ごちゃまぜ | ナノ

桜咲く頃





きっと、僕が変わったのはあの子がこの世に生を受けたから。
あの子がいなければ、きっと今の僕は存在していないでしょう。

そんなことを口にしたら、きっと君は面白がるだろうな。
いや、むしろ嫌がるかな?





十七年前のあの日のことは、今も色鮮やかに記憶にある。





桜の蕾が膨らんで、あと少しで開花を迎えるというあの日。
僕は君のことなんか、露程も興味がなかった。
熊野には、僕の居場所なんてどこにもありませんでしたからね。
唯一、気に掛けてくれたのは兄と、その奥方だけ。
それ以外の人間なんて、僕のことは気にも留めなかったし、僕もそんな人間たちには関わらなかった。


明け方から兄の奥方が産気づいたと、バタバタと忙しそうに動く大人たち。


それすらも頭の隅に追いやって、僕が考えていたのはいつになったら桜が咲くか。
ただそれだけ。
日も差さないような暗い部屋で、一日を何とはなしに過ごす日々。
それが当たり前だと信じて疑わなかった。


けれど、力強い産声を上げてこの世に生まれて来た君は、そんな僕に新たな世界を見せてくれた。





「鬼若、コレがお前の甥だぞ。可愛いだろ」





生まれたばかりのややを抱いて、僕のところへやって来た兄は、本当に嬉しそうで。
でも僕からすれば、猿と同じような物。
あぁ、けれど。
この子は僕のように忌み嫌われることはないのだろう。
例え僕と同じ髪の色だったとしても、別当の息子というだけで待遇が変わるのだ。



これを不公平と言わず、何と言う?



まだこの世の理を知らぬ、生まれたばかりの甥に憎悪すら抱く自分は、どれだけ狭量なのだろう。

小さな身体は、ほんの少し力を入れれば直ぐにも壊れてしまいそうな程に華奢で。
そのくせ、存在を自己主張するかのように力強く泣く。

自分にも、かつてはこんな時代があったのだと、どうして信じられようか。


「お前も抱いてみるか?」


兄の申し出にゆるゆると首を横に振る。
今の自分がこの子を抱いたら、いっそ何をするかわからない。

どうせ自分はもうすぐ熊野を離れる身。

きっとこの子の顔を見ることはもう無いのだろう。
ならば、関わらない方が自分とややのためになる。


「遠慮するなって、ホラ」


押しつけられるようにややを受け取れば、途端火がついたように泣き始める始末。
けれど、兄はそれを見て笑うばかりで、手を貸そうともしない。

本当に、面倒くさい。

ややなんて、乳臭くて煩いだけだ。


「……兄上」


これ以上我慢できずに兄を呼べば、ニヤニヤと笑みを浮かべているばかり。
いざとなったら兄に押しつけるか。
いや、いっそのこと腕から離せばいいのだ。
僕にややを押しつけたのだって、きっと兄が自分で見て楽しむためだ。
そう思って、ややを下ろそうとしたのだけれど。


「った……」


いつの間に掴んでいたのか。
下ろそうとすれば、ややが僕の髪を力一杯握りしめていた。
しかも、あれだけ大声で泣き叫んでいたはずなのに、今ではそんなそぶりは一切見られない。
それどころか、僕の髪を掴んではきゃっきゃと笑っている。
一体何が楽しいのやら。

そんなにこの髪が欲しいのなら、いっそのこと全てくれてやろうか。
懐剣を取り出せば、慌てた兄がややを取り上げる。
その際、ぶちぶちと僕の髪が何本か抜ける音がした。
僕がややを刺すとでも思ったのかな。
いくら思っていても、さすがに実行に移したりはしないのに。


「髪くらい、すぐに生えてきますよ」
「お前……っ」


懐剣をしまいながら言えば、兄はその場にがくりと肩を落とした。
そして再び耳に届く泣き声。
煩いことこの上ない。
そう思えば、再びややを押しつけられる。

一体この兄は何がしたいのだろうか。


「こいつはお前の髪が好きなんだ。切ったりするなっての」
「どういう理屈ですか」
「見てりゃわかるって」


そう言われてややを見れば、僕の髪を再び握って笑い始める。
ほらな、と兄は言うけれど、単に物珍しいだけじゃないんだろうか。


そのときはそう思ったけれど、兄の言葉が正しいと知ったのはそれから数年後のこと。















梶原邸の濡れ縁に座りながら、庭の桜をぼんやりと眺める。
膨らんできた蕾が花開くまでは、もう少し時間がかかるだろう。


「あんた、こんなところで何やってんの?」


耳に馴染む声は甥の物。
僕の隣に座るその動作には隙がなく、少し見ないうちに成長したなと感心してしまう。


「桜をね、見ていたんですよ」
「その割には、桜を通して随分と遠くを見ていたみたいだけど?」


言いながら、僕の髪を弄り始めるヒノエに小さく笑みを浮かべる。
こうして誰もいないときに僕の髪を弄るのは、彼の癖でもある。
そして、僕の密やかな楽しみ。


「昔を思い出していたんです」
「あんたの昔って、きっとロクな思い出じゃなさそうだね」
「酷いな。僕が思い出していたのは君のことなのに」
「オレの?」


途端に顔を顰めるのは、すでに習性の様な物か。
その原因の一端は僕にもあるのだけれど。





「生まれてきてくれて、有難うございます。ヒノエ」





君がこの髪を好きだと言ってくれたから、きっと僕は変わることが出来たんだろう。
誰に好かれなくとも、君が。
君だけが好きだと言ってくれるのなら、それでいい。


いつか君がどこかの姫君と夫婦になって、子を成したとしても。


その事実があれば、僕は生きていけるから。





ああ、どうかこの子に祝福あれ──。




2009.4.1

この話の裏側に当たるのが蜜色時間です。



- ナノ -