紫陽花が抱く月下美人 | ナノ
時間の経過と開いた距離
 









滑るような白い肌の感触を確かめるように輪郭にそって指を運ぶ










そっと頬を撫でる手にうっとりと目を閉じる。
昔から、彼の手は好きだった。
もちろん、今でもそう。
けれど、近年は触れてくれることすら滅多にない。





それは、お互いがお互いに離れた場所にいるからに他ならない。





これから近くにいられるのなら、少しでも彼との距離は縮まるだろうか。
そっと胸中で自問してみる。


出てきた答えは、否。


表面上なら誰が見ても間違うような距離にはなるだろう。
ましてや、同じ薬師だ。
薬草のことや患者のことで話すこともあるだろうから。
だが、実際はどこか冷めた関係になるのだろう。


(縮まるかと思いきや、その距離は更に開くことになるのかしら)


そう思った瞬間するりと離れていった手に、少しだけ寂しく思った。
もう少しだけ。
そう思っても、口に出せない自分が恨めしい。


「那由多」
「ん……?」


名を呼ばれ、閉じていた瞳を開く。
眼前には、いつもと変わらぬ端正な顔で、那由多の髪の先端を指先で弄る弁慶の姿。
だが、どこか難色を示している表情に、何かあったのだろうかと疑問に思う。


「よかったんですか?彼女に知られて」


一体何のこと。
そう尋ねようとして、あぁ、と小さく頷いた。
そういえば先程、ヒノエが自らを名乗ったときに、余計なことを言っていた気がする。
それを聞いた望美が、驚いた様子をしていたっけ。
けれど、ヒノエが別当ということよりも、自分がヒノエの姉という事実の方が、彼女には余程驚いていたような気がする。


「そうね……本当なら、姉だと名乗ってはいけないのだけど。でも、それは遅かれ早かれ知られることだわ」


どこか自嘲めいた笑みを浮かべれば、途端、弁慶の腕の中に捕らわれる。
抗うことをせずに甘んじてそれを受けていれば、後ろ髪を梳かれる感触があった。
那由多の髪も、弁慶やヒノエのように緩い癖がある。
けれどその色は、弁慶のような蜂蜜色でも、ヒノエのような目の覚めるような朱でもない。
どちらかといえば、くすんだような赤茶色。
決して綺麗だとは言えないが、親からもらったこの色を嫌いだと言ったことはない。
逆に、幼い頃は弁慶の髪の色が羨ましくて、煙たがられていたが。


「私としては、あなたとの関係がこれ以上の人に知られなければいいのだけれど」


ポツリと呟けば、弁慶の手が一瞬止まった。
それに気付いて上を見れば、表情を無くした弁慶が見える。
感情を殺すことは相変わらず得意なようだが、自分相手のときほど弁慶の表情はよく変わる。


「梶原殿には話したんでしょう?」


そっと弁慶の頬に手を伸ばせば、その上から彼の手が重ねられる。
軽く重ねるだけのその手に、少しだけ力が加えられた。
けれど、痛みを感じるほどではない。
どちらかといえば、軽く握られる程度。


「そして九郎殿には話していない」
「……どうして、景時だけだと?」


那由多の言葉に不思議そうに尋ねてくる弁慶の顔は、どこか楽しそうだ。
その表情に、普段の調子を見出した那由多は、不敵な笑みを浮かべた。


「九郎殿は根が真面目すぎるわ。私とあなたの関係を知ったら、私が源氏に同行することを良しとしないはずよ」


少しだけ九郎と話したが、根っからの武人である彼は、女が戦場に出ることを許さないだろう。
自分の場合は、弁慶が先に話していたことと、薬師という肩書きだからに違いない。
だが、望美の腰に帯びている剣は、決してお飾りじゃないとわかる。
彼女の瞳に浮かぶ強い光。
あれは『何か』を決意している目だ。
そして同時に、覚悟を決めている。


それが何かはわからないが、生半可な物ではないことだけはわかる。


それゆえ、九郎に認めさせたのだろう。
その『何か』のために。


「君の言うとおりです。九郎に話したら、余計に話がややこしくなりますからね」
「それに、彼は嘘や隠し事が苦手そうだわ」
「ふふ、やはり君にもわかりますか」


至極楽しそうに言う彼は、心の底から楽しんでいるようだ。
それほどまでに弁慶の心を捉えてる九郎に、少しだけ嫉妬してしまう。


やはり二年は長かったか。


少しだけ、離れていた時間を恨めしく思う。
弁慶が考えていることは変わっていないのだろうが、表面上だけをみれば随分と変わった。
それに比べて自分はどうだろうか。



本宮からは出たけれど、結局、熊野の地に留まった自分は。



何も変わらない。
何一つ、変わることが出来なかった。


「ねぇ、弁慶……あなたは」
「那由多さんっ!」


那由多の言葉は、突然現れた望美によって遮られた。
声の聞こえた方を振り返れば、いつの間に船を移動したのか。
そこには望美と連れだったヒノエの姿も見えた。
那由多と弁慶を見た瞬間、望美は慌てて謝罪の言葉を告げる。
ヒノエはあからさまに顔を歪めて、二人の元へ。
そのまま弁慶の腕の中にいる那由多を引きはがすと、自分の方へと引き寄せる。


