紫陽花が抱く月下美人 | ナノ
軍師と薬師
心臓が哀しいくらいに痛んで高鳴って
弁慶と二人。
那由多は陣幕へ入ると、弁慶の正面に向かい合うように立った。
「それで、僕に話したいことは何ですか?見たところ、あまり余裕がないように見えますが」
余裕がない?
当然だ。
景時の出撃を知って、どうして余裕など生まれるのだろうか。
けれど、自分が口を開くよりも早く問う弁慶も、同じように余裕がないと見て取れるのは気のせいだろうか。
まぁ、彼の場合は頭の中で幾重にも策を講じる必要があるからだろう。
ただ、和議を結ぶということが前提の今、策を講じる必要があるのか聞いてみたい気もするが。
今の弁慶の様子では、景時の出撃は知らないのだろう。
ならば、何を焦る必要がある?
少し訝しんでみれば、自分が本陣内を駆けていたとき、一人の女性と会ったことを思い出す。
彼女はどこからやってきた?
自分の進行方向からやって来たのではなかったか。
ならば、すでに和議は偽りだと知っているのだろうか。
「……ねぇ、弁慶」
自分の問いに答えず、何かを考えている様子の那由多に、弁慶も何かを感じたのか。
黙って那由多の次の言葉を待つ。
「私、ね。あなたのところへ行く前に、鎌倉殿の名代に会ったのだけれど、あなたたちは何を言われたのかしら?」
那由多から出た「鎌倉殿の名代」という言葉に少し驚いた物の、それを聞いてしまえば彼女が何を思っているのかは想像がつく。
おそらく、那由多も今回の和議について思うところがあるのだろう。
こんなに簡単に和議が結べるのなら、もっと早くしているはずだ。
「質問に質問で返すのは感心しませんね。……けれど、君の思っているとおりです」
この場は言葉遊びをしている時間などないと思ったのか、弁慶はすんなりと肯定した。
それにやっぱり、と小さく呟けば、弁慶の視線が鋭くなった。
あぁ、やはり弁慶は知らない。
すでに事態は動いているのだということを。
「馬を一頭、借りられるかしら」
「馬、ですか?一体何に使うつもりです。君には必要のない物でしょう」
彼の言い分はもっともだ。
本陣で待機しているだけの自分は、馬を使う必要がない。
自分から戦場に行くことなどしなくてもいいのだから。
けれど、傷ついていると知っていて、このまま手をこまねいていることなど、できやしない。
ましてや、戦が終わるまではいつ本陣に戻ってくるかもわからない、戦奉行など。
「行く先は知らないけれど、景時殿は……部下を率いてすでに出撃したわ」
「まさか」
思いも掛けない言葉に、弁慶の目が丸くなる。
九郎は景時に出撃の命は出していないはず。
それに景時は大将の命令に背いて、勝手に出撃などはしない。
そこまで思えば、たどりつく結論は一つだけ。
軍師を務める弁慶だ。
これでわからないようなら、軍師などやっていられるはずもない。
「確かに、政子様は平家の人を奇襲すると言った。ですが、先に景時を動かすとは……」
顎に手を当てながら呟けば、ハッと気付いたように顔を上げる。
那由多の言っていた馬の意味が、ようやく理解できた。
彼女は自分たちよりも先に、当ても兼ねて景時の元へ行こうとしているのだ。
もちろん、平家の兵士たちの他に、怨霊がいるという事実を知りながら。
「許可できません。君は本陣で待機だと言ったでしょう」
「駄目よ。あなたたちにはあなたたちの、やるべきことがあるはずだわ」
緩く首を振りながら、単独行動は許せないと言えば、即答で返される。
確かに、那由多の言っていることは正論だが、たまにはこちらの言い分も聞いて欲しい。
危険な場所に彼女一人を、どうして行かせられるというのか。
だが、下手な平氏よりも腕が立つのは自分がよく知っている。
なぜなら、彼女に武術を教えたのは誰でもない。
自分と、兄の湛快なのだから。
自分の身を守るため、護身用にでもなればいいと思っていたが、思わぬ所で裏目に出た。
こんなことなら、彼女に武術など教えるべきではなかったと、弁慶はひっそりと溜息をついた。
「本当に君は、どれほど危険なのか知っているんですか?」
「愚問ね。今更、それを私に言うのかしら?」
怨霊と出くわすたびに、命の危険はいつも感じているのだ。
今更それを言われたところで、どうということはない。
けれど、それを知らない弁慶だから、余計に口うるさいのだろうか。
それとも、ヒノエから何か言われているのか。
おそらく、その両方なのだろう。
だからこそ、余計に自分に過保護になるのだ。
誰かに守ってもらうほど、自分は弱くはないのに。
自分の身は自分で守れるのに。
だが、それが嫌というわけではない。
今のような状況でなければ、自分は喜んで弁慶に守られただろう。
彼の言うことにも、大人しく従っただろう。
でも、今はそんなことを言ってはいられないのだ。
「弁慶、あなただってわかっているでしょう?何が一番最良なのか」
この一言で弁慶が折れなければ、次の手段を考えなければならない。
いざとなったら、ヒノエに相談するべきか。
(藤原家とは縁を切ったと言いながら、こういうときばかり都合がいいわ)
自分の思考に、思わず呆れてしまう。
ヒノエなら、そんなことは気にも留めないだろうが、やはりそれはできないだろう。
