星の蝶 | ナノ
どうして。
何がどうなっているの?
さっきまで、確かに学校にいたはずなのに。
ここは一体、どこ──?
「どっちだ!」
「あっちへ行ったぞ!」
バタバタと駆けていく音が聞こえる。
その足音の数は、決して少なくはない。
先程自分が見た限りでも、十数人はいた。
しばらくして、足音が聞こえなくなったのを確認すると、こっそりと周囲を伺う。
辺りに誰もいないのを確認してから、ほっと安堵の溜息。
けれど、ここで気を抜いてはいけない。
自分はまだ、追われている身なのだから。
「とりあえず、移動しなくちゃ」
自分に言い聞かせるように独りごちてから、用心深く移動する。
どこへ向かっているのかは自分にもわからなかった。
ただ、誰にも見つからないように身を潜めながら、辺りを伺って。
つい先程まで、自分は兄の通う高校にいたはずだった。
開校記念日でちょうど休みだったところに、兄が忘れ物をしたと母に言われ、雨の降る中外へ出た。
校門まで来ると、校舎をチラリと見上げ、来年は自分もここへ通うんだと心に決めた。
こっそりと敷地内へ入り、渡り廊下を通って校舎へ行こうとしたとき。
雨に打たれている幼馴染み、春日望美の姿があった。
その様子が、あまりにも不自然で、そのまま放っておくことは出来なかった。
「のんちゃん?どうか、したの。風邪引くよ?」
言いながら、傘を差してやれば、振り返った彼女の瞳は雨で濡れただけではない、それがあった。
震えている唇は、まるで嗚咽を堪えているようで。
けれど、瞳からは確かに涙が零れていた。
何かあった。
そう思うには、充分な材料。
ここ数年、彼女が泣いている姿を──兄たちはどうか知らないが──見たことがない。
「若菜、ちゃん。私、私っ……!」
泣きながら、自分に抱き付いてくる望美は、こんなにも小さかっただろうか。
いつだって、まるで姉のように接していくれた彼女は、女でありながらも強くて。
「ねぇ、のんちゃん。一体何があったの?」
彼女の泣いている原因が知りたくて。
自分で何か力になれるなら、力になりたくて。
それが、この先の運命を変える物になるなんて、このときの私は、微塵も思ってもいなかった。
「 」
「え……?」
望美が何かを言った途端、まるで光の洪水でもあったかのように、世界が白くなった。
だから、その時に何を言われたか、確かにこの耳で聞いていたはずなのに、次に目を開けたとき、私はそれを綺麗に忘れてしまっていた。
身体が痛い。
ぼんやりと、浮上してきた意識でそう思う。
ヒヤリとした冷気が身体を撫でていく。
どこかに寝ているのだろうか?
見上げた夜空には、星が輝いている。
月は雲に隠れているのか、その姿を見付けることは出来なかった。
「星……?」
ふいに、自分の考えに違和感を覚える。
雨は降っていたが、夜というにはまだ早い時間のはずだ。
でなければ、自分は忘れ物を届けに高校まで行くはずがない。
「嘘っ!」
ガバッと起き上がれば、体中が悲鳴を上げた。
だが、今はそれに構っている暇はない。
周囲を見回せば、見知らぬ場所。
そう言ってしまえたのは、まるで停電にでもなったかのように世界が暗いせい。
ぽつぽつと灯りが見えるが、明らかに電気とは違う光。
「ここ、どこ……?」
尋ねたところで、答えてくれる人物がいるはずもなく。
言葉は闇に溶けて、消えた。
「そこに誰かいるのかっ?」
突然振ってきた声と、光に驚いて、咄嗟に手で顔を隠す。
闇に慣れ始めてきた瞳に、突然の光は強すぎる。
「奇怪な格好をしているな。まさか、源氏の間諜かっ!」
「なっ、何?」
相手が言っている言葉の半分も理解出来ぬうちに、更に事態は展開を見せる。
「曲者だっ!誰か、誰かおらんか!曲者がおるぞっ!」
「ちょ、待って!私の話を……」
「黙れっ、大人しくしていれば危害は加えん!」
じりじりとにじり寄ってくる相手に合わせ、後ろに下がる。
このままここいいたら、捕まってしまう。
冷静に、頭のどこかでそんなことを思う自分がいる。
けれど、右も左もわからぬこの場で、どこに逃げればいいと言うのか。
周囲に目に見えてわかる光が増える。
焦りと不安は行動として現れた。
なるべく明かりの少ない方向へと駆け出す。
「あっ!待てっ!」
すると、相手も追ってくるのがわかった。
ここで捕まったら、終わりだ。
できるだけ、遠くへ。
明かりの見える場所へ近付いてはいけない。
自分自身に言い聞かせるように、何度も何度も反芻する。
追ってくる音は、次第に単独の物から複数の物へと変化していく。
一体どれだけの人間が自分を追っているのだろう。
そう思ったが、振り返るわけにはいかない。
振り返ったら最後、その距離を詰められてしまうだろう。
物陰を見付け、そこへ身を隠す。
出来るだけ息を殺し、気付かれないようにと願って。
「どっちだ!」
「あっちへ行ったぞ!」
どうやら見つからずに済んだらしいことに、ようやく息をつく。
すぐには出て行かずに、時間をおいてからその場を後にする。
「とりあえず、移動しなくちゃ」
そう言いながらも、頭の中は混乱していて。
どうして追われなくてはいけないのか。
ここは一体どこなのか。
望美は、一体どこへ行ったのだろうか。
そればかりが頭の中をよぎる。
第一、ここは生者の気配があまりにも少なすぎる。
いつしか、走っていたはずの足は、歩くのと同じ速度まで落ちていった。
考え事をしている頭は、今の状況がどれほど危険かをすっかりと忘れてくれていた。
それに気付いたときは、すでに遅く。
「きゃっ!」
何か柔らかい物にぶつかって、ようやく頭を上げる。
明らかに自分よりも上背があるそれ。
周囲が暗いため、一体何にぶつかったのかさえわからない。
「鼠……か」
低い声は、何か楽しい物でも見付けたかのように。
喉の奥で小さく笑ったのを感じた。
危険。
警鐘が頭の中で鳴り響く。
逃げなければ、と思うのに、足はその場に張り付いたまま。
刺すような視線を感じるのは、間違いではないだろう。
少しでも動いたら、殺られる。
そう思ったのは、本能。
暗い中に、小さく何かが光ったのがわかった。
けれど、光った物が何かまではわからない。
そんなとき、雲に覆われていた月が、ようやく姿を現した。
月明かりに照らされたのは、銀色に光る髪と、一本の。
その光景が、あまりにも綺麗すぎて。
若菜は恐怖すら忘れて、二つの銀をただただ見つめていた。
運 命 境 界 線