紫陽花が抱く月下美人 | ナノ
裏切りと絶望
 









あっけなくも唐突に別れが訪れそれこそ簡単に何もかもがなくなってしまうのね










本隊が行宮へ辿り着いたとき、肝心の平家はどこにもいなかった。





その事実に、やはり、と思う。
源氏の行動は、弁慶によって全て筒抜けなのだろう。
なにせ、平家どころか、怨霊の姿さえ見えない。
どこかに潜んでいれば、望美や白龍がわかりそうなものだが、どちらもそんなことは言わなかった。
逆に、その事実を伝えたのは敦盛で。
やはり、怨霊となった身には、同じ怨霊の気配もわかるのだろうか。


「沖、見てみろよ」


平家がいないことに愕然としている九郎に、ヒノエから声がかかる。
その声の言うとおり、沖に目を遣れば、平家の船が何隻も見えた。


「平家の船だ。さっさと逃げて行ってるぜ」


ヒノエの言っていることは事実。
どう見ても熊野の船ではないそれは、平家の船だ。
それが沖へと遠ざかっていく。


「じゃあ、怨霊が集まっているって報告は何だったんだ?」


立石山で耳にした報告。
その報告も嘘だったのか。
いや、あながち嘘ではないのかもしれない。



浜辺に怨霊が集まっていたのは、平家が船で逃げる前触れだったとしたら?


だが、その報告すら、弁慶の策の一つかもしれないと思う自分がいる。
報告に来たのが、弁慶と通じていた平家の間者だったら。
嘘の報告をすることも容易いことだろう。


「…………」
「望美さん?」


行宮についてから、一言も言葉を発しない望美に、那由多は首を傾げた。
いつもなら、何か一言あるはずだ。
それなのに、行宮に来てからという物、何かを考えるように黙りこくっている。



それとも、何かを待っている──?



だが、彼女が待つ物とは一体何か。
ここで何が待ち受けているのかわからない身としては、望美が今何を思っているのかわからない。
そんなとき、何かが飛んでくるような音が聞こえた。
一体何が、と思った瞬間、兵士の間から叫び声が発せられる。


「どいてっ!」


負傷した兵の側へ近寄れば、その兵士には弓矢が刺さっていた。
一体どこから、と思うよりも早く、次々と矢が飛んでくる。
これでは、手当てしたくてもまともに手当てが出来ない。


「敵襲だとっ?!」


飛んでくる矢を交わしながら、九郎は刀の鍔に手を掛け、いつでも抜刀出来る体勢を取りながら、周囲を見回した。


「弁慶さん、危ないっ!」
「っ──!!」


望美が叫ぶのと同時に、弁慶目掛けて一本の矢が飛んでくる。
庇いきれないと、判断した弁慶が身構えれば、間一髪のところで望美がそれを切り落とす。


「望美、さん?」
「無事ですね?」
「え、ええ」


いつまでたってもやってこない衝撃に、弁慶が構えを解けば、目の前にいたのは剣を持った望美の姿。
その足下には、飛んできた矢が半分に切られて落ちている。


「一体何事だっ!」


未だに状況がわからない九郎が叫ぶ。
自分で敵襲かと言ったわりに、わざわざ確認するなど、どれだけ余裕があるのやら。
那由多は思わず肩を竦めた。
それでも手は止めず、負傷した兵の弓を抜き、止血する。


「平家が……後ろから攻めてきたんです」


九郎の言葉に応えたのは望美だった。
矢が飛んでくる物の、敵の姿は未だ見えず。
そんな中、彼女の発言は酷く冷静で、まるで物事を全て見据えているかのよう。





一度未来を見ただけで、同じ場面に立ちながら、冷静でいられる望美が不思議だった。





例え未来に何が起こるか知っていても、実際にその瞬間に冷静でいられるかと問われれば、否。
確かに、心構えは出来るかもしれない。
だが、彼女の知る運命と変わっていた場合、その言葉が間違っている可能性もある。
それを考えたら、ここまで冷静に対処できるだろうか。
それに、そんなことを言った場合、弁慶がこれから先、どんな行動に出るかも知っているはず。


「………………」


そっと彼を伺えば、案の定。
何かを考えるように、沈黙を守っている。
恐らく、彼の頭の中では、今頃これから先どうするかを、幾重にも考えているはずだ。
何が一番最良の手段かを。


「平家がここまで来たということは、総門に残した部隊はもう……」


悲しそうに呟く彼女の声は、未だ止まない外からの音によって掻き消された。
望美の忠告は、恐らく守られなかったのだろう。
彼らは、最後まで死力を尽くして平家と戦ったに違いない。


「敵がそこまで来ている。このままここを捨てねば、取り囲まれるぞ」


リズヴァーンが言うのならば、既に肉眼で確認できるところまで平家が来ているのだろう。
だとすると、このままここに残るのは確かに危険だ。
この場をどうするか決めるのは、大将である九郎の判断。
撤退して、一度体勢を整えるのも、平家に取り囲まれるのも。
このまま差し違える覚悟で平家と戦うのも。





