泡沫の夢 | ナノ
 




重衡と一緒に鍛錬に行くと決めたのは、邸に戻って来たあの日。

けれど、なぜだか鍛錬へは一度も行けず終い。

こういうときに限って起きているなんて、日頃の行いが悪いのだろうか。





「何でっ!どうしてっ?!私が一体何をしたって言うのっ!」


バンバンと畳を叩きながら、その場に崩れ落ちているのは紛れもなく悠本人。
そんな彼女の姿を横目に、将臣は女房に持ってきてもらったお茶をのんびりと啜っている。


「ねえ将臣っ!こんなことが許されると思うっ?!」
「俺に意見を求めるより、本人に聞いてみたらどうだ?」
「それが出来たら苦労してないってゆーのっ!」


ムキーッ!とわけのわからぬ奇声を上げる。
それでようやく満足したのか、すっかり温くなってしまったお茶を口に含み喉を潤す。
まだ残暑が厳しいこの季節なら、冷茶も美味しいだろうなぁ、とどこかのんびりと考える。


「んで?知盛が寝てる間に鍛錬に行こうとしたのに、当の本人が起きてるって?」
「そうなのっ!いつもなら二度寝してるはずなのに、何でこういうときに限ってアレは起きてるわけっ!」


再び食って掛かろうとする勢いの悠に、とりあえず落ち着けと宥めてやる。
そう、悠が奇声を上げることとなったのは知盛が原因だった。


重衡と一緒に、知盛が寝ている間に鍛錬に行く約束を取り付けた。
けれど、次の日から頃合いを見計らって鍛錬に行こうとしているのに、当の知盛がいつまでも起きているのだ。

毎年のことだが、知盛は夏場、過ごしやすくなる夕方からしか行動を開始しない。
何とか悠が彼を起こして一緒に朝餉を取れば、直ぐさま二度寝に入るのが常であった。
だが、今年はどうしたことか、それがない。
熊野にいた間もずっとそういう生活リズムだったのだ。
邸に戻ってきて直ぐにそれが直るとは思えない。
まして、過ごしやすくなるにはまだ日がかかるだろう。

事実、じっと座っているだけでも汗が流れ落ちてくるほどに、昼間の温度は高い。

ところが、肝心の知盛は起きているのだ。
これで鍛錬に行こう物なら、きっと彼の標的にされるに違いない。
それだけはどうしても回避したい悠である。


「せっかく弓の練習が出来ると思ったのに〜」


がっくりと肩を落とす悠の姿に、少しだけ同情を覚えなくもない将臣である。
いつもなら起こしても起きない知盛が、こうも自発的に起きているなど珍しい以外の何物でもない。


「でも、何だって今頃弓なんかやろうと思ったんだ?」


少なくとも、将臣がこの世界へやって来てから、悠が弓を扱う姿を見たことは一度もない。
だからこその疑問でもある。

それに、時折ではあるが悠が右手を不自由そうに使っているのを目にしている。


「いや〜、ゆずるんに会ったら懐かしくなったって言うか……」


熊野で譲と会ったことで、長く手にしていなかった弓が恋しくなったのだろうか。
だが、それならば鍛錬に行かずとも邸の庭を使ってもいいはずだ。


「ともかくっ!ちもが起きてるんじゃ意味がないのよっ!」
「……随分と、嫌われた物だな」
「知盛」
「ゲッ!」


クッ、と小さく喉を鳴らしながら部屋に入ってきた人物に、二人の視線が行く。
当然ながら、そこにいたのは話題に上がっていた知盛で。

悠にとっては、出来ることなら現在顔を見たくない相手である。

すとん、と二人の間に座りながらチラリと視線をよこしてくる。
それを見ながら、悠は眉間に皺を寄せた。


「ちょうど今お前の話をしてたところだぜ」
「俺の……?」
「ああ、いつもは寝てる癖に、最近は自主的に起きてるってな」
「ちょっ!」


あっさりと知盛に事の次第を話す将臣に、慌てたのは悠の方だった。

いくら本人に聞けと言われても、まさかここで言うとは。

確かに二人から聞かれるよりは、一緒にいたときに聞いた方が手間はかからない。
だが、心の準備という物がある。


「フン……下らん、な……。どうせなら、もっと艶のある話のほうが……楽しいと思うが?」


なあ?とどこか扇情的な視線を投げられれば、それだけで身体が震えそうになる。
しかしまだ日は高い上に、ここには将臣もいる。
間違ってもそんなことになってはいけない。


「ちもの方が下らんわーっ!」


スパーンッ!と勢いよく知盛の頭を叩けば、それが綺麗に決まる。
そのまま床に倒れたところを見ると、余程気を抜いていたのか。
叩かれた場所を抑えながら緩慢な動作で起き上がる知盛に、思わず将臣は同情の視線を投げた。


