紫陽花が抱く月下美人 | ナノ
禊ぎと本宮
 









そうして僕は己の無力さを思い知るのだ










那由多を横抱きにしたまま、本宮へと駆けていく弁慶の横顔は、どこか切羽詰まっていた。


一体いつから彼女はあそこにいたのだろうか。


これほどまでに血の気が無くなると言うことは、相当長い時間、一人で穢れに耐えていたのか。
自分たちが丁度良く本宮へ辿り着いたから良かったものの、下手をしたら命を落としていただろう。
だが、彼女が穢れを受けるのは、その身に傷を負った場合だ。
見た感じ、それほど深そうな外傷は見えなかったから、僅かな傷から時間を掛けて穢れが体内を巡ったのだろうか。


「弁慶、こっちだ」


先に霊水の準備をしに行ったはずのヒノエが、二人の姿を見付けて誘導する。
どうやら、床の準備と禊ぎの準備を指示したらしい。


「おう、待ってたぜ」


ヒノエと弁慶を待っていたのは湛快だった。
柱に背を預け、二人の姿を確認してから、弁慶の腕の中にいる那由多を見る。
顔はすっかり青白くなり、半ば意識も失っている那由多を見て、湛快は顔をしかめた。


一目で事の重大さに気付いたのだ。


「全く、この姫さんにはいつも冷や冷やさせられるな」


弁慶の腕から湛快の腕に。
そっと那由多を移動させれば、湛快はしっかりとその腕で那由多を抱きかかえた。


「とりあえず、全てが終わるまでは大人しく待ってろ。おい、急いで禊ぎを始めるぞ!」


弁慶とヒノエに一言告げてから、側で控えていた人たちに聞こえるように声を張り上げる。
湛快が踵を返せば、直ぐさま女房やら本宮に仕える巫女やらが、那由多を取り囲んだ。
二人はその姿をぼんやりと眺めていたが、境内に望美たちを置いてきたままだということに気がついた。


どうせ禊ぎが終わるまで何も出来ることはないのだ。


湛快も、全てが終わるまでは大人しく待っていろと言った。
ならば、この間に望美たちを本宮に連れて来るのが得策だろう。
そう考えて、ヒノエがくるりと回れ右をしたときだ。
弁慶の着物の胸元に、見慣れない血がついている。
本宮に来るまでに、熊野川で怨霊と戦ったが、彼は怪我一つ負っていないはずだ。
それに怪我をしても薬師なのだから、傷の手当てをしないのもおかしい。


「アンタ、いつ怪我なんかしたんだ?」


訝しげに問われて、ようやく弁慶も、自分の着物に血がついていることに気付いたらしい。
首を傾げてから自分の着物を見て、あぁ、と小さく声を上げる。


「僕の血ではありませんよ。これは彼女の血です」


そう言いながら、弁慶はここまで気付けなかったことに歯噛みした。
自分の着物にまで血が滲むくらいだ。
きっと那由多の怪我は相当深いのだろう。
だとすれば、あれだけ血の気が無かったことにも納得できる。
薬師の自分が、目の前の怪我人の様子もわからなかったなんて。


それほど、動揺していたとでもいうのか。


那由多も薬師なのだから、自分の様子は誰よりもわかるだろう。
それでも手当をしなかったのは、そうできない理由があったからか。
しばし思案してから、今にも望美たちを迎えに行きそうなヒノエに、声を掛ける。


「ヒノエ、望美さんを那由多の部屋に連れてきてはもらえませんか?」
「望美を?」


言われた方は、なぜ?と目を丸くする。
確かに今から望美たちを迎えに行くが、望美一人だけを那由多の部屋へと呼ぶ理由がわからない。
薬師なら、本宮にもいるし、弁慶もいる。
那由多が意識を取り戻せば、那由多自身が自分の面倒を見るだろう。


ならばなぜ、望美なのか。


白龍の神子、源氏の神子として最近巷で名を馳せているが、彼女が薬師だという話は聞いていない。
傷の手当てというのなら、望美より朔の方が適任だろう。


「望美さんは白龍の神子。穢れを浄化する力があると聞きます。禊ぎでは祓いきれない穢れを、彼女に浄化してもらいましょう」
「あぁ、そういうこと」


弁慶が何を言いたいのかを理解して、そういうことなら、と改めて望美たちを迎えに行く。
ヒノエが去り、その場に一人残された弁慶は、近くにいた女房に那由多の部屋を聞いた。
大体の場所を教えられると、その部屋へと一人向かう。
勝手知ったる何とやら、というわけではないが、本宮の中なら自分一人でも歩ける。
だから、女房に教えられた部屋へも、迷うことなく辿り着いた。
障子を開けて中へと入る。
主のいない部屋には、既に床の準備が出来ている。
その辺りはさすが、と言わずにはいられない。


