きらめきの花
16時から笠松幸男さんが面会にいらっしゃるそうです、と看護婦さんが言った。
これはいよいよ年貢の納め時かもしれない、と思った。
笠松は、セックスどころかキスもろくにしないで自然消滅した、最初の彼氏だった。
私が彼と付き合っていたのは、高校最後の1年間だけである。
もうずいぶんと昔の話だ。
気付けば10年が経っていて、記憶は薄れつつある。
なのに。
「よお……久しぶりだな、名前」
笠松はあの日のままで、花束をたずさえて病室に入ってきた。
「……ほんとに来てくれたんだね」
「なんだよその顔。嘘ついてどうすんだ」
私の失礼な反応に、笠松は呆れ顔で、
「ほらよ」
ぶっきらぼうに小さな花束を差し出した。
いかにも見舞い用といったその花々の中に、鈍い赤のガーベラが1輪まぎれ込んでいる。笠松が足したのだろうか。
花屋の店先で、途方に暮れる笠松が見えるようだ。
笠松が昔のままなら、花なんて軟弱なものは分からないとか言いそうだが。
誰かに見繕ってもらったのかもしれない。
そのまま枕元に置いた。
「ありがと。とりあえず座ってよ」
ベッド脇のパイプ椅子をすすめようとすると、笠松は窓際の大きな花瓶をしげしげと眺めていた。
「けっこう見舞い来てんだな」
「ありがたいことにね。高校時代の友達も来てくれて。ほら、優子とか覚えてる?」
優子は、高校時代で一番仲の良かった友達だ。今ではすっかり疎遠だったのに、私の入院をどこで知ったのか、真っ先にやってきた。
「そりゃあな。お前のことを教えてくれたのも、あいつだし」
そっか、と相槌を打ちながら、私は優子のほくそ笑む顔を思い浮かべていた。
「サプライズがある」とは言っていたけれど、元彼に連絡するなんて、嬉しいようなお節介なような。
「あんなに仲良かったのに、最近はほとんど会わないんだってな」
「まー、仕方ないかな。違う大学行って、違うことをしてたら」
むしろ笠松と優子が連絡とってる方がびっくり、と私が言うと、笠松は微妙な顔をした。
何かをごまかすように後頭部をかいて、それから、
「言ってなかったけど、優子と付き合ってて、近いうちに結婚するつもりだ。子どもができた」
そのときの私の顔は滑稽以外のなにものでもなかっただろう。
−−おどろいた。心底からおどろいた。
「それはおめでとう」とやっとのことで言うと、笠松はポケットから白い封筒を取り出した。
「式までに退院出来たら、来てくれ」
結婚式は7月29日に挙げるらしい。
ひまわりが咲く、良い時期だ。
「幸男の誕生日だっけ?」
「……よく覚えてんな。そうだよ」
「今ね、思い出したの」
お小遣いをはたいて、少しだけ高級な腕時計をあげたこと。
インターハイの日、2人で泣きながら帰ったこと。
ひと気のない体育館でキスしたこと。
卒業式のとき、バイバイと笑顔で言ったこと。
家に帰ってから号泣したこと。
手を伸ばせば届くところに、あのときの感情が、衝動があふれている。
「あの笠松に子どもかあ」
思えば、笠松はいつでも未来を向いていた。
結局、インターハイでもウィンターカップでも雪辱を晴らせなかったのに、視線はいつも前を見つめていた。
今だって、彼のもとで新しい命が生まれようとしている。
笠松のそういう、ひまわりみたいなところが、私にはダメだったのかもしれない。
なぜなら、私が笠松にしてあげられることが何ひとつ見つけられなかったからだ。
優子はきっと、その何かを探し出せた。
それだけだ。
「初めて会ったのは、高2最後のライブの時だったっけ。
うちのバンドが終わって、楽屋に行ったら、真っ赤な顔の笠松が」
「うわああ、やめろ恥ずかしい」
「えー? あんたの『きらめきの花』が最高だった、ってわざわざ言いに来てくれたのは」
「俺だよ、俺!! いいから黙れよ!!」
笠松は真っ赤な顔を、細いリングのついた左手で覆った。
まぶたに氷嚢が当てられたみたいに、急に心が静まっていくのを感じた。
時は経ってしまったのだ。
「懐かしいね」
「……本当にな」
これで私たちは本当に終わりなんだろう、そう思った。
正直、そのあと話したことはほとんど覚えていない。気付いたら日が暮れていて、笠松は席を立っていた。
「優子、そういえば妊婦だもんね。引き止めちゃって大丈夫だった?」
「何言ってんだ、名前こそ病人じゃねえか。ま、思ったより元気そうで良かった」
「おかげさまで。せっかくなのに何も出来なくて、ごめんね」
今も昔もダメだね、と冗談めかして言ったのに、笠松は「それはちげーよ」と真剣な顔をした。
「あのときの俺は、お前の歌で救われた。ダメだなんて言うな」
笠松は顔色一つ変えずに、きっぱりと言い切った。
こういうやつだった。肝心なところは外さないやつだった。
いっそ、いつも通りゆでダコになって言ってくれれば楽なのに。
「……ありがと」
笠松は、おう、と言った。
「それじゃあ、また」
笠松はあっけなく私の前から姿を消した。
抜けがらのようになった私の上を雨音が通り過ぎていく。
外界では、私の知らないうちに雨が降りだしたようだった。
ぼんやりと、私は彼らの結婚式には行けないだろう、と思った。そんな予感がしていた。
笠松が今日ここに来たのも、優子に子どもが出来たのも、そういうフラグだ、きっと。
何の気なしにブーケに手を突っ込んで、ガーベラを取り出した。
何の気なしにその花びらを一枚ずつむしって、捨てた。
きらめきの花−− song by Nothing's carved in stone −−
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