紫陽花が抱く月下美人 | ナノ
全ての終わりと、そして……
 









本当に欲しかったもの










那由多が前へ進み出れば、誰もが彼女の姿を目で追った。


「那由多さん……」


ふらふらと望美がヒノエから離れ、那由多の元へと行く。
自分の目の前に望美が来ると、那由多は彼女をそっと抱きしめた。


「ごめんなさいね、望美さん。折角運命を変えてくれたのに、こういう結果になってしまって」


望美だけに聞こえるように耳元で囁けば、彼女はただ首を横に振るばかり。
いつもは強い彼女の肩が、僅かに震えているのを感じた。










どうして自分たちは、こうも罪ばかりを重ねることしかできないのか。










まるで無限廻廊のように同じ事を繰り返して、いつまでたっても前へ進めない。
望美が自分たち二人を生かしてくれた運命。
せめて、この運命だけは変わってもいいのかもしれない。



その為には、けじめが必要。



那由多は、望美をそっと離して、弁慶の前へと進み出た。
行宮でのあの一件のせいか、彼の前に立つのが怖い。
また、あの時のような絶望がやってくるような気がする。


「全てが終わった今、私たちも元に戻るべきよね……叔父上」


静かにそう言えば、弁慶の瞳に悲壮の色が浮かんだ。
今までの関係を、少しでも惜しいと思ってくれていたらそれでいい。
それだけで、自分は救われる。


元より、仮初めとはいえ、弁慶との夫婦関係も全て自分のせいなのだ。
熊野の、別当家の姫がこの年まで行かず後家というのも外聞が悪いが、平家と破談になったとなると尚更。
自分が藤原家を出ると言ったときに、弁慶が「それなら形だけでも自分が娶る」と言ったのだ。
その言葉を聞いて、自分がどれほど喜んだのか、弁慶は知らない。
そして、自分は弁慶が自分のことをどう思っているかも、知らなかった。
それを知ったのは、冷静になって彼の言葉を反芻してからのこと。
だから、彼は愛してもいない自分と夫婦になった。
例え自分が彼を恋い慕っていても、彼がそうでないことは、湛快が言った言葉からわかった。



だから、弁慶は自分とは絶対に身体を繋げない。



それ以外に理由があったとしても、既にある姪と叔父の関係が、自分たちの間の壁になった。
もし血縁になければ、と思ったことも少なくはない。
だが、思ったところで血縁という事実は変えられない。
この想いは、諦めるより他はないのだ。


後は、はっきりと弁慶に別れの言葉を告げれば、この関係に終止符が打たれる。
そうしたら、ヒノエと共に熊野へ帰ろう。
弁慶は九郎と一緒に京へ行くだろうから、彼が熊野へ来るまではしばらく顔を見ずに済む。


気持ちの整理が付けられる。


例えここにみんながいようと、すでに行宮で恥はかかされた。
これ以上恥をかいても、自分は何も恐れる物はない。
逆に、彼に恥を掻かせることで、自分が受けた屈辱を晴らそうとしているのかもしれない。










「叔父上。那由多は、あなたのことを愛してました」










恋していた、とは言えなかった。
自分の気持ちは、そんな生半可な物ではない。
もう何年も。
そう、それこそ幼いときから弁慶を想っていたのだ。
薬師になったのだって、自分の体質のこと以外に、少しでも弁慶に近付くため。
彼と同じ武器を手にしたのだって、そう。
だが、今までのように故意に怨霊が生まれなくなれば、武器を手にすることもなくなるだろう。
戦に加わる前と同じように、熊野で薬師として。


那由多は、弁慶に深く頭を下げると、ゆっくりと頭を上げた。
そのとき、一度だけ彼と視線が交わる。
愛おしそうな者を見る、そんな瞳。
久し振りに、弁慶のそんな瞳を見た気がする。
最後に見たのは、この歪んだ関係が生まれる前。
ただの血縁に戻ったことで、その瞳が再び自分に向けてもらえるなら、それでいい。
弁慶の瞳から逃れるように、那由多は方向転換をした。
それから、項垂れているヒノエと望美の元へ向かうつもりだった。





弁慶に、その手を掴まれるまでは。





ぐい、と進むことを妨げるように自分の腕を引かれて、那由多はその場で足を止めた。
これ以上、弁慶の顔を見ていられる自信はないというのに。
ともすれば、今にも零れ落ちそうなこの雫。
深く深呼吸することで堪えると、再び弁慶の方へ向き直った。


「まだ何かある……」


言葉は、最後まで続かなかった。
鼻につく馴染みのある匂いは弁慶の物。
それほど日が空いたわけでもないのに、懐かしいと想ってしまう自分は、相当重症なのだろう。
彼の腕の中にいると気付いたのは、程なくしてから。


「……言い逃げは、ずるいじゃないですか」


小さく呟くと、那由多を抱く腕の力を更に強めた。
離さないように、逃がさないように。
けれど、痛いと感じないことから、そこまで強い力ではないとわかる。
この腕に捕らえられても、逃げることなど頭の隅にすらなかった。


