重なりあう時間 第三部 | ナノ
 


それは、一瞬の出来事だった。


バシャンッ、と大きく水飛沫を上げて水中へ沈んでいく浅水の身体。
慌てて手を差し伸べたところで、それすらも間に合わず。
波紋を広げた泉は、暫くすると何事もなかったように静寂を取り戻しつつあった。


「浅水っ!くそっ、一体何があったんだ!!」
「いくら浅水ちゃんでも、浮いてこないのはおかしいよ」
「浅水っ」


何が起きたのかは皆目見当もつかないが、きっと水面に浮かんでくる。
そんな淡い期待を胸に持つ。
けれど、どれだけ待っても浅水の身体が浮かんでくることはなかった。


「くそっ、俺が潜ってあいつを引き上げてくる!」
「むっ、無理だよ、九郎」
「だからといって、このままにはしておけんだろうっ!」


邪魔な刀を腰から外し、着物を脱ぐために腰紐に手を伸ばす。
景時が必死になって止めようとするが、大人しく聞くような彼ではない。


人は溺れると、二回水中に沈み二回水面に浮くのだという。
一度目は溺れた直後。
助かろうと、何とか自力で水面へ浮かび上がるのだそうだ。
それで誰かに助けられればいいが、それが叶わなかった場合は体力が尽きたときに再び水中へと沈んでいく。
そのことから、再び水面に浮かんだ場合はどういうことか、容易に想像はつく。


けれど、浅水はまだ水面に一度も浮かんでこない。
水中で何かに引っかかっていると言う可能性も考えられた。


「……浅葉、と言いましたね」


すると、それまで黙っていた弁慶がようやく言葉を口にした。
だが、その口調は普段のそれと同じ物で、浅水を心配している様子は露程も感じられない。
そのことに、九郎の怒りが再び湧き上がる。


「弁慶、お前と言う奴はっ!」


咄嗟に弁慶の胸ぐらを掴み、その頬に一撃をお見舞いしようとしたときである。


「このことを直ぐさまヒノエに伝えてください。ただし、生死については触れないように」


九郎の拳を片手で掴みながら、誰もいない方へ声を上げる。
それで、ようやく弁慶が何をしたのか気付いたのは、九郎以外の人間。
すっかり頭に血が上っている九郎は、弁慶の取った行動がどういう物なのかすら分かっていない。


「九郎、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるかっ!」


九郎を宥めようとしても、当の本人は聞く耳持たず。
これでは説明するのに骨が折れるかもしれない。

弁慶だって目の前で起きたことに驚いていないはずがないのだ。
それでも周囲が慌てふためく分、逆に客観的に何が起きたのかを判断出来た。
黒龍が「何か来る」と言った直後に浅水の身体が水中へ沈んだ。
本人ですら驚いていたところを見ると、明らかに何らかの力が働いていたに過ぎない。
そして、浅水だけを水中に引きずり込んで収まったということは、狙いは最初から浅水だったと言うことだ。

弁慶は小さく溜息をついて九郎を引きはがすと、黒龍の方へと向き直った。
朔の着物に縋り付いている姿は、先程と何ら変わった様子はない


「黒龍、今のことで君は何か知りませんか?」


す、と膝を折り、黒龍と同じ目線になってから問いかける。
自分より相手が小さい場合、同じ目線になった方が話題を提供してもらえるのだ。

きゅっと唇を噛んでから、黒龍はその口を開いた。










「浅水、連れて行かれた」










その言葉に眉を顰めたのは、弁慶だけではなかった。
連れて行かれたとは、一体どこに。
何の目的があって連れて行くというのか。
ましてや、引きずり込んだのは水中だ。

あぁ、けれど連れて行ったというのなら、最悪の事態は免れるのかもしれない。

次々と湧き上がる疑問は、神ならではの言い回しのせいだ。
白龍も、よく直接的なことばかりを言っていて、何のことか分かるまでに時間を要した。


「ねぇ、黒龍。連れて行かれたって、一体どこに?」


そんな中、率直にその疑問を口に出したのは朔だった。
黒龍は朔を見上げると、ふるふると首を横に振る。


「私にもわからない」


黒龍の返事に、誰もが落胆した。
けれど、浅水は白龍の逆鱗を身につけていたはずだ。
もしかしたら、逆鱗の力によってどこかへ行ったのかもしれない。

だとすれば、そのうちひょっこり帰ってくるんじゃなかろうか。


「浅水は無事でいるのか?」
「うん、無事だよ」
「そうか」


とりあえず、確認しなければならないのはそこだった。
黒龍が無事だと言うのなら、きっとそうなのだろう。
ならば、これから自分たちがやらねばならないのは一つだ。


ヒノエへの連絡は浅水付きの烏である浅葉に頼んだ。
その連絡が熊野へ届けば、どの仕事を置いてもヒノエが京へやってくるだろう。
浅葉が熊野に戻るまでと、ヒノエが早馬で京にやってくるまでは恐らく半月だろうか。

