紫陽花が抱く月下美人 | ナノ
感情と本心
この感情の意味 を
弁慶が那由多の血で汚れた着物を着替え、再び那由多の部屋へ戻ってくれば、その部屋の前に居座る二人の人影に気がついた。
同じ色をした頭が二つ。
一つは部屋にいるはずの兄。
そして、もう一つは白龍の神子である望美を呼びに行ったはずの甥。
甥がこの場にいるということは、無事に望美を連れてきたのだろう。
だが、二人がそろって部屋から出ているということは、望美の浄化でも始まったのか。
それとも、他に理由があったのか。
なんにせよ、今からそれを確認しなくては。
弁慶は二人がいる場所まで近付いた。
「ちゃんと望美さんを連れてきてくれたんですね」
近付きがてら声を掛ければ、その声に反応してヒノエが視線を投げて寄越す。
チラリと弁慶の姿を確認してから「当然だろ」と返事を投げる。
ヒノエの返事を予想していたのか、弁慶が笑顔で礼を告げれば、不機嫌そうな表情が返ってきた。
それに少しだけ苦笑する。
「二人が部屋から出ているということは、浄化が始まったんですか?」
閉じられている襖を眺めながら、誰とはなしに問う。
中の様子はわからないが、どうやら何か会話をしているらしい。
那由多の意識が戻っているのを知って、弁慶はそっと溜息を吐いた。
どうせなら、自分が兄から容態を聞くまで目が覚めないでいて欲しかった。
そう、胸中で独白する。
目が覚めているのは嬉しいが、逆に、それが面倒になることもあるのだ。
今は後者を指している。
「あぁ。けど、さっきから何か話してるみたいでな」
「まだ浄化自体はされてないみたいだね」
湛快とヒノエから今の状況を聞きながら、もう少し時間がかかるのなら、と覚悟を決める。
「那由多の状態はどうなんですか?」
再び湛快に尋ねれば、彼はぐしゃぐしゃと自分の髪をかき回した。
兄がそんな態度を取るのは、言うのを渋っているときだ。
何か、自分には話せないような状況にでも陥っているというのか。
那由多と自分の関係を知っている、彼が。
この胸の苛立ちは何だろう。
二年も会っていないとはいえ、たかがこれくらいのことで、自分の感情が振り回されるとは。
(たかがこれくらいのこと?)
ふと、何かが引っかかった。
確かに、昔から穢れには弱く、稀に穢れに当たると大事になっていたのを覚えている。
けれど、よくよく思い出せば、日常茶飯事ではないとしても、自分が知る限りたびたびあったはずだ。
ならば今回のことは、久し振りすぎて感覚が鈍っているせいか。
自分の感情を宥めるように、過去に彼女が受けた穢れを思い出している。
(あぁ、そうか。そう、でしたね)
そして、ようやくその答えに思い当たる。
思えば、ここまで大事になった試しがなかったのだ。
怨霊に襲われたのも初めてであれば、ここまで大きな怪我を負ったのも。
自分の着物についた血の量と、那由多の青い顔を見たせいで、少し頭が混乱したのだ。
一人のために、我を忘れるだなんて自分の柄ではない。
「僕は、薬師です。怪我人の状態が気にならないわけないでしょう?」
もっともらしい理由を言えば、自分に向けられる敵意にも似た視線を肌に感じた。
こんな視線を送ってくるのは、恐らくヒノエ。
むしろ彼以外、考えられない。
けれど、何も言ってこないところを見ると、ヒノエも那由多の容態は気になるのだろう。
ここでヒノエが弁慶に牙をむこうなら、湛快から欲しい情報が得られないと知っているのだ。
「……兄上」
痺れを切らせたかのように、再び弁慶が催促すれば、湛快は弁慶とヒノエの二人を交互に見つめてから大きく息を吐いた。
「あいつの目が覚めてるんだ。本人に聞くのが手っ取り早いと思うけどな」
その言葉は、明らかに自分の口からは言いたくないという気持ちが伝わってきた。
だからといって、これで諦めるような弁慶ではない。
「彼女が素直に、僕に教えると思いますか?」
言葉は丁寧だが、ひしひしと彼の怒りが空気に伝わる。
それをヒノエは鼻で笑った。
それに気付けば、す、と目を細めてヒノエを見る。
いつもの笑顔はその顔のどこにもなかった。
「那由多がアンタに教えないのは、アンタを信用してない証拠じゃねぇの?」
不敵に笑むその姿が、いかにも自分が優位に立っていると思われて、酷く、癪に障った。
彼に、自分たちの一体何がわかるというのか。
何も知らない癖に。
ただ安穏と、決められた立場に居座るだけの、この甥に。
自分たちの何が──。
沸々と湧き上がる、憎悪にも似たこの感情。
若かりし頃、徒党を組んで暴れていたときでさえ、こんな感情は滅多に自分の中には生まれなかったというのに。
これほどまでに、ヒノエが憎いと思ったことは、
今まで一度たりとてなかったというのに。
自分を睨み付ける弁慶の瞳に、今までにない炎を見たヒノエは、思わず息を呑んだ。
幼い頃はともかくとして、自分の記憶の中にある弁慶は、滅多なことがない限りいつも笑みを絶やさなかったはずだ。
