君と見た空 | ナノ


1、新しい、自分
  









弁慶と名乗った、綺麗な男の人。





連れて行かれた邸は、私が思っていた以上に大きくて。





そこで出迎えてくれた女の人。





私と同じくらいに見えるのに、とても落ち着いていてお姉ちゃんみたい。










お姉ちゃん。










どうしてだろう。





何もわからないはずなのに、その言葉を思うと胸が痛い。





何か、あったのかな?




















目的の邸を目の前にして、弁慶は自分の後ろにいる少女を小さく見た。
ここまで連れてきた物の、家人に何の説明も無しというわけにはいかないだろう。
それに、面倒を頼むのは彼の妹に、だ。
納得のいく理由を作らなければならない。
けれど、その前にやらなければならないことがある。


「そういえば、君を何と呼べばいいでしょうね?」
「わ、たし……?」


自分の顔を指差す少女に、小さく頷いてみせる。
さすがに名前がないと呼ぶときにも困る。
全てを忘れてしまっているのなら、まずはそれから始めなければならない。


「何か、覚えていることはありますか?なければ、僕が勝手につけてしまいますが」
「覚えていること……?」


少女が名前を覚えていないのは、すでに承知している。
けれど、こちらでつけてしまうよりも、彼女の中に残っている僅かな記憶。
それを名前にした方が、記憶を呼び戻すきっかけに繋がるかもしれない。


「どんな些細なことでもいい。君の中にある言葉を、僕に聞かせてくれませんか?」


再度促すように言えば、手を顎の下に当てて何や考える仕草をする。
そのまま視線はいずこともなく彷徨い続け。
やがて、天を仰いだ。


雨の止んだ空は、まだ暗く重い雲を残しながらも青空が覗いている。
キラリと輝く太陽に、思わず顔をしかめながら手を持ち上げて太陽と自分の間にしきりを作る。
そのまま視線を動かすと、何かを見つけたのか微動だにしなくなった。
ピタリと止まったその身体は、まるで動力を失ったカラクリのように。
けれど、何かを語ろうとするその唇は、僅かに震えていた。










──  ! ──










遠くで誰かを呼ぶ声が聞こえるような気がする。



誰を呼んでいるの?



私の知っている人?










──  、早く来いよ!ホラ ──










『待って、置いていかないで!   』










そう言っていたのは、誰?





何かを取り戻しそうな少女を、弁慶は黙って見ていた。
こういう物は、周囲がうるさく言う物じゃない。
それに、今の反応を見ている限り、何かしらの収穫物はありそうだ。


「美月……?」


小さく紡がれた言葉は、不確かで。
言った本人ですら首を傾げている始末。


「美月、それが君の名前ですか?」
「わから、ない。でも、誰かがそう呼んでる気がする」


誰か、とは一体誰のことか。
大方、記憶を失う前まで知っていた人物だろう。
それすらも、一体誰なのかはわからないが。


「そうですか。美月……いい名前ですね。君によく似合う」
「そう、かな?」
「そうですよ。では美月、行きましょう」


似合うと言われ、はにかみながら笑んだ美月を、弁慶はどこか愛おしいとすら思った。
けれど、いつまでも彼女に濡れた着物を着せていてはいけない。
そういった薬師としての思いが先を促す。
門をくぐり、二人は敷地内へ一歩踏み出した。










「さぁ、早くこれに着替えて。濡れたままでは風邪を引くわ」


先程弁慶に言われた言葉とそっくり同じ言葉を繰り返される。
乾いた布で髪を拭いていた手を止め、差し出された着物を受け取った。
広げてみれば、目の前にいる女性が着ている物と全く同じ作りの着物。


「えっと……」


手にした着物と自分の姿を見比べ、思わず口ごもる。
自分が着ているのも、持っている着物もほぼ変わらない。
それを思えば、自分は着付け方を知っていたということだろうか。
しかし、白紙の頭の中には、着付けの方法など残されてはいない。


「あの……着方がわからないんですけど……」
「まぁ。それじゃあなたはどこかの姫君だったのかしら」


控えめに申し出れば、女性は手を口元にあて驚いたように目を丸くした。
姫君、と言われてもピンと来ない。
それどころか、どこに姫君がいるのだろうと首を傾げてしまう。


「朔殿、彼女は僕の妹なんです」
「弁慶殿」


そんな時聞こえてきた声に、どこか安堵した自分がいた。
ホッと頬が緩むのを感じ、少なからず今の状況に緊張を覚えていたのだとようやく悟る。



見知らぬ世界で、ようやく知人と巡り逢った。



例えるならそんな感覚。
実際、今の自分にとって、ここは見知らぬ世界である。
そんな中、先程知り合ったばかりとはいえ、聞き覚えのある声が耳に届いただけで安心感を覚えた。
けれど、弁慶の放った言葉に疑問を抱いたのは言うまでもない。


彼は朔に自分のことを「妹」だと言った。
それが正しくないことは、彼との出会いが物語っている。
それに、どう頑張っても兄妹だと言うには無理がある。


彼の髪は綺麗な蜂蜜色で、癖毛なのか緩い癖がかかっている。
それに引き替え、自分の髪は真っ直ぐな薄い紫苑。
容姿だって似ているところなど一つもない。


「弁慶殿に妹がいただなんて、初耳です」
「まさか僕も彼女がここまでやってくるとは思いませんでしたから、言わなかったんですよ」
「でも、弁慶殿の妹なら、着付けを知っているんじゃ……?」
「それが……どうやらここに来るまで、物忘れの病にかかったようなんです。僕と再会したときには、僕の名前どころか自分の名前まで覚えていなかったんですよ」
「まぁ、そうだったんですか……」


朔の自分を見る目が、どこか同情の色に染まっている。
けれど美月はそんな朔の視線に気付かない。
二人の会話はただ、右から左へとすり抜けていく。

それよりも、頭の中を占めているのは弁慶の言葉だけ。
どうして彼は、自分のことを妹だなどと言ったのだろうか。
その真意がわからない。


「……朔殿、妹の力になってやってはくれませんか?」
「弁慶殿の頼みですもの。それに、私も同じ年頃の友人が欲しかったところですから」


朔の言葉に、弁慶はホッと胸を撫で下ろした。
咄嗟に出た言葉は、口から出任せだったが、どうやら彼女は納得してくれたらしい。
後は、この場で自分の言葉に悩む美月をどうやって丸め込むか。


「美月、まずは着替えてからです。君が着替えたら、質問に答えますから」
「本当ですか?」
「ええ、本当です」


首を傾げる美月に、安心させることの意味も兼ねて笑顔で返す。
そうすれば、ふわりと返される彼女の笑顔。
その眩しさに、思わず目を細めてしまう。


「では朔殿。頼みましたよ」
「はい」


朔に着替えを頼み、弁慶は部屋を後にした。
彼女に美月を妹だと言ってしまったからには、彼女の兄と友人にも紹介せねばならない。
その前に、美月への説明もある。
簡単に納得してくれればいいが、そうでない場合は少々厄介かもしれない。


「さて、どうしましょうか」


言葉はさも困っている様子だが、実際に語るその顔には困っている様子など微塵も感じられない。
とりあえず、彼女の着替えが終わるまでは大人しく待つことにしよう。
弁慶は自分の部屋ではなく、広間で二人が来るのを待った。










例えばあたしが妹であなたが兄だったなら










弁慶の妹になってみよう
2008.2.6

 
  

 
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