紫陽花が抱く月下美人 | ナノ
穢れと怨霊
 









その手がさしだされることをずっと待ち望んでいたの よ










夏の空はどこまでも高く、青い。
那由多は、薬草を摘む手を止め、空を仰いだ。
額に滲んだ汗を腕で拭い、一つ息をつく。
籠の中にある薬草は三分の二ほど。
もう少し摘んでいこうかと思ったが、太陽を見れば随分と西に傾いてしまっている。


「今日はこれくらいにしておいたほうがいいわね」


独りごちてから、置いていた籠を持ち、その場を後にする。
帰路につきながら、籠の中の薬草を再度確認する。
今日は自分の手持ちの薬草で、少なくなってきた物を補充するためにやってきたのだ。
これで、摘み忘れがあったら、再び摘みにこなくてはならない。
そんな二度手間を踏むつもりはなかった。
そもそも、那由多が薬草を摘まねばならない理由は、一通の文が原因だった。
その文は、源氏の軍師を務めながら、薬師でもある弁慶から。
二年ほど前、彼が熊野から出て行ってから、那由多は一度も弁慶に会ってはいなかった。
弁慶自身は熊野に戻ったりしていたようだが、お互いに忙しいこともあり、あえて会おうとは思わなかった。
ましてや、文など一度も交わしたこともなかったのだ。

弁慶からの文によれば、何でも、女の薬師が必要だとか。
どうして今更とも思ったが、今源氏には白龍の神子と黒龍の神子がいるのを思い出した。
春先に、熊野別当であるヒノエが単身京へ向かったのも、白龍の神子を確かめるためだったはず。
戻ってきたという話は聞いていないから、ヒノエの眼鏡にかなったか、それともそれ以外の理由があるのか。
何にせよ、女の薬師はその二人のためなのだろう。


「ようやく文をよこしたのかと思えば、用件しか書いてよこさないのだから」


通常、男が女に文をしたためるときは、和歌の一つでも送ってよこすのだが、弁慶が自分によこした文は用件のみ。
無駄なことが一切書かれていないその文は、どこか殺風景で。
普段の弁慶を僅かでも知っているだけに、違和感を感じずにはいられない。


「まぁ、仕方のないことよね……あれから、まだ二年も経っていないのだから」


過去に思いを馳せそうになるが、妙な気配を感じて足を止めた。
注意深くその場の様子を探る。
野犬のたぐいかとも思ったが、どうやらそれは違うらしい。
かといって、野盗とも違う。
何故なら、その気配から生者の物は感じられない。
那由多は自分の格好を見てから、小さく溜息をついた。
ここから本宮まではそう距離も離れていない。
だから、懐剣以外持って出なかったのだ。
薬師といえど、いつ何があるかわからないと、父と叔父に武術を教えてもらった。
だが、肝心の武器がなければ意味がない。

ここはひとまず、逃げるべきだろう。

そう考えをまとめると、那由多はその場から駆けだした。
那由多が駆け出すと同時に、それらも走り出す。
ガシャン、ガシャンという音が聞こえてくるのは気のせいではないだろう。
そして、そういう音をさせる物を何というか、那由多は知っていた。


「熊野にも出るのは知っていたけれど、本宮の側にまで怨霊が現れるなんて……っ」


ここ最近、熊野でも怨霊の姿をよく見かけるという話を、風の噂で聞いていた。
それだけ怨霊の力が強くなっているということだろう。
熊野権現に守られているはずの熊野にまで怨霊が現れるなど、誰が想像しただろうか。
駆けて、駆けて、ようやく怨霊を撒いたかと、その足を止めた瞬間。
突如目の前に現れた鈍色の長物。
とっさに腕を上げ、自分の身を庇えばその腕に熱を感じた。
斬られたと理解したのは、持っていたはずの籠が大地に落ちたとき。


