重なりあう時間 第三部 | ナノ
全ての話が終わる頃には、空は茜色に染まっていた。
茜色の空を眺めれば、思い出されるのは夢のこと。
今なら分かる。
涙が零れるのは、きっと悲しいからなのだと。
黒龍の言う、自分が失った物が何かはまだわからない。
でも、夢で失った物は自分の愛しいもの。
あれを失うことは、今の自分には信じられない。
信じたく、ない。
顔を空へ向けたまま瞳を閉じる。
それだけで脳裏に浮かんで来る光景があるが、それを見る前に目を開ける。
夢に捕らわれるほど弱くなったつもりはない。
「浅水」
「せんせ、仕度できた?」
「うむ」
仕度と言うほど荷物を持っているようには見えなかったが、彼が出来たというのならそうなのだろう。
浅水はリズヴァーンの元へと歩み寄る。
これから徒歩で邸へ戻れば確実に夜になるが、鬼の力を使えば一瞬だ。
始めからその力を当てにしていた浅水だが、力を貸してくれるというのなら、前と同じように梶原邸に厄介になった方が何かと便利だろう。
用があるたびに鞍馬まで出向くのは、時間の無駄でしかない。
「じゃ、行こうか」
浅水がそう言うと、リズヴァーンは自分のマントで浅水を包む。
その直後、二人の姿はその場から消えていた。
一瞬感じた浮遊感。
けれど、直ぐまた地に足を付ける感覚が戻り、浅水はぐるりと周囲を見回した。
目の前に見えるのは自分が京で世話になっている梶原邸。
その周囲もすでに見慣れた物。
「毎度のことながら、瞬間移動って便利だよね」
「そう言うのは神子やお前だけだ」
リズヴァーンの表情には、どこか苦い物が混ざっている。
確かに、鬼を忌み嫌っている京の人間はそんなこと言わないだろう。
だが、かつての仲間たちは彼が例え何だろうが気にはしないはずだ。
それに、リズヴァーンの能力を今一番欲しているのは、ここにはいないヒノエだろう。
もしその力を使えるならば、きっと熊野と京を行き来するに違いない。
「そんなことはないと思うけどね」
笑いながら答えれば、リズヴァーンは首を傾げるばかり。
気にするなと伝えて、浅水は邸へと入った。
「浅水!」
そんな浅水を出迎えたのは朔で、待っていたというよりは、今から外に出て行く感じだった。
恐らく、帰りが遅い自分を心配してくれたのだろう。
申し訳なく思いながら、無事だと言うことを伝えれば信じて貰えたらしい。
「もう、心配させないで頂戴」
「うん、ごめん。それより、今日からもう一人増えてもいいかな?」
「もう一人?」
謝罪の言葉を告げてから、邸に一人増える旨を訊ねればことりと首を傾げる。
逆に首を傾げたのは浅水の方だ。
確か九郎に伝えてくれと言ったはずなのに、伝わっていないのだろうか。
「朔も息災そうだな」
「まぁ、リズ先生!」
浅水の後ろから現れたリズヴァーンに、朔が驚愕の声を上げる。
その声が奥に伝わったのか、バタバタと誰かが駆けてくる音が聞こえる。
この足音だと、景時と九郎辺りだろうか。
「先生っ、お久し振りです!」
「本当だ、懐かしいな〜。お久し振りです。浅水ちゃんもお帰り」
「九郎も景時も、変わりはないか」
「はいっ!」
あぁ、なぜだろう。
まるで主人の帰りを待っていた犬が目の前にいる感覚なのは。
九郎の目は輝いて、リズヴァーンを尊敬の眼差しで見つめている。
確かに、剣の師である彼を尊敬するのは悪いことではないが、今の九郎はしきりに尻尾を振っているようにしか見えない。
「あぁ、浅水さん。帰ったんですね」
「うん。遅くなって悪かったわ」
「全くです。朔殿は君を捜しに行くと今にも飛び出さんばかりでしたし、帰ってくれば帰ってきたで、リズ先生を連れているんですから。今度は九郎が興奮しているじゃないですか」
ひしひしと伝わってくる嫌味を、右から左へと聞き流す。
これを耳でも塞ごう物なら、後から嫌味が倍になって返ってくるのだ。
その辺りはヒノエを見ているし、過去に自分も経験済みなので何とかなる。
問題は、それ以外にやってくる物だ。
「お久し振りです、リズ先生」
「弁慶も、変わりはなさそうだな」
「えぇ、おかげさまで」
自分の時と態度の違う弁慶に、思わず悪態をつきたくなる。
こんなところで弁慶に対するヒノエの気持ちを分かることになるとは、思ってもいなかった。
玄関先は何だからと、広間に行けば、そのまま夕餉の席になった。
もちろん、そこには黒龍の姿もある。
初めて見る黒龍の姿に、やはりリズヴァーンも驚いたようだが、すぐに冷静さを取り戻す辺りはさすがだろう。
「それにしても、お前が先生の元へ行ったとは聞いていなかったぞ」
「あれ?そうだっけ」
どん、と畳を叩いて訴える九郎に、邸を出る前のことを思い浮かべてみる。
あの時は確か、逆鱗に関することが思い出せなかったはず。
そこに現れた九郎が、浅水の持っていた逆鱗を見てリズヴァーンのことを呟いた。
その名前で、リズヴァーンも逆鱗を所持していた事実を思い出して、慌てて邸を飛び出したのだ。
朔に出掛けてくると伝えてくれ、と伝言を頼んで。
「あ……」
その事実を思い出して、小さく声を上げる。
どれだけ自分に余裕がなかったかを、まざまざと思い出して穴があったら入りたい気分になってくる。
「思い出したか」
「行き先も分からないしさ、巻き込まれてたらどうしようって心配してたんだよ〜」
無事で良かった、と言う景時の言葉に何か引っかかる物を感じた。
巻き込まれるとは一体何にだろうか。
朔が捜しに出るくらいだから、辻斬りの類ではないだろう。
浅水だって武器は所持している。
「景時」
「あっ、や、でも浅水ちゃんには言っておいた方がいいと思ってさ〜」
弁慶に呼ばれ、慌てたような様子を見せる景時に、いよいよ何かおかしいと感じる。
自分に隠すようなことと言ったら、熊野のことだろうか。
ヒノエに、何かあった──?
