重なりあう時間 第三部 | ナノ
数日かけて熊野に入る頃には、ヒノエは縄抜けを完璧にマスターしていた。
ただ、実際にヒノエが縛られたのは縄ではなく鎖なので、熊野に着いたら鎖を使ってもう一度やっておく必要がある。
いくら何でも、縄と鎖では違いすぎる。
ヒノエのことだから、なんてことはないようにこなすのだろうけれど。
「あれ、勝浦に行くんじゃないの?」
ヒノエの向かう先が勝浦ではないことを知ると、浅水は思わず首を傾げた。
源氏に熊野の船団を連れて行くのなら、勝浦へ向かう必要がある。
けれどヒノエが今向かっているのは本宮の方向だ。
ついて行く、と言った浅水は未だにヒノエの少し後ろを付いている。
自分の正体を明かしてから、ヒノエは自分の隣にいればいいと言ったけれど、何かあったときに機敏に動けた方がいい。
それに、前後に別れていればどちらから襲撃されても先に片方が気付く。
「とりあえず、先に本宮で済ませたいことがあるからね」
そうヒノエは返すが、本宮で何をするかまでは教えてくれなかった。
勝浦に行く前に本宮で済ませなければいけないこと。
それを考えれば、自ずと答えは導き出された。
「ああ、成る程」
ヒノエではなく、熊野別当として熊野が源氏につく旨を宣誓するのか。
確かに、それならば本宮で早く済ませておく必要がある。
何も言わずに水軍衆に源氏に命令しても、彼らは従うだろう。
だがそれは、熊野別当としてではなくなってしまう。
熊野が力を貸す、と言ってしまった以上、熊野は中立ではなく源氏方に付いたと知らせなければならない。
「それに、姫君だって疲れてるだろ?今日くらいは、ゆっくりすればいいさ」
ゆっくり、ということは本宮で一泊出来るのだろうか。
疲れていると言われれば疲れているが、ヒノエがまだ加減してくれたおかげで、それほど疲れてもいない。
これが自分の知るヒノエなら、浅水の実力を知っているだけに手加減などしてくれなかっただろう。
だが、せっかくの好意を無駄にするのも申し訳ない。
「……じゃ、お言葉に甘えさせてもらうわ」
きっと、ここから望美たちの待つ源氏の陣へ戻るときは、これまで以上に大変なことになるのだろう。
それを考えれば、休めるときに休んで置いた方がいいかもしれない。
「あ、それと本宮に着いたら……」
「大丈夫、分かっているわ」
ヒノエの言わんとするところを悟って、口調を改める。
夏に熊野を訪れたのは、この時空にいた浅水だ。
口調も違えば、態度も違っていたと言うことは、熊野までの道すがら聞いていた。
それが、今の浅水とはかなり違うということも。
だからこそ、熊野に着いたらそれを悟られないように態度を変えなければならない。
例え知り合いがいたとしても、顔見知り程度に抑えておかなければいけないのだ。
「ならいいけどね」
そんな浅水の姿を見て、ヒノエは本宮までの道程を急いだ。
本宮について厩に馬を預けると、それからは怒濤のようだった。
主だった重役たちを大広間に集めると、そのまま熊野の行く先を告げる。
もちろん、それに反発する者も現れたが、そこは別当。
鶴の一声である。
それからバタバタと動き始める様子を、浅水は離れたところから見つめていた。
今の自分は熊野と何の関係も持たない。
だからこそ、ヒノエの側で手伝うことも、近寄ることも出来なかった。
出来ることといえば、強行軍で汚れた身体を清め、休んでいるだけである。
「分かってたけど、さすがに厳しいわ」
これが本来の姿。
偶々十年前の熊野に辿り着いただけで、こうも違うとは。
濡れ縁に座れば、重い溜息ばかりがついて出る。
「しかし、うちの愚息がお嬢さんを連れてきたときには驚いたね」
不意に背後から聞こえた声に、慌てて振り返る。
咄嗟に隠し持っていた懐剣を構えたのは、一重に着替えてしまったせいで小太刀を部屋に忘れて来たからだ。
「おっと、そのまま刺すのは勘弁してくれよ」
「湛快、殿……」
へらりと笑ってその場に佇んでいた人物を見て、浅水は慌てて懐剣を下ろした。
いくら気配を絶っていたとしても、ここまでの接近を許してしまうとは。
これも長年の積み重ねだろうか。
「……申し訳、ありませんでした」
「いいっていいって、気配を殺して近付いた俺も悪かったからな」
謝罪の言葉に間が空いたのは、思わず今の自分を忘れそうになったからだ。
つい、いつもと同じ口調で口走りそうになる。
「なぁ、一つ聞いてもいいかい?」
「私に答えられることでしたら」
人の良さそうな笑みを浮かべて浅水の隣に腰を下ろすと、そのまま顔を覗き込まれる。
もしかしたら気付かれただろうか。
そう思ったが、外見だけは何も変わっていないのだ。
気付かれるはずがない。