「ヒノエも、彼女が好きですからね」


過去を振り返って小さく呟けば、幼いヒノエが独占欲むき出しで、那由多の周りにいた事を思い出す。
幼い頃から、ヒノエも那由多が好きだった。
だからこそ、二年前のことはヒノエも気に入らないのだろう。
本当に幼い頃はともかくとして、彼が自分に対して今のような態度を取り始めたのは、いつの頃だったか。
最大の転機があるとすれば、二年前のアレが原因だろう。





「けれど、僕も手放すことは出来ないんですよ」





聞く者がいない言葉は、空気に溶けて消えた。
そのまま口を閉ざしてしまえば、部屋に静寂がやってくる。
恐らく、禊ぎが済んだ彼女を部屋へ連れて来るのは、兄の湛快だろう。
ならばそのときに、彼女の怪我の具合も聞いておきたい。



あぁ、けれど。


もし仮に、那由多の意識があったなら。


彼女のことだ。自分には傷の様子を教えてはくれないだろう。


どうか願わくば、彼女の意識が戻るのは望美がやって来てからであってほしい。



懇願にも似たような願いを、胸中に思い浮かべる。
やがて、廊下を歩いてくる足音が聞こえてきた。
真っ直ぐにこちらへ向かってくる足音は単数。
それで、禊ぎが終わったのだと理解する。
すっくと立ち上がり、部屋の障子を開けてやれば、目の前に湛快と彼に抱かれる那由多の姿。
湛快の腕の中にいる那由多を見れば、眠っているのか、はたまた目をつぶっているだけか。
彼の胸にもたれかかるように、完全にその身を任せている。
だが、未だその顔色は青白い。


「那由多の様子は?」


そっと、額にかかる前髪をどけてやりながら湛快に尋ねれば、少しだけ言いにくそうに視線を逸らした。
それほど悪いのだろうか、と那由多の頬に触れてみてから、湛快は那由多を褥へと横たえる。
その際、彼女の腕に白い物が撒かれていたのが目についた。


それが、穢れの原因なのだろう。


少しでも多く、那由多の様子を知ろうとした弁慶に、湛快が溜息混じりに一言。


「そんなことより、お前は先に着替えてこい。そんな血のついた着物をいつまでも着てるんじゃねぇ」


言われて、そういえばと思い出す。
ヒノエにも言われて、自分はこれが彼女の血だと答えたはずだ。
今この場に望美が来たら、自分が怪我をしたのではないかと心配するだろう。
そんな簡単なことにも頭が回らない。
弁慶は自嘲気味に笑みを浮かべた。


「僕としたことが、つい我を忘れていたようです。先に着替えてきますから、戻ってきたら説明してください」


しっかりと釘を刺し、湛快がどこかへと姿をくらます事を未然に防いでおく。
そうでもしないと、神出鬼没なこの兄はどこへ行くかわからない。
まぁ、那由多がこの状態なら、どこかへ行くということは考えられないが。


弁慶が部屋から出ていくと、足音が遠くなっていったのを確認してから、湛快は重く息を吐いた。
相変わらず、我が弟ながら恐ろしい。
いつも笑顔でいるのは、その胸中を悟らせないためだとはわかっている。
けれど、自分にくらいは、と思ってしまうのはやはり身内であるからか。
先程の弁慶の様子を思い出しながら、目の前で眠る彼女の髪にそっと触れる。
幾分、頬に朱が戻ってきたようにも見えるが、那由多が目を覚ますには、しばし時間がかかるだろう。


それだけの血を、流しすぎた。


昔から穢れには敏感であったはずの那由多が、ここまで酷い穢れを受けたことはない。
ましてや、二年前からはそれまで以上に、穢れに気を遣っていたはずだ。

それなのに、どうしてこんなことになったのか。

那由多のことも確かに心配だが、今の湛快の気を引く物はただ一つ。


「アレが我を忘れるなんざ、よほど想われてるわけだ。お前さんは」


先程の弟の姿を思い出して、くつくつと楽しそうに喉を鳴らす。
弁慶が自分から言ったとは言え、我を忘れるなど彼にあるまじき事だ。
珍しい物が見れたと喜ぶべきなのだろう。


「……そんなこと、ないわ」


ぽつりと呟かれた声に、湛快の意識がそちらへと向けられる。
部屋にいるのは自分と那由多の二人だけ。
今自分が言葉を紡いだ覚えはないから、そうなると必然的に一人しかいなくなる。
けれど、那由多の両目は未だ閉じられたまま、一向に開く気配はない。


自分の空耳だったのだろうか?