そう思った瞬間、身体中の血が一気に下がったような気がした。
もしヒノエに何かが起きたのだとしたら、自分は何を置いても熊野へ戻る必要がある。
例えそれが熊野に望まれていなくてもだ。
「ヒノエに、熊野に何かあったの?」
問いただすように弁慶を振り向けば、彼の瞳は戦のときと同じ。
感情のない冷たい色をしていた。
しばらく待って答えてくれる気配がないことを知ると、浅水は小さく舌打ちをして立ち上がる。
そのまま急いで廊下へ出て気配を探る。
そんなことをしなくとも自分付きの烏がいることはわかっていた。
けれど、今回は浅葉だけでなくもう一人、連絡役の烏がいる。
連絡役の烏がいないことを気配で知ると、まさかという気持ちになる。
もちろん、その烏が報告を持って行ったのか、はたまた受け取りに言ったのかは謎だが。
「あさ……」
「熊野には何もありませんよ。もちろん、ヒノエにも」
浅葉を呼んで確かめようとしたところで、ようやく弁慶の声が届く。
ゆっくりと振り返る浅水の表情は、どこか鬼気迫る物があった。
その気配に飲まれたのは朔や黒龍だけではない。
九郎や景時もそうだった。
戦の時に感じる物とは違うそれは、どこか怒りに似ている。
「弁慶、そういう冗談は好きじゃないよ」
それでなくとも夢のことがある。
今熊野やヒノエに何かあったなら、きっと自分は後悔する。
「ちゃんと確認しなかったのは君でしょう?」
「弁慶」
鋭い視線と強い口調で咎めれば、弁慶は口を閉じた。
その表情に笑顔はない。
熊野やヒノエに何もなくとも、違うところで何かがあったということは確かだろう。
かといって、このまま口を閉ざされたままなのも気に入らない。
周囲に目をやれば、黒龍はすっかり怯えて朔に張り付いている。
彼には申し訳ないと思うが、話を聞き出すまではこちらも引くわけにはいかない。
自分に話しかけた景時なら分かるのだろうが、どうやら脅かしすぎたか。
九郎と二人、すっかり閉口している。
リズヴァーンは論外だ。
やはり、弁慶から聞き出すしかないだろう。
「話す気がないなら、私はその件に手を出さないからね」
話さないのではなく、話せない。
そうなると、浅水が立ち回ることも出来ない。
恐らく、景時の口ぶりだと自分も何か手伝えるのだろう。
だが、元軍師殿は、自分が手を出すことを望んでいないらしい。
その理由が、熊野別当の妻だから、とでも言おう物ならいっそのこと殴ってやろうと考えた。
ややあって、弁慶が重い息を吐いた。
話す気になったのか、それとも話さないと腹を決めたのか。
どちらにせよ、次の言葉が全ての答えだ。
「京に、怨霊が現れたそうです」
その言葉に、浅水だけではなくリズヴァーンも反応する。
恐れていたことがついに現実となったか。
「それはいつの話」
「聞いたのは、君が帰ってくる少し前の話です」
だからか、と思う。
怨霊が現れたと聞いたから、朔は自分を探しに出ようとしていたのだ。
望美のように封印は出来ないが、黒龍の神子である朔なら、怨霊を鎮めることが出来る。
本来なら駆り出されるはずの三人が揃って残っているのも、同じような理由なのだろう。
走ってきた九郎や景時は、その手に自分の獲物を持っていた。
「私が出掛けたときは、怨霊なんて見なかったけど」
「俺たちも、それを聞くまでは怨霊は見なかった」
「本当に突然だったんだよ」
ようやく動けるようになったのか、九郎と景時が話に入ってくる。
怨霊が京の町中に現れることは珍しいことなのだという。
それもそうだ。
応龍が復活してからは、五行は乱れることを知らないのだから。
夕餉が終わった後、九郎と景時、弁慶の三人は出掛けていった。
恐らく、他に怨霊が出ていないかの確認と、警備も兼ねているのだろう。
リズヴァーンは梶原邸に残り、浅水と朔、黒龍についていると約束していた。
「次から次へと、よくもまぁ飽きないこと」
応龍が白龍と黒龍に分かたれ、肝心の白龍は行方不明。
囚われている時空も分からないまま、今度は怨霊まで現れた。
次に起こるとしたら、一体何だろうか。
「いっそのこと、望美たちが現代からこっちに来てくれればいいのに」
そうすれば、怨霊も封印できるし戦力も増える。
だが、有り得ないことを言っても仕方がない。
考えなければいけないことがどんどん山積みになってくる。
このままでは、雁字搦めになって動けなくなりそうだ。
「ヒノエに、会いたい」
まだ熊野を離れて一月しかたっていないのに。
航海に出ているヒノエを待っていたときより、随分長い間会っていないような気がした。
頭痛の種は消えないらしい
事件勃発
2009.2.1