「痛っ……」


傷を見れば、手首から肘にかけて一直線に切り裂かれている。
斬られた腕を庇うように、空いている腕で押さえれば、傷口から流れ出る血が手を赤く染める。


「まさか、ここにもいたなんて」


那由多は数歩、後ろに下がりながら周囲を伺う。
来た道を戻れば、先程撒いた怨霊と鉢合わせ。
かといって、目の前の怨霊と戦うにも、自分の武器は懐剣のみ。
ましてや、怪我をしている今は、それすらもまともに扱えない。
本宮まではあと少しだというのに。
目の前の怨霊から目を離さずに、じりじりと距離を取る。
ここは一度、森の中に入って撒いてから、本宮へ行くべきか。


「背に腹は代えられないわよね……」


覚悟を決め、那由多は森の中へと身を翻した。
突然森の中へと入っていった那由多を、怨霊が追いかける。
幸いにも、それほど足は速くないらしい。
それを確認すると、那由多はしばらく森の中を駆けてから、本宮を目指した。
ようやく本宮の境内が見えたときには、どれほどホッとしただろうか。
安堵の溜息をつき、境内へ入ろうとした、次の瞬間。
那由多は、本宮の結界に拒絶された。


「嘘……」


本宮には穢れを持ち込めない。
だから、穢れた身はその周囲に張り巡らされている結界に阻まれる。
那由多は自分が結界に阻まれる理由を悟り、溜息をついた。
恐らく、先程怨霊から受けた傷から穢れでも入り込んだのだろう。
そういえば、逃げることに夢中で気付かなかったが、身体が重い上に気分も優れない。


「どうするべきかしらね。……誰か来るのを待つしかない、か」


溜息をついて、近場にあった大きめの石に腰を下ろす。
そこで、那由多はようやく傷の様子を確かめることが出来た。
ザックリと斬られた腕からは、未だ血が流れ続けている。
とりあえず、着物を懐剣で適当に切り、それで止血する。
そうしてから、傷の痛みに眉をしかめつつ、斬られた方の手を数回、握ったり開いたりしてみる。
どうやら指はまともに動くらしい。
そのことに、少しだけ安堵する。
幸いにも、臙脂色の小袿のおかげで、あまり血は目立たない。
けれど、目立たないといっても、血を吸って重くなっているのは事実。
自分の仕事道具は目の前の本宮の中。
摘んだ薬草も落としてしまったから、今の自分が出来ることは最早ない。
本宮へ入るためには禊ぎをしなければならないが、そのための水すら手元にはないのだ。
自分が穢れを受けたとなれば、出来るだけ早く禊ぎをしなくてはならないのに。
昔から穢れを受けやすい体質のせいで、穢れにはいつも敏感だった。
できるだけ穢れを受けないように。
もし穢れを受けても、大事になる前に禊ぎをするように。
だが、今の状況ではそれすらも望めない。


「問題は、誰かが来るのと私の意識がなくなるのと、どちらが早いか、よね」


薄く笑みを浮かべながらも、恐らく大丈夫だろうという気持ちがあった。
根拠などない。
けれど、いつだって自分が危機に瀕したときには、あの人がやってくる。
だから今度も大丈夫。
あの文を自分が目にしたのは昨日だが、実際に届いたのは数日前。
今頃、熊野に入っているはず。
那由多は怪我をしている腕を抱き、瞳を閉じて静かに誰かがやってくるのを待つことにした。










時空を越えた望美がやってきたのは、熊野。
今度こそ間違えぬように、そして、未だ知らない「何か」を知るために。
弁慶と那由多を救うためには、もう一度始めからやり直すのだ。
そうすれば、今まで自分が知ることの出来なかった物を、知ることが出来るかもしれない。


(今度こそ、二人が幸せになれる運命にするんだから)


ぐっ、と拳を握りしめ、固く決意をする。
熊野川の怪異もおさめ、目指すは本宮。


(そこに、那由多さんがいる)


いつの運命でも、那由多と初めて会うのは本宮だった。
別当とは面会出来ないが、弁慶が望美と朔のために女の薬師を迎えると、那由多を紹介する。
それが、彼女との出会い。


「なぁ、血の匂いがしないか?」


ふと、足を止めたヒノエが眉間にシワを寄せ、誰にともなく言った。
その言葉に、誰もが足を止めヒノエの言葉を確認しようとする。
風に乗って、微かに血の匂いが鼻につく。