いや、だがしかし。
湛快が注意深く那由多の様子を見ていれば、ややあってから、まぶたが僅かに動いた。
それが引き金となったのか、ゆっくりと瞳が開かれた。


ぼんやりと、定まらない視線が宙をさまよう。


やがて視界に入った朱に、数度瞬きを繰り返し、ようやく焦点が結ばれる。


「湛快、様……?」


それから再び視線を巡らせ、自分がどこにいるのかを確認すれば、それまでの事柄を全て思い出す。

ここは先日、本宮にやって来た自分に用意された、一室。

そして自分の横にいるのは前別当である湛快。

ならば禊ぎによって自分の身は祓われたのだろう。
だが、わざわざ彼の手を煩わせたことに違いはない。


「お手数を、お掛けしました」
「いや、無事で何よりってな。しかし、目が覚めるのはもう少し先かと思っていたが」


湛快の言葉に苦笑を浮かべながら、上体を起こそうと身じろぎすれば、半分もいかないうちに目眩がした。
それに気付いた湛快が慌てて那由多の背中に腕を回す。


「あんまり無理はするもんじゃない。そうじゃなくてもお前さんは血を流しすぎたんだ。しばらくは安静にしとくんだな」
「そういうわけにもいきません。彼らが来たのなら、私も務めをはたさなければ」


やんわりと、まるで弟に似た笑みを浮かべて拒絶の言葉を告げる那由多に、湛快は溜息を吐いて天井を仰いだ。
那由多に関しては、誰よりも理解していると自負している。
だからこそ、一度告げたことは頑として譲らないことも、嫌というほど知っているのだ。


「だがなぁ、さすがに今の状態じゃあいつらに同行することは無理だろ」


そう言って、湛快が指差したのは怪我をした方の腕。
指摘され、思わず着物の上から腕に触れる。

禊ぎをされ手当てもされているが、穢れが完全に癒えたわけではない。
未だ身体は重いし、傷のせいだけではない目眩と、気分の悪さ。
確かに、今の自分が同行しても、逆に足を引っ張りかねない。
安易に想像出来る自分に嫌気がさした。


「確かに、そうかもしれません。ですが、湛快様の」
「違うだろ」


言葉途中で遮られれば「え?」と小さく声を上げる。


「ここには俺とお前さんの二人しかいないんだ。そんな他人行儀、悲しくて仕方ねぇ」
「けど、私は。あ……湛快様。この話、今は無かったことにしてください」


不意に言葉を途切れさせる那由多に、湛快は不可解そうに首を傾げる。
だが、それほど時間をおかずに、その理由が判明した。
廊下を歩く複数の足音。
一つは良く聞き慣れた音だが、もう一つはそれよりも軽い。


「ね?」


それを耳にしてから湛快に言えば、渋々と頷いた。
というよりは、がっかりと肩を落としたという方が適切かもしれない。
仕方なく那由多の半身をしっかりと起こしてやってから、脇息を用意する。
それにもたれかかるのを見てから、肩に羽織を掛けた。
「ありがとうございます」と礼を言われてしまえば、これ以上自分がしてやれることは何もない。
那由多の様子も気になるが、これから来客があるのであれば、自分は退室すべきだろう。
けれど、弁慶がこの場を動くなと言ってくれたおかげで、どこにも行けずにいる。
いや、動いてもいいのだが、その後が怖いせいで動くに動けない、というのが本音だ。
ひとまず部屋の隅の方へ行き、そこに腰を下ろす湛快を見て、那由多はやがて訪れるであろう人物を待った。


「弁慶、入るぜ?」


聞こえてくる声はヒノエの物。
自分ではなく、弁慶に尋ねるということは、自分が未だ目覚めていないと思っているからか。
けれど、その弁慶も今は部屋にいない。
そうなれば、返事を返すのは必然的に、部屋の主である那由多となる。


「どうぞ」


入室を促せば、静かに障子が開けられる。
そこにいたのはヒノエと、一人の少女。
紫苑色の長い髪を背に流し、丈の短い着物を身につけ、惜しげもなくその足をさらしている。
それだけならばまだしも、着物の上には陣羽織。


この少女が、白龍の神子。


自分よりも年下であろう少女は、戸惑う様子もなく真っ直ぐに那由多を見つめている。
その瞳が、どこか不安げに揺れているのは、本宮の前で見た姿を覚えているからか。
その不安を払拭させるためには、彼女が覚えている姿と全く違う物を見せればいい。



「こんな姿でごめんなさいね」



笑みを浮かべ、一言謝罪の言葉を述べる。
それからヒノエに視線を向けて「お帰りなさい」と告げれば、同じように笑みを浮かべて「ただいま」と返してくる。
その後、ヒノエの後ろにいる少女へと視線を移す。


ヒノエと弁慶が見初めたであろう少女。









「先程は見苦しい姿をお見せしました。初めまして、白龍の神子姫様。熊野へようこそ」










熊野での望美と那由多の出会い。



このときすでに、以前の運命とは大きく変わっていると、望美は実感していた。










ねぇ 私はちゃんと上手く笑えた?










+++++++++++++++

湛快も好きです(笑)
2007/9/4


  
 

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