紫陽花が抱く月下美人 | ナノ
黒い外套と分かれた道
 









否定してしまうのは簡単で










源氏が撤退をすれば、行宮へ向けての攻撃は止んだ。
けれど、弁慶はしばらく動くつもりはないらしい。
その場に立ち、ただ黙っているだけ。


「弁慶さん、本当によかったんですか?那由多さんのこと。その……離縁とか」


躊躇うようにそっと問えば、帰ってきたのは痛いくらいに儚い笑み。
そんな顔をするくらいなら、どうして彼はあんなことを言ったのだろう。





彼女を傷つけようとして、自分が傷ついているだなんて、酷い矛盾。















撤退を余儀なくされた源氏は、なんとか血路を開き、立石山まで逃げ延びることが出来た。
けれど、その場に望美と弁慶がいない。
そのことに酷く落胆しているのは、他の誰でもない、九郎だろう。


「みな、無事だな?」


陣幕を張り、これからのことを考えるために軍議を開く。
その場にいる、ここにはいない二人以外の無事を確認すれば、那由多の姿が見えなかった。
けれど、那由多はいつも軍議には出ない。
自分は薬師だから、軍議は戦をする者たちでするべきだ、と源氏に来て初めての戦の時にそう言いきった。
恐らく、弁慶がいない今は負傷した兵たちの傷を診ているのだろう。
そう思い、次の言葉を言おうとしたときだった。





「遅くなりました」





そう言って入ってきたのは、見覚えのある外套。
誰もがその外套を見て言葉を失った。





今頃、平家に寝返ったはずの彼が、どうしてここにいる?


彼がいるのなら、望美は一体どこに。


弁慶の突然の裏切りには怒りを覚えたけが、この場に戻ってきてくれたのなら、あれは演技だったのか。


平家を陥れるための。





そう、誰もが思った。


「裏切り者が戻ってきたなら、いつまでも呆けていないで、捕らえなくては駄目よ」


けれど、聞こえてきたのは彼の声とは似ても似つかぬ、女性の声。
その声には、誰もが聞き覚えがある。
目深に被った外套を落とせば、緩く波打つ髪は変わらない。
だが、現れたのは蜂蜜色ではなく、赤茶。


「那由多殿っ!これは一体何の冗談だ!」
「……誰が冗談だと?」


今にも掴みかかりそうな勢いの九郎に、那由多の返す声は鋭い。
まるで、誰かに似ている。
それが誰かとは、言いたくても言えないが。
けれど、血縁だと言っていたから、似ていて当然なのかもしれない。


「軍師である弁慶が平家に寝返ったとわかれば、兵士たちの士気は一気に下がる」
「なるほど、それで弁慶さんと同じ外套ですか」


那由多の言わんとすることを悟った譲が、小さく頷いた。
異世界人の譲が気付いたのだ。
源氏の総大将がわからないはずがない。
譲より少し遅れて気付いたらしい九郎は、ぐうの音も出せなかった。


「確かに、弁慶の外套は遠目からでも目立つからね〜」
「それに、軍師がいるのといないのでは、戦略にも差が出てしまうだろう」


景時や敦盛が納得したように同意した。
だが、彼らは気付いているのだろうか。
この外套を用意したのが一体誰なのかを。


仮に、那由多が準備していたと思っているなら、それは弁慶の裏切りを知っていて黙認していたということ。
実際はそうなのだが、この場にいる誰もそれは知らない。
那由多も、あえて自分から話そうとは思わなかった。
そして、弁慶自信が用意していたと思うのなら。


