紫陽花が抱く月下美人 | ナノ
戦奉行と北条政子
 









否定してしまうのは簡単で










熊野から京へ。
源氏は熊野の協力を得られなかった物の、その変わり、一人の薬師を連れて戻った。
旅の疲れを取るべくゆっくりとする間もなく、平家と和議が結ばれるという話を聞かされれば、そのまま福原の地へ立つはめになった。

福原に着く前に有馬に本陣を置けば、思いも掛けない人物の登場に、兵士たちも驚きを隠せなかったようだ。
本陣に流れる空気が違う。
戦に参加したことがない那由多は、戦の前がどういう感じかはわからない。
けれど、今回は戦ではなく和議だからだろうか。
兵士たちの中にも、そこまで張り詰めた感じがない。


(用心することにこしたことはないけれど……)


怪我人の治療のために、と用意された陣幕の中で、大きめの布を細く破る。
その行為を何回も繰り返し、出来るだけ多く作る。
そうすれば、次はそれをくるくると小さく丸めた。
まとめ終われば包帯の完成だ。
一度戦が始まれば、包帯や布、薬草といった消耗品はいくらあっても足りなくなる。
だから、手が空いた時間を見計らって、細々とした物を作っておく。
薬のたぐいは、多すぎて困る物ではないから。


「私がこんなに人を疑いやすくなったのは、弁慶のせいからしらね」


小さく呟きながら、最後の一つを丸め終わると、手持ちの薬草を確認する。
熊野を出るときと変わらない中身ではあるが、果たしてこれだけで足りるかどうか。


「……少しだけなら、出ても大丈夫よね。一応、和議という話だし」


少し悩んでから、那由多は陣幕を出た。
小走りで本陣から抜け出し、途中で見付けた薬草がある場所まで急ぐ。
今出れば、出発までには間に合うだろう。



それに、本陣には今、鎌倉殿の名代として、正室の政子がやって来ている。



それを考えても、急いで出ると言うことは無いはずだ。
目的の場所で、目的の薬草を数種類摘み、再び本陣へと駆けて戻る。
そうすれば、本陣のすぐ側に、見慣れた姿が見えた。
もしかしたら出発が早まったのだろうか、と内心焦る。
もしそうだとしたら、自分が陣幕にいないことも知られているだろう。
下手をすると、探しているかもしれない。
さぁっと、体中の血が下がる気がした。


「あれ?那由多、殿。そんなに慌ててどうしたの……っていうか、本陣から出ちゃだめだってば〜」


那由多の姿に気付いた景時が、パタパタと那由多の側まで走ってくる。
彼の言葉を聞く限りでは、出発が早まったわけでも、自分を探しているわけでもないらしい。
その事に少しだけ安心する。


それと同時に、浮かび上がった疑問。


どうして彼は本陣の外にいるのだろうか。
それも、武装した部下を連れて。
本当に和議を結ぶつもりならば、先に出ていく必要など何一つ無いはずだ。
それなのに、しっかりと武装した兵士たちを連れて、先に本陣から出るとなると、考えられることは一つ。


「呼びにくいようでしたら、敬称を付けなくても構いませんよ?」


だが、景時に言う気がなさそうなので、敢えて違う話題を振ってみる。
どうにも彼は自分を呼ぶとき、名前と敬称の間に一拍間が空く。
別にそれは構わないのだが、名を呼ばれるたびにそれでは、聞いているだけでどうにも焦れったい。
だから、いっそのこと名前だけで呼んだ方が良いのなら、そうしてもらいたかった。


「えっ、そんなっ!さすがにそれはまずいよ〜」


胸の前で慌てて手を振る景時に、小さく溜息をつく。
微妙に顔が青ざめて見えるのは気のせいだろうか。


「どうしてですか?立場から考えても、私の方が下でしょう?一介の薬師が、戦奉行様より上だなんて、聞いたことがありませんよ?」


現に、九郎は那由多をしっかりと呼び捨てにしている。
年齢から考えれば九郎の方が年下だが、軍の中では那由多の方が立場が下。
那由多自身も、公の場で弁慶を呼ぶときは敬称を付けて呼んでいる。


「いや、だってさ。君は弁慶の……」


ごにょごにょと語尾を濁す景時に、那由多は彼が何を言いたいのか理解した。
唯一、源氏軍の中で自分と弁慶の関係を知っている人物。
知っているからこそ、迂闊に名も呼べないというのか。


「梶原殿。今の私は源氏軍の薬師に過ぎません。ですから、そのことは忘れていただけませんか?」
「うん、わかったよ。じゃあ、那由多ちゃんで。ね、オレのことも名前で呼んでくれない?」
「え?」


交換条件のように出された言葉に、思わず首を傾げる。
自分は別に間違った呼び方はしていないはずだ。
それなのに、名前で呼べというのは、何か気に障ったのだろうか。


「いやっ、そのねっ!ほら、君って弁慶や九郎とかには、名前の後に敬称付けてるけど、オレだけ名字じゃない?それがちょっと寂しくてさ〜」


考え始めた那由多に、言い訳のように矢継ぎ早に答える景時に、そういうことかと頷いた。
確かに、景時だけ名字で呼んでいる事実。
彼の妹である朔を呼ぶとき、同じ呼び方では混乱するから、と彼女は名前で呼ぶようにした。
それが尚更、彼の感じる疎外感を煽ったのだろう。
大人のようでありながら、まるで少年のよう。
それが、彼のいいところなのだろう。