となると、やはり弁慶の返事を待つしかない。
時間にすれば僅かな時間。
けれど、それがとてつもなく感じた。
例え弁慶の返事がどうだろうと、自分はすでに動くつもりでいる。
馬がないというのなら、歩いてだって行ってやる。
もし、見張りを付けるというのなら、その見張りを倒してでも。
これは自分が一番適任だと、那由多自身知っていた。
「……確かに、ここで景時を失うのは痛い」
小さく呟かれた弁慶の言葉に、思わず顔を上げる。
ここで浮かれてはいけない。
問題は、次の言葉。
ごくり、と那由多の喉が鳴った。
「危険な真似は絶対にしないと、約束できますか?」
その言葉に、那由多は自分の耳を疑った。
許してもらえないのだと、信じて疑わなかったのだ。
「本当に、いいのね?」
「馬は余計に連れてきている中から選んで……いや、僕が直接言っておいた方がいいですね」
確認も込めて再び問えば、それよりも先のことが頭にあるのだろう。
すでに段取りを組んでいる姿は、さすが軍師。
だが、自分が景時の元へ行くことで、彼らの心配が少しだけ減るのは紛れもない事実だろう。
その分、心配事が増える者も数名いるが。
そのことに、胸の中で手を合わせておく。
きっと、戦が終われば果てしなく長い説教が待っているのだろうが(しかも二人)背に腹は代えられない。
「景時がどこへ向かったのかは、僕の方で調べてみます。それまでは」
「わかってるわ。それまでは動かない」
弁慶の言葉を受け取って言えば、満足そうに頷かれる。
これで、当面の用は済んだ。
彼もそれを知っているから、また後で、と言葉を残して去っていく。
けれど、天幕の入り口でその足をピタリと止めた。
まだ何かあっただろうか?
自分のようは全て済んだが、弁慶のほうは何かあるかもしれない。
そう考えたが、すぐにその考えは却下した。
自分が天幕に行った時点で一度、訪問を断ったのだ。
何もあるわけがない。
しばしその場で止まったままの弁慶に、今度こそどうしたのかと疑問に思う。
まさか、体調が悪いわけでもあるまい。
もし本当に体調が悪いとしても、彼は自分で判断を下せるはずだ。
ならば、何──?
思考の海に捕らわれていれば、突如として視界が遮られる。
一体何が、と頭の中が真っ白になった。
視界が遮られたのは、視力が無くなったせいではない。
その証拠に、自分以外の体温と、心音を感じる。
自分が弁慶の腕の中に捉えられていると理解したのは、彼の匂いで。
常日頃、薬草にばかり囲まれていれば、自然と匂いも移ってしまう。
香を付けていても、ついてしまった薬草の匂いはごまかせない。
それが、同じ薬師になら尚更。
「こうなるとわかっていたら、君を同行させなかったのに……。自分の浅慮さに嫌気がさす」
ぎり、と歯噛みする弁慶は、普段の言葉遣いさえ忘れている。
彼のこんな言葉遣い、久し振りに聞いた。
不謹慎だとわかってはいるが、失笑を隠し得ない。
小さく方を震わせていれば、抱きしめている弁慶にも当然その振動は伝わる。
「何を笑っているんですか」
「あなたのその言葉遣い、久し振りに聞いたと思って」
そう言えば、少しだけ身体を離される。
未だ止まぬ笑いを堪えながら、チラリと弁慶を見上げれば、眉間に深い皺が刻まれている。
そっと指を伸ばしてその皺に触れれば、驚いたようにぱちくりと瞬きされた。
「そんな怖い顔をしていては、戻ったときに何かあったと思われるわよ?特に、ヒノエに」
「全く、本当に君という人は……」
自分自身を良く理解している。
そこまで言わずに溜息で誤魔化す。
だが、弁慶が何を言いたいのかわかっているのだろう。
彼女は以前、笑みを浮かべたままだ。
「僕は一度戻ります。いい加減、九郎辺りが怒りそうですからね」
「男と女の事情、とでも言っておいたらどうかしら?」
「そんなことを言ったら、激高するのは九郎だけじゃなく、ヒノエもでしょうね」
肩を竦めて緩く首を振ってみせる弁慶は、那由多の瞳にサッと翳りの色が混ざったことに気付かなかった。
「……ヒノエは怒らないわよ」
「え?」
口の中で呟いた言葉は、本当に小さい物で、弁慶の耳にまで届かなかった。
ゆっくりと瞳を閉じ、再び開く。
真っ直ぐに弁慶を見つめれば、ニッコリと微笑んだ。
「そんな冗談は置いておいて、そろそろ戻った方がいいかもしれないわね」
「那由多……?」
突然の彼女の変わりように、自分が何かしたのではないかと不安が胸をよぎる。
けれど、何?と首を傾げる彼女は、普段と何ら変わりはなくて。
これ以上問い詰めるには、さすがに時間が足りなかった。
どこか後ろ髪引かれる思いで天幕を出て行く彼の後ろ姿。
それを見送る那由多の目はどこか虚ろだった。
「弁慶は知らないかもしれないけど、私とあなたの関係はヒノエも知ってるのよ……」
誰にともなく呟かれた言葉。
その言葉は、相手に届かずに掻き消えた。
出撃する九郎たちを見送るために陣幕から出た那由多は、弁慶とすれ違いざま、彼から景時の向かった先を教えられた。
怖いのは失うことではなく
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弁慶が灰色?(笑)
2007/10/04