けれど、燃えさかるような炎を瞳の奥に宿しているこの男は、見たことがない。
「何も知らない若造が、でかい口きくんじゃねぇ」
「ちょっ、何すんだよ!」
ガシッとヒノエの頭をその大きな手で掴むと、そのまま手に力を加える。
思っていた以上に痛いのか、ヒノエは次第にバタバタと暴れ始めた。
けれど、湛快は離す気がないらしい。
ヒノエが大人しくなるまで、ギリギリとその頭を掴み続けた。
「ったく、コレだからガキは困るんだ」
ヒノエが黙ったところで、やれやれと言いながらようやく湛快はその手を離した。
当のヒノエは、これ以上被害を受けないようにと、湛快と弁慶から距離を置いた。
けれど、部屋からさほど離れていない位置にいる辺り、彼らしい。
「肘から手首にかけて、一直線だ」
簡潔に、要点だけを口にすれば、何のことかと弁慶がゆっくりと瞬きを繰り返した。
ヒノエにおいては、首を傾げる始末。
瞬きする間に、弁慶は自分の持っている情報とそれを結んで、結論を導き出す。
それが、那由多の怪我の具合だとわかるまで、そんなに時間はいらなかった。
そうですか、と小さく頷きながら、自分が欲しかった情報の一つが手に入ったことに満足する。。
本当は、穢れの具合も聞きたかった。
けれど弁慶の視線に何かを悟った湛快は、先に先手を打つことに成功したらしい。
「これ以上は、オレが勝手に口に出していいものじゃねぇよ」と。
そう言われてしまえば、そうですか、と諦めるより他はない。
まぁ、望美に浄化してもらうのだから、それは聞かずともよいかと至極あっさりと納得したせいでもある。
「おい、親父」
「……言うな」
逆に、湛快に意見したのはヒノエだった。
その端正な表情を歪めているヒノエに、湛快は短く告げる。
僅かなやり取りだけで二人には通じたらしい。
だから、弁慶には気付かなかった。
二人が自分に何を隠しているのか。
ヒノエは知っているのに、自分は知らない、事実を。
そんなやり取りをしている間に、室内でも状況は変わっていたらしい。
目には見えない神気を感じたことで、望美が浄化を行ったことを知る。
生憎、それに気付いたのはヒノエと湛快だったが。
「やっぱり女の子ってのはいいよなぁ」
しみじみと呟く湛快に、ヒノエは呆れ顔。
そして弁慶もどこか曖昧な表情を浮かべた。
「確かに、華があっていいとは思うけど、今更だろ」
「本当、相変わらずですね」
「うるせぇ」
たわいもない会話を交わしながら、中の会話が聞こえないかと聞き耳を立てる湛快に、二人はほとほと呆れた。
けれど、ヒノエも興味があるのか、そわそわと部屋の様子が気になって仕方がないらしい。
浄化が終わったら声を掛けろとは告げてあるが、それがいつなのかまではわからない。
すぐさま声がかかるのか、それともしばらく待たねばならないのか。
けれど、ほどなくしてその障子が開かれる。
「あなたたち。女性の部屋に聞き耳を立てるのは、無粋な人がすることよ?」
にっこりと満面の笑みを浮かべてその場に立つ女性は、つい先程まで意識を失っていたとは露程も思えない。
未だ、血色が悪く見えるのは、その身体に巡る血が足りていないせいか。
瞬時にそう思うのは、自分が薬師だからか。
けれど、呪縛にかかったかのように、弁慶は言葉を話すことが出来なかった。
久方ぶりの再会は、あまりに緊迫した状況で喜べる雰囲気ではなかった。
二年という歳月は、女性を変えるには充分な時間だと、理解しているはずなのに。
目の前に立つ彼女は、一体誰なんだろうと、思わずにはいられない。
それほどまでに、最後に見た記憶にある那由多と、目の前にいる那由多が結びつかない。
「二つの華がどんな囁きを交わしているか、つい気になってね」
「悪かったな」
相も変わらずな言葉を紡ぐヒノエと、あっさりと謝る湛快。
似ているようで、どこか似ていない二人は、その対処法も違っていた。
そして、謝罪の言葉どころか、一言も言葉を発さない弁慶に、那由多の視線が向けられる。
ほんの僅かな時間。
その視線が僅かに揺れていた。
瞬き一つする頃には、その視線は消えていて。
もちろん、那由多の後ろにいた望美にはわからなかった。
「それで、あなたは何も言ってはくれないのかしら」
その言葉が、弁慶の呪縛を解き放った。
はっと我に返り、那由多を上から下まで見る。
着物に隠れている傷は、一目見ただけではわからない。
それ以外に、目立った外傷も見当たらないことに安堵する。
だが、そうじゃない。
自分が彼女に言うべき言葉は、一つだけ。
「君が無事で、良かった……」
そっと那由多の手を取り、自分の額に当てながら心からの本心を口にする。
「……及第点、にしておいてあげるわ。お帰りなさい、弁慶殿」
そう言われて、弁慶はようやく自分が告げるべき言葉を理解した。
ねぇ この声が聞こえる?
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やっとここまで来た……
2007/9/8