「……アイツは始めから、こうするつもりで那由多を源氏に呼んだわけだ」


全てを悟ったように、ヒノエが思ったことを口にした。
その言葉に、誰もが自分の耳を疑う。


「ちょっと待てよ、ヒノエ。弁慶さんがこうするつもりだったなんて、どうしてわかるんだ?」
「そんな物まで用意してるってのが何よりの証拠だね」


つい、と顎で那由多の外套を示せば、誰もが那由多の身に纏う外套に目を遣る。
弁慶の来ていた外套と同じ作りのそれは、違いを挙げればごく僅か。



裏地の色と、梵字の有無だけ。



弁慶の外套は水色の裏地がついているが、那由多の裏地は極薄い黄色。
そして彼のほうには頭部左右の位置に梵字があるが、那由多のそれにはない。
わざわざ言葉で説明して仕立てさせるより、実物を持って行って見せた方が早い。
那由多が身に纏っているそれは、確かに戦の前に弁慶から譲り受けた物だった。


「なぁ、那由多。アイツは何を考えてるんだ?」


やはり、ヒノエは誤魔化されてくれそうにない。
そうでなくとも弁慶に嫌悪を抱いていたのに、今回の裏切りと離縁発言で、ついに信用をなくしてしまったらしい。
こればかりは自分にも多少なりとも責任がある。
いつもヒノエに黙って行動するのは自分たち。
そんな自分たちに歯がゆい思いを抱いていたのを、那由多は知っている。


「……それは私の口からは言えないわ」
「なぜだっ!那由多殿も、弁慶の片棒を担ぐつもりかっ」


ヒノエの問いに答えるのを拒否すれば、九郎が詰め寄る。
確かに、片棒は担いでいるのだろう。
彼が寝返るとわかっていながら、自分は引き止めることをしなかった。
それだけではなく、そのことを誰にも話さなかったのだから。
彼が何を思い、願っているのかは知っている。
そのために、命を投げだそうとしていることも。





共犯者である自分は、それに口を出すことも、止めることも出来ない。





むろん、言うだけならば言えるだろう。
それを弁慶が素直に聞き入れるとは、どうしても思えないが。


「弁慶の片棒を担ぐなら、私が源氏にいて何の得があるんでしょうね」


戦を終わらせるために、と言って平家についた弁慶だ。
もし九郎の言うとおり、弁慶の片棒を担ぐのなら、自分も一緒に平家へ行っていただろう。
弁慶に頼まれて来たのだ。
彼がいない今、源氏についている理由は、何もない。


「間者として、残っている可能性もあるだろう」


またそれか。
いい加減、那由多は溜息をついた。


「あなたは、どうあっても私を平家の間者にしたいようね」


知盛の許嫁とわかったときも、同じようなことを言われた気がする。
さすがに今回は、刀を突きつけられるような真似はされていないが。


「あの場で離縁を言い渡された女が、どんな思いでそれを言った男に従うのかしら」
「それも芝居かもしれないだろう。弁慶のことだ、何か考えていることがあるのかもしれん」


行宮で弁慶が九郎のことを「甘い」と言っていたが、まさにその通りだ。
付き合いが短い那由多のことは簡単に疑いこそすれ、弁慶のことは裏切られた今でも信じているのか。



信用と信頼は、似ているようで、違う。



それに、九郎の言っていることはあながち間違ってはいないが、自分はあれを芝居だとは思えなかった。
彼が何を思って自分に離縁を申し出たのかは知らない。
けれど、その事実が自分にとって、死の宣告をされたのと同義だったのは確かだ。


「九郎殿、言い過ぎです!」
「朔殿……」


不意に、那由多を庇うように前に出た朔に、那由多も九郎も思わず目をしばたかせた。


「みんながいるあの場で、それを言われた那由多殿がどれほどの恥をかかされたか、九郎殿はわからないんですか!」
「朔、落ち着いて」
「兄上も兄上だわ!」
「えっ、オ、オレ?」


目尻に涙を浮かべながら声を上げる朔は、ここにいる誰よりも那由多の気持ちを察しているのだろう。
景時がそんな朔を宥めようとするが、逆に怒鳴られてしまい、あたふたとしている。
そんな兄妹の微笑ましい光景に、思わず笑みを浮かべそうになるが、今はそんなことをしている場合ではない。
望美を連れた弁慶は、平家の武士たちと一緒にすでに清盛の元へ向かったはずだ。