「随分と……力が有り余っているようで」
「誰のせいだと思ってんのっ!」


言外に、全て知盛のせいだと告げれば、悠はそのまま部屋から出て行った。
そんな悠の後ろ姿を見送りながら、将臣は小さく頬を掻く。


「知盛。お前、あいつが何をしたいのか分かっててやってるだろ」
「さて……俺にはなんのことやら、さっぱり……だな」


悠が部屋から出て行くのを見ると、面白くなさそうに知盛も部屋から出て行った。
まるで台風一過だと思いながら、将臣は湯飲みに残っている冷め切ったお茶を飲み干した。















どすどすと足音を立てながら、悠は自室へと戻っていた。
はしたないと言われようが、この際そんなこと知る物か。


「知盛のせいで練習する時間が無いじゃないのっ!」


ブツブツと文句を言いながら、先日持ち出した弓に触れる。
将臣がこの場にいなければ、邸の庭で弓を引いても構わないのだ。
けれど、それをしないのは将臣がいるからに他ならない。

鍛錬上に行けば、自分の弓の腕が下手でも何も言われずにすむ。
けれど、将臣の前ではいけない。
何年も弓に触れていないから、という理由は将臣に通用しないだろう。


「何で今までが嘘みたいに起きてるのよ、知盛」


ギュッと弓を握りしめ、ゆっくりを後ろを振り返る。
知盛は柱にもたれ掛かるようにして、悠を見ながら立っていた。
いつものように怠惰な様子は見られず、まるで戦にいるときのような鋭さで悠を見据えている。


「何とか言ったらどうなの?」


頬を膨らませながら、不機嫌だということをアピールしてみれば、知盛が柱から身体を離した。
そのまま悠の側へとやってくると、右手を掴んで自分の方へと引き寄せる。


「いっ……!」


強い痛みが走り、思わず顔を顰める。
だが、知盛はそれに構わず、掴んだ右手をじっと見つめる。





正確には、手のひらに走っている一筋の傷跡を。





その傷こそが、悠が弓を持たなくなった理由。
こちらの世界へやって来て直ぐ、知盛に助けられる前に付いた物。
日常生活に多少不自由する物の、普通に過ごす分には問題ない。
けれど、握力はほとんどないに等しいこの手では、弓など扱えるわけもなく。


「こんな手で、それが扱えるとでも……?」
「っ……やってみなきゃ、わからないでしょ」


傷跡を舐められて思わず背筋が震える。
それは、決して痛みのせいだけではない。


この数年で身体に刻み込まれた熱は、いつも簡単に燃え上がる。


それがほんの、些細なことでも。


「やらずとも分かるさ……言っただろう?この手はもう使えんと」
「……っ」


そんなことは誰よりも自分が一番よく理解している。
だが、それを他人に言われるのだけは我慢がならなかった。

長い時間を掛ければ何とかなるかもしれない。
けれど、今はそんな時間もない。

ならばやるしかないのだ。

例え付け焼き刃になろうとも、何もしないよりは全然いい。
何もしないまま終わるのは、もう嫌だ。


「でも、私はっ……ぁうっ!」


ぐ、と強く手を掴まれれば痛みで顔が歪む。
生理的に浮かんだ涙に、きつく唇を噛んだ。


「あの時のように、もう一度この手に刃を受けてみるか……?そうすれば、二度とそんな気にはならずともすむやもしれん、な」


クッ、と喉を鳴らす知盛の瞳は真剣そのもの。
決して冗談で言っているようには思えない。


知盛が出したのはいつも使っている刀ではなく、懐から取り出した懐剣。
すらり、と鞘から抜かれた刀身は、脂に汚れていない綺麗な銀色。
切っ先が悠の手のひらに向けられる。


その途端、脳内に過ぎるのはあの日のこと。
決して思い出したくもない、地獄のような日。


カタカタと身体が震えるのはきっと恐怖から。


「ぃ、や……いやっ、やだっ、やだぁっ!」


刀身が手のひらに触れる前に、悠は声を上げてそれから逃れようと身を捩った。
もはや目の前にいるのが知盛だと理解しているのかすら危うい。

そんな悠の姿を見ると、知盛は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
手にしていた懐剣を手放して、未だ暴れている悠の頬を叩く。
衝撃で我に返ったのか、のろのろとした動作で知盛を見つめてくる。
涙で濡れた頬をそのままに、ペタリとその場に座り込んだ。
その視線は虚ろで、どこか明後日の方向を見ていた。


「だから言っただろう。……お前のその手は、もう使えんと」


そう告げると、知盛は興味が無くなったかのように部屋から出て行った。
残されたのは悠一人。

ぼんやりと、知盛が去っていった方向を見つめながら畳に視線を落とす。
そこには知盛が落としていった懐剣が、刀身を剥き出しにした状態で所在なげに転がっていた。


「っ……ふぇっ……」


ひくっ、としゃくり上げれば、瞳から雫が零れてくる。
いくら袖で拭っても、後から後から止めどなく溢れてくる。





怖いのは、知盛ではなく鈍色に輝く鋭い刃。


涙が零れるのはきっと、何も出来ない無力な自分に絶望したせい。










理由に繋がる行動 

止めて、思い出させないで


2009.7.3


  

 
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