重なりあう時間 第三部 | ナノ
 


どれだけ笑い続けただろう。

どれだけ涙を流していただろう。



悲しいのか、そうでないのか、麻痺した頭はそれを判断することすらままならない。
戸惑っている浅葉の姿が視界に入るが、それすらもどうでもいい。



夢だと言うにはあまりにも現実味を帯びていて。

現実だと言うには、あまりにも滑稽すぎる。



だとしたら、今ここに立っている自分はどちらなのだろうか。
そう思うと、再び笑いが込み上げてくる。



「一体何をそんなに騒いでいるんですか」



けれど、第三者の声で正気に返る。
それくらいで正気に返るのなら狂うことなんてできないと、頭のどこかで冷静に判断する。


「頭領」


部屋に入ってきたのは現・熊野別当。
浅水が会いたくて、けれど、会いたくない人物その人。

弁慶は浅水の様子を見て、まず顔を顰めた。
それはそうだろう。
笑いは止まった物の、涙はまだ止めどなく溢れてくる。
顔なんて、すでにぐちゃぐちゃだ。


「何があったのか聞きたいところですが、とりあえず浅葉は下がってください」
「はっ」


その口調は静かな物で、怒りなど欠片も見つからない。
事実、弁慶は怒っていなかったのかもしれないが。
まともに物事を考えることを拒否した頭では、弁慶が今何を考えているかなど分からない。
浅葉が部屋から出て行ったのを見送ると、弁慶は浅水へと近付いた。


「君は毎年、この日になると情緒不安定になりますが、今年は随分と酷いようですね」


毎年。
この日。

それはヒノエの命日のことだろう。
確か、昨夜もそう言っていたような気がする。
でも今の自分にはそんな記憶は全くない。
ヒノエの死も、命日になると情緒不安定になるということも。


「ねぇ、浅水さん」


弁慶が自分の頬へと差し伸べた手を、浅水は勢いよく払った。
払われた弁慶も驚いているが、その手を払った浅水自身も驚いていた。
無意識のうちに身体が動いたのだ。
決して自分の意思ではない。


「あ……」


傷つけた。

そんな気持ちが胸に浮かぶ。
弁慶の表情がくずれたのはほんの一瞬。
瞬き一つする間に、彼はいつもの笑顔を浮かべた表情に戻っていた。


「やっぱり、そうなんですね」


何かを確信したような物言いに、思わず首を傾げる。
やっぱりそう、とは何を指しているのだろうか。


「少し、落ち着いて話をしませんか?」


わけのわからない浅水を諭すように言ってから、少し待っていて下さい、と弁慶は部屋から出て行った。
一体何を話すというのか。
浅水はその場にペタリと座り込んだ。
涙はもう乾いている。
けれど、同じように乾いたのは涙だけではなく、心もそうだった。

大切な物がぽっかりと抜け落ちたような、そんな感じ。

その大切な物は、きっとヒノエなんだろうけれど。


「お待たせしました」


それほど時間をおかずに戻ってきた弁慶の手には、盆があった。
どうやら薬湯を持ってきたらしいと分かったのは、その湯飲みを渡された後。
独特の匂いが鼻につく。
それともう一つは、濡れた手ぬぐい。
これを一体どうしろと言うのだろうか。


「顔、凄いことになってますよ」


苦笑しながら進言してくる弁慶に、ようやく濡れた手ぬぐいの意味を理解した。
目元に当てれば、ひんやりとした感触が伝わってくる。
これはきっと腫れてるだろうなぁ、と思いながら、そこまで泣いたことはあまり記憶にないことを思い出す。
頭が冷静さを取り戻せば、どれだけ自分が醜態をさらしたのかをまざまざと思い出す羽目になる。

それが恥ずかしくて、今度は手ぬぐいを顔から離すことが出来なかった。










「落ち着きましたか」


暫くして、ようやく手ぬぐいを顔から離せば、間髪入れずに質問される。
それに頷くことで返事を返してから、用意された薬湯に手を伸ばした。
この世界ならではの、青臭い匂い。
きっとこれを飲むのも勇気がいるに違いない。
そう思い、一気に飲み干して湯飲みを置けば、次に差し出されたのは砂糖菓子。
有り難く口に入れれば、その甘さが薬湯の味を消してくれる。


「弁慶にだけは醜態を晒したくなかったのに」


思わず唇を尖らせれば、弁慶はその笑顔を深くした。


「君のそんな姿を見れて、僕は嬉しいですよ?」
「恥ずかしいことこの上ないわ。忘れて頂戴」


そう切って捨てれば、いかにも残念そうな顔をする彼が憎たらしい。
けれど、弁慶としたいのはこんな話ではないと、当初の目的を思い出す。
動揺してしまったせいで、あんな奇行に走ってしまったが、弁慶に確認したいことが一つあるのだ。


「ねぇ、弁慶」


浅水から話を切り出せば、待ってくれと手で示される。
こちらとしては一刻も早く知りたいのだが、待てと言われて待てないほど時間がないわけでもない。
それに、今の弁慶は紛れもなく邸の主だ。
彼に従わない手はない。