「オレの船で、妙な真似は止めてくんない?」
「君には望美さんがいるじゃないですか」
「あ?それとこれとは話が別だろ」
「あまり違いはありませんよ」


バチバチと目の前で火花が飛んでいるような気がするのは、自分の気のせいだろうか。
そろりと二人の様子を伺ってみれば、自分の気のせいではないとはっきりわかった。
何より、弁慶はこれ以上にないくらい素敵な笑顔を浮かべている。
そして、ヒノエは不機嫌全開だ。
コレは早々に逃げた方がいいかもしれない。
最早、二人を宥めようとは考えなかった。
こうなったら、どちらかが折れるまで、思う存分やらせた方が良いだろう。
その方が、お互いすっきりするし、何より変な後腐れもない。


「望美さん、他の場所へ行きましょうか」


するりとヒノエから離れ、目を丸くしている望美の腕を取る。
望美は、那由多と天地朱雀の二人を交互に見てから、どこに行くのが一番かを理解したらしい。
慌てて那由多の後をついて行く。
弁慶とヒノエが二人の姿が見えないことに気がついたのは、それからしばらくしてからのこと。










風でなびく髪を押さえながら、那由多と望美は舳先の方へ出ていた。
何を話すでもなく、ただ海を見つめる。
その空間が、望美には酷く重かった。


自分一人では知ることの出来なかった彼女の内情。


けれど、それは本人の口から聞かされたわけではない。
ヒノエを通して間接的に、だ。
それに、あの場ではそれ以上聞くことが出来なかったから。
だから、確認の意味も込めて改めて聞いてみようかと思った。
でも、今は尋ねることを拒絶されているようにも感じる。


「私、望美さんに謝らなきゃいけないわね」


先に口を開いたのは、那由多だった。
海を見たまま言う彼女の表情は見えない。
けれど、謝るという言葉に望美は首を傾げた。
自分は彼女に謝ってもらうようなことをしただろうか、と。
疑問符を浮かべている望美に気付いたのか、那由多は小さく笑みながらくるりと体勢を変えた。


「私、知っていたのよ。あのまま外へ出たら危ないって。けれどそれをあなたに伝えなかった」


怖い思いをさせてごめんなさいと頭を下げれば、それに慌てたのは望美の方だった。


「そんなことありませんっ!私こそ、知ってたのに考えなしに……あっ」


話しすぎたと、慌てて自分の口元を手で押さえる。
これは話していいことではない。
だが、那由多は聞き流してくれるはずもないのを、望美は過去に経験して知っている。


「知っていた、というのはどういうことかしらね?」


にっこりと、満面の笑みを浮かべて尋ねるそれは、いっそ尋問と言っても違いないかもしれない。
それ以前に、ヒノエの口から彼女も血縁だと聞いてしまえば、なるほど。
笑顔は顔に張り付いているが、その目だけ笑っていない。
そして、その背後から溢れている黒い物。





まさしく、弁慶の姪であると、嫌でも理解出来る。





それほどまでに、那由多と弁慶の笑顔はそっくりだった。
結果、望美は那由多にぼそぼそと自分の知っていることを少しだけ、話すことにした。
もちろん、それ以上のことはまだ話せない。



自分がこれからしようとしていること。



そして、この時空へ来たことの意味。



それらを話すためには、まだ少し、時間が必要だ。
彼女と絆を深めなくては。
今話しても、荒唐無稽だと笑われるだけ。

「……ごめんなさい。それはまだ言えません」
「まだ、ね。なら、いつか話してもらえるのかしら?」

苦笑を浮かべながら問う彼女は、別にその答えには興味なさそうだった。
ただ単に、流れで尋ねただけのよう。


「那由多さんは、ヒノエくんのお姉さん、なんですよね?」


敢えて話題を変えれば、彼女は少し首を傾げただけだった。
浮かべている笑みは、先程までの物とは違って、酷く儚げ。
ヒノエの姉だと言うこと以外にも、まだ何かあるのだろうか。
けれど、それを確認するだけの情報は、手元に何一つとしてない。


「確かに、ヒノエは私の弟よ。けれど、私はすでに藤原家とは縁を切っているの」
「え……?」


望美の質問に素直に答えた那由多に、再び望美が固まる。


「だから、私はただの那由多よ」


これで話はお終い、とでもいうかのように、ハッキリとした言葉で告げる。
どうして、と望美の口が動いたが、それは音にならなかった。















また新たに知らされた事実。





けれど、知れば知るほど複雑に絡まっていく。





どれだけ彼女のことを理解すれば、自分の望む未来が手に入るのだろうか。





前途多難なこの運命に、望美はくじけそうになる気持ちをぐっと抑え込んだ。















望めば望むほど近づこうすればするほどにあなたが遠のいてしまうのは 何故?










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熊野編を終わらせるはずだったのに……
2007/9/28


  
 

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