そう、思っていた。
だがここは熊野。
そして湛快は引退したとはいえ、前熊野別当であり神職である。
普段はふらふらと熊野中を徘徊しているが、いざとなれば発揮されるその手腕は、未だ現役である。
「お嬢ちゃんは、どこから来たんだ?」
「え……」
思わず言葉を失った。
まさかそんなことを聞かれるとは思わないだろう。
どこから、と言われても答えられるのは一つだけ。
「ヒノエ殿と一緒に、源氏の陣営からですが」
もしかしたら、熊野で湛快と会っていなかったのだろうか。
だとしたら、湛快の言葉にも頷ける。
だが、ヒノエから聞いた話に寄れば、湛快とは会っているはずなのだ。
明らかにこの質問はおかしい。
「あー……そう来るか」
浅水の答えに、湛快は自分の髪をくしゃりと掻き上げる。
その仕草で、自分は彼の欲しい答えが別なところにあると気付いた。
どこから来た。
もしかしたら彼も気付いているのかもしれない。
浅水が、以前会った浅水とは違うことを。
「何て言ったらいいかねぇ……」
言葉を探す湛快に、浅水は静かに口を開いた。
「熊野から」
「何?」
途端に湛快の視線が鋭くなる。
気のいいおじさんから、熊野を守る男へと表情が変わった。
「ここではない熊野から、ヒノエを救うためにやって来ました」
そう告げれば、湛快の目が驚愕に開かれる。
驚いたのはどちらにだろう。
ここではない熊野なのか、ヒノエを救うと言ったことか。
きっと、そのどちらもなのだろう。
今頃彼の頭の中では、自分が今言った言葉の意味を反芻している頃か。
「あいつは、死ぬのか?」
尋ねるのはそこか、と思いながらも、人の親として息子の心配をするのは当然なのかもしれない。
ヒノエが倒れたら、新たに別当を立てる必要がある。
湛快の問いに首を横に振る。
ヒノエを救うためにこの時空へやって来たのだ。
決して殺させたりなどするものか。
「彼は、熊野が愛でし子。熊野権現がそれを望んでいません」
そう、四神たちも言っていたではないか。
だからこそヒノエに関わる自分に対しても、いろいろと世話を焼いてくれたのだろう。
「そして、私もそれを望んでいない」
例え違う時空だとしても、ヒノエであることに違いはない。
愛しい人をどうして失えようか。
自分にはそれを回避するだけの力がある。
その力が何のためにあるのかは分からなかったが、使える物なら何でも使ってみせよう。
例え、それが理に反することだとしても。
「嬢ちゃん、アンタ一体何者だい?」
再び、湛快からの問い。
けれどそれは緊迫した物ではなく、純粋な興味からの物。
だからこそ湛快の表情も普段のそれと遜色ない物になっている。
「浅水」
何者、と問われて名を名乗るのもどうかと思う。
だが今はこれが一番わかりやすく、手っ取り早い。
「藤原、浅水です」
そう告げれば一瞬だけぽかんとし、次には腹を抱えて笑い始めた。
まさかそれほどまでに笑われるとは思ってもいなかった。
けれど、湛快はきっと自分が何者なのか理解したのだろう。
だからこそ、ここまで笑っているのだ。
「なるほどね。ここじゃない熊野で、あの愚息にこんなべっぴんさんがねぇ」
顎に手を当てて、マジマジと浅水を見てくる湛快に少々身を引く。
全てを理解してくれたのは有り難いが、さすがにこの距離は近すぎる。
「ときにお嬢さん。アンタ、ちゃんとした人間だよな?」
お嬢ちゃんが、お嬢さんに変わったのは既婚者だと分かったせいか。
そして、湛快が人間かと聞いてきた意味。
それはきっと、自分の身を包む熊野権現の神気のせいだろう。
よくよく、別当家の人間には神気について言われたような気がする。
「ええ、ちゃんと人の子ですよ?」
そう答えれば、そうかそうかと背中を叩かれる。
加減はしてくれいるのだろうが、何度も叩かれればさすがに痛みを訴えてくる。
「浅水、とりあえず一段落付いたから、俺の部屋に……」
ちょうどタイミングを見計らったかのように現れたヒノエに、浅水は助かったと内心呟いた。
これ以上何か質問されたら、ボロが出そうで怖い。
そうでなくとも、今の口調自体背中が痒くなりそうなのだ。
「アンタ、姫君に何手ェ出してんだよ」
「うるせぇ、馬鹿息子。こんなべっぴんさんが、せっかくテメェに手を貸してくれるってのに……」
「はぁ?……姫君、こいつに何話したわけ?」
「あ、はは……ちょっと、ね」
全てを理解した湛快と、ほとんど何も知らないヒノエ。
わざわざ説明するのも面倒だと、笑って誤魔化すことにする。
ヒノエは何も知らなくていい。
自分がやろうとしていることは、所詮自己満足でしかないのだから。
それ以上は言わないで
湛快も鋭い人だと思うんです(笑)
2009.6.9