走れまだ世界は終わらない
手袋をしたまま彼にラインを返す名前を見ていた。
「なに?」
と名前は顔を上げ、怪訝そうな眼差しを僕に向けた。
「どうして手袋をしているのにスマホが反応するんだろうかと思って」
すると名前はにっこり笑い、右手を広げて見せた。
「親指と人差し指の先だけ色が違うでしょ? ここだけ糸が違うらしくって、通電するの。だから操作できるの」
「へえ」
「へえ、って。赤司君が聞いたくせに」
と名前は不満そうに僕の顔を見上げた。
「それより彼は何だって?」
「もう着くって」
「それは良かった。これ以上ここにいたら風邪を引きそうだ」
「赤司君が彼を急に呼びつけたんでしょ」
名前は冷ややかな声で言った。雪の降る朝みたいだ。
「それが何だというの?」
「授業中だっていうのに。理由も言わないで」
「悪いとは思ってるよ。でも、ここはいささか寒すぎる」
「私も納得してないんだけど」
「と、言うと?」
僕は、名前に分かるように、とぼけた表情を作った。名前を怒らせたかったのだ。もちろん、その試みは成功した。
「私と別れたばかりの彼と、赤司君と、3人で何を話せって言うのよ? ひどすぎる。赤司君のそういうところ、好きじゃない」
「僕は名前の怒ってる顔も好きだよ」
「ふざけないで」
「本気だよ。本気だから、手の込んだやり方であなたと彼を別れさせたんだ」
名前は目を見開いた。
驚きには二種類ある。夢にも思わなかったものと、心のどこかで予期していたものだ。彼女は後者だった。
「今まで、あまりにもタイミングよく物事が進んできたと思わない?」
そのときだった。
名前の腕がのびてきた、と思ったときには、右頬に鈍い痛みが走った。しかし、ビンタではなかった。まだ頬にザラザラした毛糸の感触がある。
至近距離で名前と視線が合った。僕の頬は力の限りつねられていた。
ふいに辺りの雑踏が途絶え、闇が訪れた。
僕と名前は2人きりだった。通電している、と名前が言った。
名前の親指と人差し指の間から、息をしただけで切れそうな、細い回線がのびている。黒い瞳の奥深くから、思い出せなかったあの夢が流れ込んでくる。
その濃密な時間は突然終わった。名前はぱっと手を離し、踵を返した。
「帰る」
僕はその後ろ姿を見送りながら、呆然と立ち尽くしていた。何に圧倒されているのだろう? この感覚は何だろう?
僕はハチ公の前で、ずっと1人だったかのように、誰かを待っていた。
真冬の風が通り抜けると、熱い頬がびりびりと破れて、閉じた耳に雑踏が戻ってきた。
スクランブルの広告塔が流行りの俳優を大写しにした。
その瞬間、何かがすとんと腑に落ちてきた。
パズルのピースが何年ぶりかにはまった。
満たされていた。
許されていた。
僕は幸せだった。
20171220
Happy birthday to you.
titled by さよならの惑星
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