ヒノエの受難 | ナノ
早朝。
とは言え、すでに陽は昇っている。
朝餉を作る者、鍛錬に勤しむ者。
嬉々として洗濯を始める者、書物を読む者、惰眠を貪る者。
過ごし方は人それぞれ。
「あ゛ーーーっ!!!!」そんな中、清々しい朝は誰かの絶叫によって壊された。
〜 始原 〜京の六条櫛笥小路にある梶原邸。
そこで生活しているのは邸の所有者である、梶原兄妹。
そして、異世界からやって来た白龍の神子と、それを守る八葉。
更には、神である白龍とこれまた異世界から十年程前に、こちらの世界へやってきた熊野の神子。
ちょっとした大人数ではあるが、それだけの人数を迎えても尚、邸には余裕がある。
「一体何があったっ!」
叫び声が聞こえてきたのは、男たちが寝室としている部屋から。
望美と鍛錬をしていた九郎は、抜き身の真剣を手にしたまま部屋まで
全速力で向かって行った。
「ちょっと、九郎さんっ!」
一方、鍛錬もそこそこに置いていかれた望美は、頬を膨らませていた。
だが、野次馬根性が湧いてくるのが女子高生。
すぐさま望美も邸の中を走り出していた。
一方その頃。
眠りから目覚めたヒノエは、起きて自分の姿を見て愕然としていた。
「なんだよ……これ」
自分が来ていた服は、かなりだぼだぼで、手どころか足も余る。
いや、余るなんていう物じゃない。
これは明らかに寸法が違う。
更には、手も足もぷにぷにとしていて、頭も重い。
普通に座るだけでも、床に手をついていないと、頭の重さで後ろに倒れてしまいそうだ。
「きのうのんだべんけいのくすり……あれになにかさいくしてあったのか」
出て来る声も舌っ足らず。
上手く口が回らないことに、苛立ちを覚えずにはいられない。
幸いなことに、思考は元のままらしい。
確か昨日の夜。
夕餉を食べた後に、風邪気味だからと弁慶に薬をもらったのを覚えている。
胡散臭い弁慶の薬を飲むのにはかなり抵抗があった。
けれど、浅水や望美に移して何かあったら、と弁慶に脅されたのだ。
浅水や望美の名前を出されなければ、誰があんな
黒いほっかむりの言うことなど聞くものか。
しかし、どうしたものかと思う。
このままでは、どこかへ行こうにも行けないではないか。
それ以前に、自分に合った寸法の着物がこの邸にあるかどうか……。
いや、なければ買えばいいのだが、すぐにも戻るのなら、わざわざ買う必要もなくなるだろう。
「くっそ。あのはらぐろめ……いったいおれに、なにをのませたんだ?」
「誰が、何ですか?」突如聞こえてきた声に、思わず背筋が凍った。
なぜだろう。
季節はまだ冬には程遠い。
それなのに、自分の背後からは絶対零度な空気と、黒い気配を感じるのは。
「べ、べんけ……」
恐る恐る振り返れば、やはりそこにいたのはそこいらの姫君に勝るとも劣らない、美貌の持ち主。
そして、自分と血の繋がりを持つという人物。
「おや、そこにいるのはヒノエですか?」
キラキラと眩しい笑顔を浮かべているが、目だけは笑っていない。
すたすたと部屋の中心を横切り、両手でヒノエを抱き上げれば、難なく目の高さまで持ち上げる。
それからまじまじとヒノエを眺めると、にっこりとその口元が弧を描いた。
マズい。
本能がそう忠告する。
弁慶がこんな顔をするときは、決まってロクなことじゃない。
例え一緒にいた期間が短かったとしても、いつだって内容は濃かった。
弁慶に関する幼少時の記憶は、いつだって散々な目に遭わされたことだけだ。
弁慶の腕から逃れるために、体を動かそうとする。
そんな中、彼が楽しそうに。
否。
面白そうに笑ったのをヒノエは見た。
「ずいぶん小さくなったと思ったら、ソコまで小さくなったんですね」最初は弁慶が何のことを言っているかわからなくて。
けれど、弁慶の視線はいつまでも自分を見ている。
それだけは確かだ。
だから、ヒノエも弁慶の視線を辿って自分自身を見やる。
その直後、ヒノエは自分の目を疑った。
起きたときは寸法が合わなくなっていたけれど、確かに自分は着物を身につけて──正確には、引っかかって──いたはずだ。
けれど今は、着物どころか布の一枚すら身に纏っていない。
そう、
下着すら身につけていないというのはどういうことなのか。
そして、生まれたままの自分の姿を見て、弁慶のあの一言。
それが意味するところは一つしかない。
「どこみていってんだよ!」恥ずかしさよりも何よりも。
惨めさの方が上回って思わず涙が溢れそうになる。
「ふふっ、どこって言われても
どこに決まっているじゃないですか」
ねぇ?と素晴らしい笑顔で言われてしまえば、ヒノエが弁慶に口で勝てるはずもなく。
がっくりと肩を落としているところに、先程のヒノエの絶叫を聞いて九郎と望美が駆けつけた。
九郎はともかく、望美にまで自分のあられもない姿を見られたヒノエは、すっかりと意気消沈してしまった。
そして、それに追い打ちを掛けるように、弁慶から
「小さくても充分可愛いですよ」と言われ、すぐさま激高したのは言うまでもない。
2008.6.2