「微かにだが、確かに血の匂いだな」
「誰か怪我でもしているのかしら……?」
「とりあえず、先を急いだ方が良いでしょうね」


弁慶の言葉に、誰もが一も二もなくその場を駆けだした。
その弁慶の顔に、どこか焦燥の色があったことに気付いたのは、誰もいなかった。





ヒノエが嗅いだという血の匂いを頼りにやってくれば、そこは本宮のすぐ側だった。
見たところ、別段おかしいところは見当たらない。


「何もないけど、ヒノエの気のせいだったんじゃないのか?」
「おっかしいな、確かに血の匂いだったはずだけど」


腑に落ちない表情を浮かべているヒノエをよそに、望美はきょろきょろと周囲を見回していた。
そんな望美に気付いたのは朔だった。


「望美?どうかしたの」
「うん、ちょっと……あっ!」
「望美っ?」


突然大きな声を出して駆けだした望美に、何事かと視線が寄せられる。
けれど、望美の向かった先に見えた人影に、慌てて駆けだした。


「大丈夫ですかっ?!」


その姿を見たときは、まさかと思った。
会うのは本宮の中でだとばかり思っていたから。
けれど、実際に近くへ寄ってみれば、まさしくそれは那由多の姿で。
目を閉じているその横顔は、どこか、青白いようにも感じられた。


「望美さん、僕に診せてください。……お嬢さん、大丈夫ですか?」


望美の様子に異変を感じ取った弁慶が、急いでその場に膝をつく。
けれど、その人物を見るなり、弁慶の動きが一瞬固まった。


「那由多……?」


その言葉が合い言葉だったかのように、ゆっくりと閉ざされていたまぶたが開く。


「……やっぱり、来てくれたのね……」


力なく笑めば、血の気の無くなったその表情に、少しだけ血色が戻ったようにも思えた。


「そんなことより、一体何があったんですか?本宮にも入らずに」


問い詰める弁慶の口調が普段のそれより、どこか厳しいように感じられたのは気のせいだろうか。
チラリと望美が弁慶を盗み見れば、いつもは余裕のある笑顔を浮かべているはずなのに、今はその笑顔がないことに気がついた。


「少し、ね……あなたがいるなら、ヒノエも、いるんでしょう?」
「ああ、いるぜ」


弁慶の問いを曖昧に誤魔化して、逆に問えば、返事が来るよりも先に、本人が名乗り出た。
ヒノエの声を聞けば、緩慢とした動作で頭を上げ、ヒノエを捉える。


「……悪いけど本宮から、霊水をもらってきてくれるかしら?」
「霊水?」
「一体、何に使うつもりですか?」


同時に二人から問われ、思わず言葉に詰まる。
けれど、こうなってしまった以上、理由を話さなければ霊水は持ってきてくれそうにない。


「今の私は穢れを受けているから、本宮の結界に阻まれてしまうの。禊ぎをしたくても……肝心の水は持っていないから」


那由多の言葉を最期まで聞く前に、ヒノエは顔色を変えて、本宮に向かって走り出していた。
弁慶は自分の荷物の中から水を探し出し、それを使って簡単に禊ぎのようなものをする。
そうすると、那由多の膝下と背中に腕を回し、抱き上げた。
それに驚いたのは、抱き上げられた那由多よりも、周りの人間である。


「すいませんが、僕は先に本宮へ入ります。望美さんたちは、後からヒノエにでも連れてきてもらってください」


早口でそれだけ告げると、一目散に本宮へと駆けていく。
まるで、嵐のような一連の動作に、呆気にとられたのは残された人たち。


「弁慶もヒノエくんも、一体どうしちゃったんだろうね?」
「おどろいた……弁慶殿でも、慌てることってあるのね」


呆然と呟いた梶原兄妹の言葉は、その場の誰もが思っていたことだった。
そして、それはヒノエが迎えに来るまで続いていたとか。










微笑むことを忘れてしまった能面のような美しいその横顔










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微妙な原作沿いです
2007/9/2


  
 

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