「言い逃げって、事実でしょう?あなたは、私のことを……想っても、いなかったんだから」


小さくなっていく語尾に、弁慶が少しだけ身を離した。
お互いの顔が見える、そんな距離まで。


「それですよ。どうして僕が、君を想っていないなど言うんですか」
「え?だって、行宮で私のことを少しでも想っているか聞いたら、あなた言ったじゃない。私がよく知ってるって」


形だけで娶られたなら、想うことなどなかったはず。
それを、自分がよく知っていると言われれば、想っていないと考えるのが自然。
弁慶は那由多の顔をまじまじと見た後、深く溜息をつきながら項垂れた。


「どうやら、お互いに誤解があるようですね」
「これ以上、何の誤解があるというのっ?」


目尻に浮かんできた涙に、これ以上は限界だと心が訴える。
これ以上、自分に言葉を紡がせないで。
でなければ、何を口走るかわからない。
妙なことを言い出す前に、どうか──。










「姪だからっ、あなたが私を想ってはくれないから、決して夫婦にはしてくれないのでしょうっ?!」










それを告げた瞬間、堪えていたはずの雫が一筋、頬を伝った。
弁慶が小さく瞠目したのがわかったが、今はそれ以上何も言えない。
だって、その態度が事実を物語っている。
すでに周囲に人がいることすら、気にならなかった。


「誰が、そんなことを言いました」


一人冷静に話す弁慶に表情がない。
けれど、それを気にする余裕すら、今の那由多にはなかった。
一度零れてしまった雫は、止めどなく溢れてきて。
そのせいで、上手く言葉が紡げない。
声を出そうとしても、しゃくり上げる声しか出せない。
それがひどく、もどかしい。


「っ……那由多」


再びきつく抱きしめられれば、彼の着物にしがみついて顔を埋めていた。
そんな那由多の髪を優しく撫でながら、弁慶が静かに話し始める。


「形だけの、偽りの関係だと言われて、誰が自分の大切な人を抱けるというんですか」
「え……?」


思いもよらない弁慶の言葉に、思わず涙が止まる。
今耳にした言葉は、自分が聞かせた幻聴だろうか。


「あのときは、君も微妙な位置にいた……知盛殿と破談になって、良くない話も出回って。そんなとき、兄が偽りの関係でいいから君を娶ってくれないかと言ってきたんです」


そんなこと、初耳だ。
那由多はのろのろと弁慶を見上げた。
弁慶は那由多ではなくどこか遠くを見ている。
恐らく、自分が彼を見上げているということにすら、気付いていないかもしれない。


「だから、僕はこの関係が続く限り、君を自分の物にすることはできなかった」


そんなことを言われたら、また期待してしまうではないか。
それとも、今のこの状況すら自分が見せている幻か。
だって、あの弁慶が自分のことを想っているだなんて。


「知ってますか?僕は昔からずっと、ただの一度しか恋をしたことがないんですよ」


そっと那由多の頬に残る涙の跡を拭いながら、真摯な瞳で見つめられる。
その瞳に、嘘いつわりは見えない。
未だ言葉が出ない那由多は、小さく頭を振った。


「いつだって、僕の心を占めていたのは君なんです、那由多。だから、今度はちゃんと僕から言わせて下さい」


止まっていたはずの涙が、またしても溢れてくる。
はっきりとしない視界は、歪んだ世界を伝える。















「僕の伴侶に、なってくれますね?」















その言葉を、どれほど待ち望んでいたことか。


「っ…………はいっ……」


那由多は小さく返事を返すと、そのまま弁慶に抱き付いた。
彼女の背にそっと自分の腕を回し、離さないように抱きしめる。
そんな二人を離れたところから見ていたみんなは、これで本当に全てに決着がついたのだと笑みを零した。


「……ったく、そういうことかよ」


ブツブツと愚痴を零すヒノエだが、その表情はどこか嬉しそうだった。















熊野本宮。
そこには戦を共にした仲間の姿があった。
これから、本宮で行われるのは那由多と弁慶の婚儀。
望美たっての願いで、彼女の世界で行われている婚儀をするのだ。
以前は形のみということで、婚儀すら上げることはなかった。
二度と婚儀は上げられないと、思っていた。





けれど、自分の隣には弁慶がいる。

そして、その祭儀を司るのはヒノエ。





望美が運命を変えようと思わなければ、こんな日など決して来ることはなかったのだろう。
それを思えば、彼女には感謝してもしきれない。





彼女の知る、違う自分は今頃、我が子を腕に抱いているのだろうか。

弁慶の、忘れ形見を。





自分には弁慶がいる。


これから先の運命は、望美も、神でさえも知らない。


けれど、彼と共にある限り、自分はどんなことでも乗り越えていくだろう。










昔から始まった一度だけの恋は、ようやくその花を結ばせた。










一つの物語の終わり










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これが本当の最終回
2007/11/17


  あとがき
 

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