「朔殿、ありがとう」


自分のため、九郎に声を上げた朔に礼を告げれば、彼女はただ首を横に振るだけだった。
感情が先立って、言葉がうまく結べないらしい。
そんな朔に笑顔を向けてやりながら、那由多は九郎を見た。
朔に見せた笑みは九郎を見た途端に、消えた。


「そこまで疑われているのなら、私は源氏を抜けるわ。幸いにも、軍師様はこの場にいる物と思われているようだし……その方が総大将も安心でしょう?」


厭味のように軍師と総大将を強調し、鼻で笑ってみせれば、途端に九郎の顔が怒りで赤くなる。
相変わらず、感情表現が豊かである。
これから先の源氏はどうあるのか。
弁慶がいない状況では、簡単に予想が出来そうだ。


「それで、お前は源氏を抜けてどこへ行くつもりだい?」


何かを感じ取ったらしいヒノエが問う。
けれど、それをこの場で伝えるわけにはいかない。
特に九郎がいる場では。


「さぁ、どこかしらね。薬師は怪我人や病人がいるところに現れるものよ」


そこはかとなく言葉に含みを持たせながら言うと、ヒノエは何かを考えるように、顎に指を当てた。
ヒノエが何か気付くよりも早く、那由多は身につけていた外套を肩から外した。
それを手頃な大きさになるまでたたみ、ヒノエの腕に預ける。
預けられたヒノエは、那由多と外套を交互に見たが、彼女が何をさせたいのか気付くと大人しく外套をその腕に持った。



弁慶──外套を身につけた那由多──が陣幕の中へ入っている姿を、兵士たちは見ている。

入ったということは、当然出て行かなくてはならない。



腕に残された外套は、もちろん陣幕を出て行く時のためだ。
誰かにこの外套を着せて陣幕を出れば、遠目からは弁慶が出てきたとしか見えないだろう。
来たとき同様、それを那由多がするのが本来は好ましい。
だが、ヒノエに渡したということは、本当に源氏を抜ける意志があるということ。


何か言葉をかけなくては。


そう思うのに、いつも姫君たちへ回る口は、こんな時に限って役に立たない。
那由多は陣幕の中を一度見回してから、出口へ向かって歩き出した。
止める者、止められる者はこの場に存在しなかった。
那由多が陣幕の中を移動するのを、ただ見ているだけしかなかった。










「……急いで熊野に行きなさい、ヒノエ。熊野であの人が待っているわ」










ヒノエの横を通りざま、彼にだけ聞こえるように小さく耳打ちする。
声を大にして言っても良かったが、九郎がいる手前、自分が何を言っても否定されてしまうのは、結果を見るより明らかだ。
ならば、自分のことを信用してくれるヒノエに話した方がいい。
彼ならば、余程のことじゃない限り、自分の言ったことを行動に移してくれるだろう。


「え……?」


言葉の意味がわからなかったのか、僅かにヒノエが聞き返す。
それに那由多は、もう一度だけ言葉を紡いだ。


「弁慶のことが知りたければ、熊野へ行きなさい。そうすれば、自ずとこれからの道が出来るから」


そう、熊野には湛快がいる。
弁慶のことを話すのは、自分ではなく湛快の役目だ。
那由多はヒノエの言葉を聞かずに、彼の横を通り抜けた。



陣幕を出れば、負傷した兵士たちの姿が数多く見える。
弁慶の策によって、源氏は手痛い負け戦を経験したのだ。
出来ることなら彼らの傷を手当てしたい。
だが、今はそんな時間さえも惜しい。










「私も、急がないと」










小さく口の中で呟くと、那由多は走って源氏の本陣から出て行った。










傷つくこと傷つけたこと










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いろいろと捏造してます
2007/10/31


  
 

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