全ての命が、九郎の命一つで決まる。





苦渋の選択であろうことは理解できる。
折角ここまで来て、敵の策にはめられたのだから。


(敵……?むしろ、弁慶の策と言った方がいいかしらね)


これらの全てを考えたのは、恐らく弁慶だろう。
まずは平家の信用を得るため、といったところか。
裏切り者は、どこへ行っても信用を得にくい物だ。


「退けっ!囲まれては全滅するだけだっ!!」


九郎の選んだ選択は、撤退。
ここで無駄に命を散らせては、兵の数が激減する。
九郎の言葉を聞き、兵たちは平家の攻撃を避けながら行宮の外へと撤退していく。
外に平家の武士がいたとしても、囲まれてしまうよりは、勝機はある。


「ここは敵を突破して落ち延びるしかない!急ぐんだ!!」


部下たちを外へ促していけば、九郎は兵士の手当てをしていた那由多の姿を見付けた。


「那由多殿、あなたも早く逃げろ。ここであなたの命を捨てるには惜しい」


自分の身を案じてくれる九郎の言葉は嬉しかったが、それを素直に受けるわけにはいかなかった。
そうしてしまっては、わざわざ自分が行宮まで同行した理由がなくなる。


「お言葉は嬉しいけど、それは聞けないわ」
「なぜだっ!あなたほどの薬師なら、これからの戦でも重要視されるだろう」
「だって……」
「そうですか。源氏は撤退するんですね」


九郎との会話が終わらないうちに、弁慶の声が聞こえてくる。
その声は、大きくもなく、低くもないのに、やけにその場に響いた。
とっさに九郎が弁慶を振り返る。
那由多は、ついにこのときが来たか、と目を閉じて顔を背けた。










「なら僕は、ここでお別れです」










わかっていたはずなのに、その言葉が随分と遠く聞こえる。


「弁慶……お前、何を」


弁慶に問いかける九郎の言葉が、震えている。
今まで一緒に戦ってきた弁慶の言葉が、信じられないのだろう。
九郎だけじゃない。
他にも、弁慶の言葉に驚きを隠せない人が何人もいる。



どうやらヒノエもその中の一人らしい。



弁慶の言葉に、僅かながら瞠目していたようだ。
けれど、望美の態度にはやはり感心せざるを得ない。
その冷静さに、弁慶自身も驚いていた。


目の前で交わされていく会話は、那由多の耳には届かなかった。
いや、届かなかったと言うよりは、聞く気がなかったのかもしれない。
さすがに、彼が望美を清盛への手土産として連れて行くと言ったときは、自分も驚いたが。
だが、それ以外は全て弁慶の計算の内だ。





源氏を裏切り、平家へ寝返るのも。

ここで源氏が徹底せざるをえなくなったのも。





九郎たちは、弁慶の手のひらの上で、泳がされていたに過ぎない。
だとしたら、自分もか。
共犯者という名目で、彼のいいように動かされる。





源氏に来たのだってそうだ。

神子のため、と言いながら、実際は弁慶自身のために源氏へ来た。



使われるとわかっていて、動く自分も自分だが。
このまま弁慶の思い通りにことが進む、とは限らない。
それでは、何のために望美が時空を越えてやって来たのかわからないから。
恐らく彼女は、沢山の犠牲を払ってこの場に立っている。
その為にも、弁慶を──自分たち二人を助けたいと思っている。



純粋な願いは、何よりも強い。



彼女の願いが叶う日は、必ずやってくるのだろう。
それが、近い未来か、遠い未来かはわからないけれど。
そんな未来が訪れればいい。

けれど、この運命ではその願いは叶わないのでは、と思う。


「那由多」


不意に呼ばれる自分の名前。
わざわざ自分を指名する理由は一体何なのか。
決していい理由ではないだろう。
現に、弁慶に名を呼ばれた瞬間から、妙に心臓が高鳴っている。
そう、まるでこれから起こることに、不安を抱いているように。
胸騒ぎが止まらない。


「こんなときに、こんなことを言うのは非常識だとわかっていますが……」


それ以上は、耳を塞いでしまいたかった。


何も聞こえないように。


何も、聞かないように。


聞いたら、全てが終わってしまうような予感がした。




















「僕と離縁して下さい」




















あぁ、やっぱり。
目の前が、暗くなった気がした。





弁慶との関係が、ただの叔父と姪に戻った瞬間。





「本当に、非常識な男ね」





涙の一つも出てこなかった。








泣くなよどうかきっとお前は涙なんてみせないだろうけれどよでも嗚呼 泣かないでくれよ










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このラストシーンが書きたかった
2007/10/29


  
 

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