「わかりました。では、景時殿」
「うん」


呼び方を改めれば、満足したように満面の笑みが浮かぶ。
この表情が、後数刻もすれば消えるのだろうか。





「くれぐれも道中、お気を付けて」





その一言に、景時の表情が固まった。
信じられない物でも見るような目で那由多を見る。
やはり、彼は和議を結びに行くのではない。


そう悟った瞬間だった。


物見や斥候なら、景時が行かなくても他に兵がいる。
そもそも、集団で行動しては、調べ物には向いていない。
それ以外を考えると、真っ向から戦うこと以外考えられない。


「那由多ちゃん……どうして」
「勘、というところでしょうか。大丈夫、誰にも話しません。内密だからこそ、こんなに少数で、しかもこっそりと行くのでしょう?」


景時の後ろに控えている兵たちを見て、それなりの理由を考える。
今から一戦やり合おうというには、どう見ても少ない兵の数。
そして、九郎や弁慶の姿が見えないということは、彼らはまだ景時の出陣に気付いていない。


「君にはわかっちゃうんだね。でも、その通りだよ」
「御武運、お祈りしております」


すっと、頭を下げると、直ぐさま景時の「出撃」という声が頭上から聞こえてきた。
その場から、景時たちの足音が聞こえなくなるまで頭を下げる。
再び那由多が頭を上げれば、そこには誰も姿も見えなくなっていた。


「これで仕事が一つ、増えたわね」


独りごちて、手にしている薬草のことを思い出す。
こうなったら時間はあまり残されていない。
出来るだけ早めに準備を進めなくては。


あぁ、けれど。


弁慶に話しておかなければならないことも増えたのだった。
どれを優先すべきか。
そう考えた結果、那由多は一度陣幕に薬草を置いてから、弁慶の元へ行こうと決めた。





本陣内を、薬草片手に急ぎ足で歩いている那由多の前に、一人の見慣れない女性が目に入った。
上等な着物を着て、煌びやかな装い。
思わず視線が惹き付けられる。
まるで魅入られたように凝視している那由多に気付いたのか、その女性は嫣然と微笑んだ。
ハッと我に返り、思わず頭を下げる。
この場にこんな格好でいるのは、一人しかいない。
自分の失態に、思わず舌打ちをする。


「今日和、お嬢さん」


頭を下げた那由多の視界に、女性の着物の裾が映る。
掛けられた声は、まるで鈴のように。
それでいて、どこか無邪気な子供を彷彿させる。


「頭を上げてくださいな。私、少しあなたと話をしてみたいの」


そう言われ、恐る恐る顔を上げる。
そうすれば、思っていたよりも近い距離に、女性の顔もハッキリと見て取れた。





これが北条政子。


これが、頼朝の正室。





やはり、普通の人とは違う何かを感じるような気がする。
それとも、上に立つ物の妻というだけで、これほどまでに凡人とかけ離れる物なのか。


「お名前を聞いてもよろしいかしら?」
「この戦より源氏軍にて薬師を務めさせていただきます。那由多と申します」


少し控えめに名乗れば、政子の視線が小さく光った。
けれど、頭を下げてしまった那由多はそれに気付かない。


「そう、だったらあなたが弁慶の……」


どこか含みを持たせた物言いに、那由多の眉間に皺が寄せられる。
どうしてこの女性が知っているのだろうか。
弁慶が話したか。
だが、彼が話したとしたら、九郎の耳にも入っているはずだ。
消去法で考えると、残っているのは、景時。
けれど、果たして景時が話すのだろうか……?
そう思い、那由多はつい先程のことを思い出していた。



なぜ、彼は誰にも、何も言わずに本陣を出た?

彼一人の独断と偏見ではないはずだ。

必ずそれを指示した人物がいるはず。



そこで気付いたのは、目の前の女性がくすくすと笑みを零していたからだろうか。
今、源氏の大将として命令を下しているのは九郎だが、それよりも名代としてやって来た政子の方が立場は上。
そして、彼女の言葉は、そのまま鎌倉殿の言葉となる。
そう考えると、元より、和議など結ぶつもりは無かったのだ。


「……そういう、ことなんですね?」


ようやく出された言葉に、政子は緩く首を傾げた。
けれど、その笑みが消えることはない。


「やはり、弁慶に似て鋭いんですわね。私、あなたのような人は嫌いじゃありませんわ」


それ以上は言うつもりが無いのか、那由多の横をすたすたと通り過ぎていく。
彼女が出てきた陣幕は、九郎や弁慶たちがいた場所。
ならば、今頃はこれからどうするかの算段でも立てているところだろうか。
自分も早く行かなくては。
そう考えると那由多は一目散に陣幕を目指した。





「弁慶殿、いらっしゃいますか?」


陣幕の外から、一言声を掛ける。
そうすると、程なく陣幕から弁慶の姿が現れた。


「何か用ですか?あぁ、すいません。今はそれどころじゃないんですよ」


那由多の姿を確認すると、申し訳なさそうに拒絶する。
だが、拒絶されて「はい、そうですか」と大人しく戻るようでは、何のためにここまでやって来たのかわからない。
どうせ話がまとまらないのなら、こちらの話を聞いてくれてもいいはずだ。


「ごめんなさい。でもね、私の方も、それどころじゃないのよ」


少々語尾を強く言えば、何かを感じ取ったのか、弁慶の目が真剣になる。
じっと那由多を見てから、少し待ってください、と陣幕の中へ身を翻す。
彼が陣幕の中へ消えて少しすると、再び那由多の前に現れた。


「待たせましたね。君の陣幕で話をしましょう。……他の人に聞かれては困ることなんでしょう?」
「ふふ、そこまでわかってくれるなんて、話が早いわ」


善は急げ、といわんばかりに、二人は治療用の陣幕へ急いだ。










そこで、那由多は今後の身の在り方を相談する。










いきて あいましょう










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薬草については深く突っ込まないでください(汗)
2007/10/02


  
 

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