恋よもう一度泣いてくれ


久しぶりに泣いている。
なぜと問われても困る。

「夜が更けてきたね」

僕はそれだけ答えた。

「赤司くんの言っていること、ときどき、難しすぎてよく分からない」
と名前は言った。

「だって伝える気がないからね」

僕は少し笑った。たとえバーにかかる洋楽がうるさすぎても、間接照明が暗すぎても、この距離だ、僕の口元ぐらいは見えるはずだろう。
けれど、名前はますます混乱したようだった。

とりあえず、といったように、名前はハイボールを半分くらいまで飲み干した。何かをごまかすには、少しばかりアルコールの量が多すぎる。

「あまり強くないのに、そんなに飲んじゃって大丈夫?」
と僕が言うと、名前は「赤司君と比べたら誰だって弱いでしょうに」と言い返した。

名前は僕の右肩に左のこめかみをそっと預けた。
いつもの香水が淡く、暗闇を漂う。
珍しいな、と思った。もちろん、好きな女の子にそうされて嬉しくないはずもない。ひょっとして、涙はむしろ男の武器なのかもしれない。

「どうして泣いているの?」
名前はカウンターの中のバーテンを眺めながら、ぽつりと言った。

「私のせいかな?」
名前はまた言った。僕が何も言わないからだ。

「それは間違いないね」
と僕はようやく言った。
自分が泣く直前に名前が言ったことを思い返した。そして、それだけではだめな気がした。言葉で言っておいた方がいい気がした。

「名前が、彼との関係に区切りをつけてくれたのは、僕のためかと思ったからだ」

名前には高校の時から付き合っていた彼氏がいた。
その彼はたまたま僕と同じ大学に進んだ。
彼と僕の仲は良かった。
彼がじぶんの恋人を僕に紹介するのに時間はかからなかった。
僕らは3人で何度か会った。

でも今は、僕と名前の2人きりだ。
こうなるのに大した手順は必要ない。
強烈な感情すら不要だろう。
どこかで見たような筋書き通り、恋愛は進んで、はたと我に返ったときにはどっぷりとはまりこんでいる。

一体だれがこんな安っぽい脚本を考えたんだろう?

「たしかに、そうだよ。それなのにどうして喜んでくれないの?」
「どうだろう。分からないな」
「嘘。泣いている理由を教えて」

僕は名前の顔を見た。名前も僕を見た。
名前の顔だけが浮き上がっているようだった。
初めて2人で会った時よりも、ずっときれいになっていた。
あれはいつだっただろう。彼の愚痴と惚気を交互に繰り返していたのは。

「名前を見てるとかなしくなるんだ。夜が更けていくのを見ているように。だから」

名前は瞳孔の開いた目で僕をじっと見つめた。黒目がちで、子どもみたいだ。いたいけで、誰も救えない少年。

「夜が更けたら、電車もなくなって、ずっといられるじゃない」
名前はまぶたを伏せると、またハイボールに口をつけた。

「でも朝が来てしまう。そうしたら名前は帰ってしまうだろ?」
「仕方ないでしょう、大学もあるし、バイトもあるんだから。私も生活しなきゃいけない」
「そういうところだよ。口では僕のためとか言っておいて、名前は名前のためにしか動かないんだ」
「だから泣いているのね?」

バーテンがちらりとこちらを見た気配がした。
アルコールの匂いが鼻にきつく抜けていく。
僕はどんなに無様だろう。

「あなたはずるい。僕が離れることはないと知っているから、そんなことを軽々しく口にできるんだろ」
「ねえ、ちょっと落ち着いて。赤司君らしくないよ」
「僕らしいってなんだよ? 僕は名前が思っているよりずっと淋しいんだよ」
「それは赤司君が人を寄せつけないからよ。自業自得だよ」
「僕はいつでも名前といたいと思ってるのに?」

名前はナイフでも突きつけられたように、身を引いて、目を見開いた。
その白い手だけが忘れ去られたようにカウンターの上に乗っていた。
僕は思わずその手をつかんだ。
どうしようもなく熱いのは、どちらのせいだろう。

「僕は名前のずっと側にいたい。あなたはどう?」

名前は何も言わず、僕の手を見つめるだけだった。あたかも、視認しなければその存在を感じられないというように。
僕は彼女の幻想なのだろうか?
名前はその半ば開いた小さな口から、ことばを紡ぎだそうとした。

「あたしは、」
「ちょっと失礼。お手洗いに」

僕は思わず席を立った。その拍子に、重なっていた手がぽとりと落ちた。バーテンの視線を感じた気がしたが、僕は構わず店の一番奥へ向かった。


トイレの扉に鍵をかけた瞬間、全身から一気に力が抜けた。立っているのがやっとだった。
蛇口を思い切りひねって、手首を冷水にひたし、顔を洗った。
ポケットの中のタオルはまだ柔軟剤の香りがしていた。

鏡の中の僕はひどい顔をしていた。
僕は怖かったのだ。
格好のついたような言葉をいくら並べても、あの空間であの名前の顔を見られなかった。
名前が彼と縁を切ったと言ったとき、僕まで切られてしまいそうな気がした。

「今度こそ、いけるだろうか」

鏡の中の僕は静かにそう問うた。


そこから一歩出ると暗がりで、金曜日の人の声で満ちていた。時折どこかで鳴るグラスの音が僕の足どりをまっすぐにした。
僕はカウンターの端のあの席に、吸い込まれるような感じがした。

ぽっかりと空いたブラックホール。

僕は足の高い席に座りながら、首を傾げた。
どうして僕は1人なんだろう?


「お連れ様はお帰りになりました」

バーテンの声が聞こえ、顔を上げると、彼は悲しげに白い布でグラスを拭っていた。
名前がいたはずの席には、飲みかけのマンハッタンと、見覚えのある一冊の本だけが残されていた。
僕がいつか名前に貸した本。
明日読むと言っていつまでも返してくれなかった本。
その表紙を開くと、千円札が4枚挟んであった。
名前の申し訳なさそうな顔がありありと浮かぶ。
これで手切れだというつもりなのか?

「お会計を。出来るだけ早く」

僕がそう言うと、バーテンは待ってましたという顔で伝票を差し出した。



店を出ると、夜は更けていた。
週末の新宿はカップルとサラリーマンでごった返していた。
僕はその中を1人走っていた。

もう何人をつき飛ばしたか分からない。
名前は歩くのが遅い。足が短いから。
名前はすぐ迷う。方向音痴だから。
そして、今つかまらなければ名前は消えてしまう。馬鹿だから。

僕は息を切らしながら、生まれて初めて神に祈った。
名前に追いつきますように。

数十メートル先の信号は赤だった。
新宿駅東口がもう見えていたが、交通量は少なくなく、信号無視は自殺行為だった。
小さく舌打ちしながら、とりあえず人の列の一番前に出た。

そこに見慣れた後ろ姿があった。
声を出そうとしても、久しぶりの全力疾走でやられた気管支はすぐにはそれを許さない。

「名前」

やっと出たそれも、ヘッドホンをつけた名前を振り向かせるには足りなくて。
信号が青になった。
動き出す往来のど真ん中で、僕は足を止めた。


「名前!」

その声には近い人から順番に誰もが振り向いた。
そして、最後に名前が立ち止まった。
僕はまた走り出した。間に合ったのだ。
今度は名前も逃げなかった。


「赤司くん、足速いね」


名前は涙でぐちゃぐちゃの顔を僕に向けた。
僕はやっとのことでその肩を抱き寄せて、腕の中におさめた。
小さな夜を抱えているようだった。


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titled by さよならの惑星





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