けれど、望美たちと行動を共にしている弁慶が、どうして自分の隣にいるのか。
それ以外にも気になることはある。
将臣と知盛の姿が見えないのだ。
知盛の姿がないのはわかる。
だが、将臣くらいいてもいいのではないだろうか。


「将臣くんたちは、望美さんと一緒に出かけてますよ。僕は望美さんに頼まれて君を診に来たんです」
「へ?望美?」


どうしてそこで望美が出てくるのか。


「覚えてませんか?雨に濡れて、風邪を引いたんです」
「あぁ、そういえば」


将臣を見送った後、頭が重くて身体がだるかったような気がする。
弁慶の言葉を信じるならば、風邪を引いて熱でも出したというところか。
けれど、風邪を引いたのはわかったとして、弁慶が自分を診る意味がわからない。
確かに彼は薬師でもあるから、病人を診るのは当然だとして、宿までは教えていないはず。


「君が熱を出したと望美さんが将臣くんから聞いたんですよ。それで、望美さんたちが出掛けている間、僕が君を診ているんです」


弁慶に説明されて、そういうことかと理解する。
将臣辺りはその辺の薬師にでも診せようとしたのかもしれない。
だが、望美がやってくるのがそれより早かったのか。


「とりあえず、お礼だけ言っとくわ。ありがと」
「いえ、薬師として当然のことですから」


尚も寝かせようとする弁慶に首を振れば、側にあった羽織を肩に掛けてくれた。
自分で額に手を当ててみれば、まだ少し熱はあるようだがそこまで酷くない。
どうやらまだ日は高いようだ。
ならば、将臣たちが帰ってくるまで時間があるだろうか。
さすがに目が醒めたとはいえ、完治していない病人を放って帰るほど、弁慶も非情ではないだろう。

いや、源氏の軍師は非情だと聞いた。

その気になれば、何だってやるのだろう。


「それで、僕に聞きたいことがあるんでしょう?」


けれど、こちらの意図を感じ取ったのか、弁慶は帰ったりせずに悠の隣に正座している。
聞きたいことはある。
けれど、本調子じゃない思考ではどれから聞いたらいいものかわからない。


「そういえば、右手の具合はどうですか?」


そんな時問われた質問に、思わず左手で右手を押さえた。
あのとき右手を診てくれたのも、そういえば弁慶だった。


「おかげさまで、このとーりよ」


ひらひらと、右手を振って見せる。
一見しただけでは普通の人と変わらないそれ。
今では平家にいるどれだけの人が、自分の右手のことを知っているだろうか。
あの将臣ですら知らないことを。


「日常生活に支障はなくとも、それ以外では問題がありそうですね」
「良く言うわよ。どうせ弁慶のことだから、知ってたくせに」
「そんなことありませんよ。少なくとも、譲くんに聞くまではね」


譲の名前を聞いて思わず反応してしまう。
彼から聞いたということは、かつては自分が弓を扱っていたことまで話したのか。
だとしたら、自分が戦に参加しないことを内心ほくそ笑んだ口か。


「……弁慶たちは源氏でいいんだよね?」


言葉にしてみると、何て簡単なことなんだろう。
こちらをみる弁慶の視線が痛いが、どうしてもこれだけはハッキリさせておかなければいけない。
今後のためにも。


「そういう悠さんと将臣くんは、平家ですね?」


否定も肯定もしないが、逆に問いかけてきたことで確信する。
やはり、そうなのだと。


望美が、源氏の戦神子。


諦めにも似たような嘆息が漏れる。
ずっと知りたかったことをようやく知ることが出来たのに、どうしてこうも落胆してしまうのだろう。


「それじゃ、九郎さんはアレか。源義経」


その名前を口にしたとき、明らかに殺気にも似た物が自分へと向けられたのがわかった。
知ったところで、今の自分には何も出来ないというのに。
小さく笑みを零せば、今度は訝しげな表情を向けられる。
源氏の軍師という物は、ここまで表情豊かでいいのだろうか。


「そうだ、ついでに教えてくれる?」
「何を、ですか?」


笑いを堪えながら尋ねれば、少し警戒したままで問い返される。
ここから先は、本当に興味本位。
確かに大切なことでもあるが、自分にとってはどうでもいいようなこと。
けれど、情報として手に入るのならば、今後の行動が決められるかもしれない。










「熊野別当は、源氏についたのかな?」










悠が笑みを浮かべながら尋ねれば、逆に弁慶の方は表情がなくなっていく。
失言だったか、とも思ったが、言ってしまった物を取り消すことは出来ない。

自分の考えが合っていれば、あの紅髪の少年が熊野別当だ。
名前が違っていたような気もするが、そんなお偉方がわざわざ自分の名をひけらかすようなことはしない。
それが単独行動であるなら、尚更。


弁慶がどう答えるか、それによって今後が決まる。










怪我の功名 

あんまり嬉しくない気がする。


2009.3.3


  

 
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