始まりの場所 | ナノ
「ならば、ここでお別れだ」
アシュヴィンが突然そんなことを言ったのは、熊野に着いて暫くした後のことだった。
禍日神の力の前に、一時的に協力し合うという形で出雲から逃れてきたのは、まだ記憶に新しい。
黒雷アシュヴィンも一緒に乗り込んだ天鳥船が、辿り着いた先は熊野。
中つ国が滅亡した際、旧臣が多く逃れた土地としても知られている。
今後どうしようか悩んでいた自分たちの前にやって来た数人の采女。
彼女らは、主に会って欲しいと言って位置を記した紙を置いていった。
協力を得られるのなら会ってみた方がいいのだろうが、その相手にもよる。
事実、真澄が苦手としている人も、この熊野に逃げ落ちているはずだ。
自分の想像した人物と、風早の予想した人物が同じでないことを祈るばかり。
会うべきか否かを詮議するためにも戻った天鳥船で、アシュヴィンが別れを告げたのはそんなときだった。
「ねぇ、アシュヴィン。どうして?」
突然そんなことを言い始めたアシュヴィンが信じられないのか、千尋が問い詰めるようにアシュヴィンを見る。
その表情は、心底わからない、と言っているようだった。
「どうしても何も、最初からそう言う約束だっただろう?それに、俺たちが共に動くことは、互いのためにならない」
アシュヴィンの言うことはもっともだ。
方や中つ国の二ノ姫。
方や、常世の国の第二皇子。
敵対しているはずの二人が、同じ志とは限らない。
それに、天鳥船に乗っているのはほとんどが中つ国の兵士たち──一部、日向の民もいるが。
二ノ姫と黒雷が一緒にいることを良くは思わない者だっている。
「でも、もう少し、私たちに力を貸す気はない?」
「姫……?」
千尋の言葉に思わず声を上げたのは布都彦。
けれど、声には出さずとも、布都彦と似たような感情を覚えた人は少なくもないはず。
そう言う真澄ですら、千尋の言葉には驚きを隠せなかった。
少し考えれば、彼女が何を言い出すかは理解できそうなのに。
「このような誘いをもらえるとはな」
その一方で、千尋からの言葉にまんざらでもなさそうなのは、言わずもがな。
アシュヴィンだ。
だが、ここまで来て黙っているような忍人でもない。
「敵国の皇子に助力を乞うなど、ばかげている」
「私も忍人に賛成するね」
ボソリと呟いた忍人に続いて、真澄が挙手しながら賛同する。
いくら力が足りないからとはいえ、よりによってアシュヴィンを引き入れようとするその心意気には拍手を送りたい。
戦の最中に裏切られでもしたら、どうなるかわかっているのだろうか。
「……まさか真澄が物事をまともに考えているとは思わなかったな」
「どういう意味」
「他意はない。そのままの意味だ」
ヒクヒクと口角が引きつるのを感じる。
昔からそうだが、忍人の目に自分は一体どういう風に映っているのだろうか。
流石に斬り掛かるのはどうかと思い、隣にいる忍人の足を思い切り踏んづけてやる。
すると、眉間に皺を寄せたまま何か言いたげにこちらを見たが、小さく嘆息をついてまた顔を逸らされる。
言いたいことがあるなら、いっそのことハッキリ言ってもらった方が有り難い。
中途半端にされるほど、それが気になって仕方ない。
「後から覚えておけ」
「それは俺の台詞だと思うが」
「知るか」
お決まりの捨て台詞を残して、忍人の足の上から自分の足をどける。
そのまま千尋の方を見れば、自分たちが小競り合いをしていても尚、話を続けているようだった。
そうまでしてアシュヴィンの力が必要だというのだろうか。
確かに彼は強い。
けれど、中つ国の兵たちも頑張っている。
それになりより、自分たちもいるというのに。
「アシュヴィン殿」
そんな中、今まで口を閉じていた柊がその口を開いた。
お得意の口先三寸で言いくるめるつもりだろうか。
一時期、常世に下っていた柊だ。
アシュヴィンの噂も知っているだろう。
「定めが、あなたを呼んでいるのです」
「……何だと?」
柊の言葉に眉を顰めたのは、アシュヴィンだけではない。
真澄もだった。
定め──規定伝承のことだろうか。
全て決められているとしたら、この戦いの結末も規定伝承には書かれているのでは。
そう思い、柊に聞いて見たことはあるが、色よい返事はもらった試しがなかったように思う。
「よいではありませんか。我が君の側でしか得られぬ情報もある。あなたにとって、不利なことばかりではないと思いますが?」
やっぱり柊はアシュヴィンを引き止める役を買って出たのか。
ここまで千尋贔屓だと、ある意味感心してしまう。
けれど、中つ国を共に逃れた相手が風早で良かったと心底思う。
もしこれが風早ではなく柊だったらと考えると、想像もしたくない。
「……我がもとに人を縛るのも、龍の神子の力……か」
「アシュヴィン……」
縋るような視線の千尋。
恐らく、自分が今思っているように、忍人もこの状況を面白く思っていないだろう。
二ノ姫は、自分の国の兵よりも、敵国の皇子を選んでいるのだから。
「……いいだろう。もう少し、お前の率いる軍を見てみたくなった」
自分がこの場に留まるのは、ただの気まぐれだと言いながら、その実楽しそうに見えるのはなぜだろう。
そんなことをぼんやりと考えていたら、アシュヴィンと偶然目があった。
その途端、何かを思い付いたように細められた目に、真澄は嫌な予感を感じた。
それは本能で感じ取ったと言ってもいいかもしれない。
口止めをしようと口を開いたその瞬間。
アシュヴィンの口から出てきた言葉は、とんでもない物だった。
「嫌よ嫌よも好きのうち、と言うらしいからな」
「何の話だ!」
ニヤリと口元を歪めるアシュヴィンに、わけのわからない真澄はただ怒鳴り返すばかり。
「何だ、忘れたのか?つれないな。あんなに熱い逢瀬だったろうが」
「はぁっ?!」
顎に手を置きながら、思い出し笑いを浮かべている彼は酷くいやらしい。
自分が本当に忘れているのか、それとも彼の狂言なのかはわからないが、どちらにしろいい迷惑だ。
「……やっぱりそうか」
「やっぱりってどういう意味だ!」
はぁ、と大げさに溜息をついた忍人にも吠えるのを忘れない。
「そっか、素直じゃない人って天の邪鬼だよね」
「真澄殿……あなたがそんな方だったなんて……」
「ふふっ、真澄も澄みにおけませんねぇ」
次々と出てくる言葉は、どれも真澄に対しての物である。
いつの間にか話の矛先が自分になっているのを知って、真澄は目眩がしそうだった。
それもこれも、元凶はアシュヴィンである。
後から必ず報復してやろう、と真澄は固く決意した。
間違いなく人生最悪の日だ
アシュヴィンは要注意人物決定!
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アシュヴィンの手の上で転がされてみる(笑)
2008.12.9