「君の話の前に、一つ確認したいことがあるんです」
「確認?」


そうです、と頷く彼は何を確認したいのか。
むしろ確認したいのはこちらの方だというのに。

けれど、あまりにも弁慶の真剣な様子に、浅水は頷くことしかできなかった。



「君は、浅水ではありませんね?」



思わず自分の身体が固まったのがわかった。
自分が浅水でないのなら、ここにいる自分は一体誰なのだろうか。
本当は別の名前で、浅水と言う人物を演じているとでもいうのか。
そんなはずはない。
熊野に辿り着いて湛快に翅羽という名を貰ったが、それ以外は浅水という名前しか名乗ったことはない。


「それはどういう意味かしら」


返す言葉が固くなってしまうのは仕方ないだろう。
まるで、ここにいるのは自分じゃないと言われたような物だ。


「あぁ、すいません。少し言い方が違いましたね」


そう言って謝るけれど、言い方が違っていたって言うことは同じなのだろうと思う。
だって、自分を見る弁慶の視線はどこか警戒気味。
まるでこちらの反応を見て伺っているようではないか。


「君は僕の浅水ではない。違いますか?」


弁慶の言葉に、なるほど、と思わず納得する。
確かにその言い方ならば理解できる。
同じ浅水でも、弁慶の妻である浅水と目の前にいる浅水。
外見は似ていても、中身が違うのだろう。

そういえば、昨夜はこちらを呼ぶときに「浅水」と呼んでいたはずだが、今は「浅水さん」か「君」としか呼ばれていない。


「どこで気付いたの?」
「質問に質問で答えるのは、どこかの誰かそっくりなんですね」


どこか懐かしそうに言うその姿は、きっと彼を思いだしているのだろう。
名前は出さないが、弁慶が誰を思い出しているのかは容易に想像できる。



ヒノエ。



彼の甥であり、前別当だった彼。
自分と弁慶が一つの部屋にいると分かったら、きっと直ぐにでも部屋に顔を出しそうな物なのに。
ここにヒノエはいないのだ。


「女房から聞いたんですよ。いつもなら誰かに着替えを手伝って貰うはずなのに、一人で着替えたとか」


しまった、と思ったのはその時。
あの時はとっさに葵の名前を出したが、どうやら後から確認したらしい。
でなければ、一人で着替えたことがバレるはずもない。


「それに、毎年今日は情緒不安定な日だったんですよ」
「……ヒノエの、命日だから?」


それを口にするだけでも重い。
自分の知るヒノエは存命だと分かっている。
分かっているけれど、それを口にすることで、ヒノエの死を自分が認めてしまうような気がするのだ。

浅水の言葉に頷きながら、弁慶は話を続けた。


「それもありますが、僕、浅水に拒絶されたことはなかったんです」


単なる惚気か。
思わず弁慶を見る目が呆れた物に変わる。
けれど、それすらも分かっていたかのように弁慶は微笑んだ。


「確かに、始めのうちは何をしても相手にされませんでしたけど、それでも。君のように激しい行動には出なかった」
「要は、私の手癖が悪いとでも?」


どうしてだろう。
この弁慶を相手にしていると、普段よりも怒りが彷彿される。
まるで、ことごとく浅水を拒否しているかのようだ。


「さぁ、それはどうでしょう?」


爽やかに満面の笑みを浮かべられて、ここで暴れ出さない自分に拍手をしたいと思った。
ヒノエ以外に、目の前の人物も質問に質問で答えるのが得意なのだ。


「弁慶の言うとおり、私はあなたの妻になった記憶はないわ」


これ以上話を続けても堂々巡りになりそうで、思わず話題を変える。
すると、弁慶もこれ以上続けるつもりはなかったのか、ことのほかあっさりとこちらの話に乗ってきた。


「では、君はどこから来たんですか?」


その言葉には、自分の妻を返せという含みが込められている。
弁慶に愛されていると言うことだけはわかったが、過剰な愛情はどうだろうとチラリと思った。
まぁ、それを言ったらヒノエもあまり変わらないような気がするが。

浅水は自分の着物の袷から、白龍の逆鱗を取り出した。
生憎、こちらへ来たときに小太刀は持っていなかったが、この逆鱗だけは浅水の胸元にあったのだ。
リズヴァーンによれば、逆鱗の力は望美以外でも使えるらしい。
恐らく、この逆鱗を使えば自分は元いた場所に戻れるだろう。
それだけが幸いだ。


「それは……?」
「白龍の逆鱗、って言ったらわかる?」


どうやら弁慶はそれが何かを知らなかったようだ。
それに違和感を感じながらも、弁慶の返事を待つ。


「白龍の……では、君のいた場所で白龍は消滅したんですか?」


おや、と思ったのはやはり弁慶の言葉。
この弁慶は、望美が逆鱗を持っていたことを知らないのだろうか。


「これは、違う時空の白龍の逆鱗。これを使えば、時空を越えることが出来るの」
「時空を……?では、君は別の時空から来たと言うんですか?」
「信じる信じないは弁慶の自由だよ」


敢えて明確な答えを出さずに、弁慶に判断を委ねる。
顎に手を当てて考えるその姿はどこの時空でも変わらないらしい。


「……分かりました、その言葉を信じましょう」


しばらくして弁慶からその言葉が出ると、ようやく浅水はほっとした。
だからといって、弁慶の浅水がどこに行ったのかはわからないままだが。










「ねぇ、弁慶。ヒノエはどうして死んだの?」










その答えが、自分の見ていた夢と類似しているだなんて、この時点で誰がわかり得ただろうか。










惚気る貴方は初めて見た 










理由まで辿り着かなかった……
2009.2.5

 
  

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