星の蝶 | ナノ
怨霊として蘇った人だって、元は人間。
体温を感じなくたって、温かい気持ちはちゃんと伝わってくる。
心の痛みだって理解できる。
それは生きている人と、どこが違うの──?
義兄妹カンカン、と軽い何かがぶつかり合う音を耳にして、経正は足を止めた。
音の出所はどうやら庭から。
将臣と知盛が手合わせをしているのなら、真剣同士のはず。
ならば一体何だろう、とそこへ向かったのは軽い気持ちから。
少し歩いて、ようやく庭が見える場所までやってくれば、陽の光に照らされる銀色と、宙に舞う色彩が目に入った。
着物の袖と共に、すべるような髪が揺れる。
その光景が、まるで宙を遊ぶ蝶のようにも見えた。
「たぁぁぁっ!」
「甘い、な」
けれど、その光景にはそぐわない掛け声に、ようやく経正も我に返る。
知盛が相手にしているのは、つい最近この邸にやって来た将臣の大切な妹──若菜だ。
清盛の娘として平家に迎え入れられた若菜は、将臣の強い願いもあって、戦に身を置く立場にはなかったはず。
ならばどうして知盛と打ち合っているのか。
知盛の方は刀を鞘に収めたままだが、若菜の方は抜き身の短刀を扱っている。
一歩間違えれば怪我をするというのに、何を考えているのか。
何かある前に、自分が止めに入らねば、と経正が庭へ出ようとしたその矢先。
「きゃぁっ!」
知盛に短刀を弾かれた若菜が、地面に転がり込んだ。
「若菜殿っ!」
それを見た経正は、履く物も履かずにそのまま庭へと駆け出していく。
「いっ、たた……」
腰でも打ったのか、自分の手でさするようにしている若菜の元へ近寄れば、着物に付いた汚れを落としてやる。
そのときになって、ようやく自分の元へやって来たのが経正だと気付いたらしい。
キョトンとした表情で、相手の顔を見ている。
こうして改めてみれば、まだほんの子供でしかないというのに。
「知盛殿。若菜殿は戦場へは行かれぬはず。このようなことをされる必要はないのではないですか?」
「経正殿、か……。これは父上もご存じのことだが……?」
「叔父上が?」
初耳だと言わんばかりに聞き返せば、どうやら知盛の興が削がれたらしい。
「若菜……これの続きは、また、な……」
去り際にそう残して、知盛はどこかへと行ってしまう。
残されるのは、地面に腰を付いている若菜とそれを支えている経正である。
「あー、もうっ!知盛ってば手加減の一つも知らないんだからっ!」
信じられない、とブツブツ不平を漏らしている少女に、経正は思わず笑みを零す。
どうやら怪我はないようだ。
「……経正さん。そんなに笑わないで下さいよ」
「ふふっ、やはり兄妹ですね。将臣殿も、以前あなたと同じことを言ってましたよ」
ぽそりと聞こえた呟きに、過去の光景を思い浮かべれば、彼の人も彼女と同じことをしていたことに気付く。
それを聞いて、少女がピクリと肩を揺らしたのが見えた。
「お兄ちゃんも……?」
「ええ。将臣殿も、若菜殿のように、知盛殿から習っていましたから」
「そうだ、経正さん。お兄ちゃんがここに来たときの話とか、聞かせてもらえますか?」
「将臣殿の、ですか?」
問い返せば、こくりと頷かれる。
兄妹なのだから、直接将臣には聞かないのか?と問えば、あまり話したくないと言われたらしい。
右も左もわからない世界で、生きるか死ぬかの瀬戸際を抜けてきた将臣だ。
妹を心配させるようなことは言えないのだろう。
(私も、敦盛に心配を掛けさせるようなことは言えないからね)
そんな将臣の配慮を、自分が壊すわけにもいかないだろう。
さて、どうした物か、と若菜を見れば、そこには小動物のような目をして自分の返事を待っている若菜があった。
どこか敦盛を彷彿させるその表情に、今は行方の知れない弟を思う。
「では、汚れた着物を着替えてお茶にしませんか?そういえば唐菓子が手に入ったんですよ」
彼女の仕度が整うまでに、何かしら当たり障りのない話題を見付ければいいだろう。
それに、若菜のような少女なら菓子などが好きなはず。
「本当ですかっ!」
案の定、顔を輝かせる若菜に経正は笑みを深くした。
やはり、まだ少女なのだ。
立ち上がろうとする若菜に手を貸せば、その手をしっかりと握り替えしてくれる。
すでに血の流れていない自分の身体だが、若菜の温かさを感じることは出来た。
「痛っ!」
「若菜殿っ?!」
けれど、立ち上がるはずの少女は再び地面へ。
慌てて自分も膝をつけば、足首を押さえて苦悶の表情を浮かべている。
先程、転がったときに捻ったのだろうか。
「失礼します」
「えっ、ちょっ、経正さんっ?!」
立ち上がれそうにない若菜の膝下と脇の下に手を差し入れる。
そのまま持ち上げると、小さく声を上げて若菜は自分の首へと両手を回してきた。
「あっ、あの!一人で歩けますからっ」
「何を言うんですか。立てないということは痛いのでしょう?無理をしないで下さい」
あなたくらい、軽い物ですよ。と告げれば、若菜は二の句が告げられなくなった。
これ以上は何を言っても聞いてもらえなさそうな雰囲気に、渋々と経正の言うとおりに従う。
できるだけ振動が来ないようにと、慎重に運んでくれるその配慮が嬉しかった。
これほどまでに優しい人が、どうして怨霊なのだろう。
怨霊は、無念を抱いた人がなるのだと将臣が教えてくれた。
ならば経正の無念とは一体何だったのだろうか?
「経正さんって、」
「はい?」
どうして怨霊になったんですか?とは、聞けない。
人には人の理由があるのだから。
自分が武器を持った理由を、彼は疑問に思いながらも問わずにいてくれる。
だったら、自分も彼を見習うべきなのだろう。
「若菜殿……?」
何かを言いかけて、そのまま押し黙った若菜に経正が顔を覗き込んでくる。
もしや、それほどまでに怪我が痛いのだろうか?
薬師を呼ぶべきか否か、頭を悩ませ始めた経正の耳に、その言葉が届いたのはちょうどその時だった。
「経正さんって、もう一人のお兄ちゃんみたい」
「兄、ですか?」
思いもよらぬ言葉に、思わず瞠目する。
すると、少女が大きく頷くのがわかった。
「ね、経正さんのことを『兄上』って呼んだらダメですか?」
「若菜、殿……」
まさか、敦盛以外の誰かに「兄」と呼ばれる日が来るとは思いもよらなかった。
けれど嫌だと感じないのはなぜだろう。
どちらかと言えば、くすぐったさを感じるばかり。
「いえ、構いませんよ。若菜殿が私のことをそう呼びたいのなら」
「本当ですかっ?あ、じゃあ、経正さんも私のことは若菜って、名前で呼んで下さいねっ?」
キャッキャと腕の中で嬉しそうに喜ぶ少女に、思わず笑みが浮かぶ。
年相応、もしくはそれよりも幼く見えるその態度は、愛らしい。
「わかりました、若菜」
「ありがとう、経正兄上っ」
単に呼び方が変わっただけ。
けれど、お互いの距離が短くなったように思えるのは、きっと気のせいではないだろう。