ヒノエのことだ。
きっと徒歩で一月掛かる道を、馬を乗り潰してやってくるに違いない。


それまでに、浅水が帰ってくればいい。
だが、そうでない場合は何らかの理由をつけて、ヒノエにこの件を隠さなければならない。
いざというときは、浅水が後見にと選んだ嵐山まで行けばいいだろう。
星の一族ならば今回の奇怪な出来事も、上手く対処してくれるかもしれない。

頭の中でそう算段を付けると、弁慶は立ち上がり浅水の消えた泉を見た。
水面は、何事もなかったかのように凪いでいる。




















呼吸が出来ない。


苦しい。



今の浅水の脳内にあるのはその二つだけ。
夏を越えた神泉苑の水は気持ちいいを通り越してむしろ冷たい。
どれだけ水を掻いても、水面に近付くどころか遠ざかっていくのはどうして。


空気を全て吐き出してしまったせいで、脳内に酸素が回らない。


意識を失う前に思ったことは、ヒノエへの謝罪の言葉。


いつだって傷つけることしかできない自分は、全てが終わった後ですら、ヒノエに迷惑を掛けている。
本宮を出て京に来ることになった理由だってそうだ。
自分の姿が変わってしまったせいで、色々とややこしいことになったから。

気にするな、と言ってくれるヒノエの優しさ。

けれど知っている。
その為に、ヒノエがどれだけの苦労をしていたか。





ねぇ、

私は本当に、

ヒノエの側にいていいのかな──?





返事のない問い。
それは、三年もの間ずっと浅水が抱えていたものだった。





「……っ!浅水っ!!」


誰かが自分を呼んでいる声がする。


行かなくては、と誰かが言った。

否、それは自分自身なのだろう。
きっと覚醒するために脳内がそう働きかけているのだ。


「浅水っ!」


ぼんやりと目を開ければ、そこは薄暗い室内。
けれど、それが自分のよく知っている部屋だと知り安堵する。


誰かが自分を抱きしめていた。
こうやって自分を抱きしめる人は、一人しか知らない。


でも、どうしてだろう。
今の自分がいるのは、京のはず。
それが何故、熊野の邸にいるのだろうか。


「……ェ……」


名前を呼んだはずなのに、その声は随分と掠れていてろくに音にならない。
それに、彼はいつから香を変えたのだろう。
自分が京へ旅立つ朝までは香は変わっていなかったはず。
ならば、その後に変えたのだろうか?

安心させるために、背中に腕を回せばその仕草一つが酷く億劫で。
けれど、腕を回した浅水は、その背にあるはずない物を感じてどうしたらいいかわからない。
きつく抱きしめ返してきたこの腕も、この胸も、自分が知る彼とは違う。



そして悟る。
この香を使っている人物が一体誰だったかということを。



この状況が理解できない。
一体何が起きているのだろうか。
自分の想像が確かなら、抱きしめている人物はヒノエではない。

それに、身体の怠さとこの掠れた声。
まさかと思うが、そうなのだろうか。





「べん、けい……」





今度はハッキリと言葉を口に出来た。
すると、抱きしめていた腕を少しだけ緩め、鼻がくっつくほどに顔を接近させてくる。


「随分と魘されていましたが、大丈夫ですか?」
「ヒノエ、は……?」


暗闇になれてきた視界は、至近距離にある弁慶の表情を読み取れるようにまでなっていた。
だからこそ、一瞬顔を歪めた弁慶に嫌な予感がした。


「また、夢を見たんですね。……あぁ、そう言えば今日でしたか」


夢?
弁慶は何のことを言っているのだろう。
確かに夢は見ているが、今日にどう繋がるというのか。

でもそれは今の自分が見ているのでは、と思う。
これが夢で、目が醒めれば京にいるはずだ。
間違っても熊野にはいない。

頬を撫でてくる弁慶の手が優しくて。
だからこそ、不安が更に膨れあがる。










「ヒノエが亡くなってから、今日で三年でしたね」










ヒノエが、死んだ──?





その言葉は、まるで壊れたレコードのように何度も何度も浅水の脳内に響いていた。










誰か、嘘だと言って! 










……ノ、ノーコメントッ!(脱兎)
2009.2.3
 
  

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