すこしばかりのきらびやか
暮れていく空の下、葉桜の下で君を待っていた。
傘のビニールごしにセブンの自動ドアが開くのが見えた。万引き防止のチャイムの音。……いや、気のせいか。この距離じゃ聞こえる訳がない。
ぐるりと辺りを見回して、雨降りの様子を確かめる。
しかし君は少し俯き加減になると、左手をすべらせて黒い傘を差した。それは一本だけ骨が折れていて大変不恰好。物は持ち主に似るとはよく言ったものだ。
−−黄瀬涼太。
「こんなとこで……奇遇っスね」
涼太は傘を少しだけ傾けて私が誰か確かめてから、とってつけたような返事をした。
「黄瀬クン、今ちょっとスルーしようとしたでしょ」
「あ、バレた?」
「あまりに自然なモーションで、ひどいもんだね」
「だって、てっきりストーカーかと思ったんだもん」
だもん。
その可愛らしい響きを打ち消すように「てかアンタ、ほぼストーカーっすね」と言う。
「偶然、黄瀬クンが入ってくのを見たから。なんとなく……待ってみようと思って。何となく」
「アンタ、今自分で何いってるか分からなくなってるだろうけど、それかなりキモいっすよ」
「キモい?」
「キモい。足元見てみなよ」
気持ち悪い、略してキモい。
たしかにローファーはずぶ濡れで、靴下はクチュクチュと水音を立てる。キモい。
排水溝にこびりつく、吐瀉物のような桜の花びら。キモい。
「ねえ、俺がここに来る前から突っ立ってた気がするんだけど?」
「そうだっけ……そうかもしれない」
「わざわざこんなことしなくても、連絡くれれば行くのに」
「会えなかったら会えなかったで、いいかなって」
私がぼんやりと口を動かすと、涼太はいかにも、と言うようなため息をついた。
「ま、こんな時間まで待ってたならナンだし、俺んち来る?」
ナニがどうアレでコウなのか分からないが、欲しかった言葉だったので、とりあえず頷く。
彼に告白したときと、全く同じように。
私たちは高校生3年目にさしかかっていて、1年ぶりの同じクラスだった。直接、女子の目にさらされるのも1年ぶりだ。
2年の秋以降、皆が手のひらを返したように受験モードにシフトしたせいか、1年のときよりは風当たりが強くない。
そういえば、朝練で席を空けるのはもう涼太とラグビー部ぐらいだ。
近いうちに、1限から行く人間自体、そいつらと数人しかいなくなるだろうけど。
進路どうするつもりなの。
そう聞こうとしたときには、涼太は見慣れたこげ茶色の扉を開けていた。
あのコンビニからマンションまで5分はかかっているはずなのに、その間の記憶がすっぽり飛んでいる。
右手にあった傘だけは綺麗に巻かれていて、なんとも不気味だった。
「タオル取ってくるから、ソファで待ってて」
私のよりふたまわりは大きいだろうローファーが大理石の上をゴロンと転がる。玄関に他の靴はひとつもない。
涼太の家の匂いがした。
皮が駄目になりそうな小さなローファーを揃えて、つま先立ちで、脱いだ靴下を抱えて上がった。
廊下を右に曲がって、足跡を残さないように10歩と少し。扉を開けると広いフローリングのリビングがある。
一番乗りなのか、カーテンは開け放しでベランダの洗濯物は見えるし電気も点いていなかった。
靴下をカバンに突っ込もうとすると、窓ガラスに私が映っていた。もう夜だ。
ふらふらとリビングに座り込むと、涼太が洗面所から出てきた。
「電気ぐらい点けたらどうなんスか」
「いい。めんどい」
「あっそお……ま、いっか」
涼太は勝手に頷くと、タオルを持ったまま私の目の前の、床にあぐらをかいた。うすい闇の中、黄色のつむじが浮き上がって見える。思わず引っ込めようとした足は、瞬時につかまれて、柔らかいバスタオルにくるまれた。
少しくすぐったい、でも鎖骨のあたりがほどけていくような感覚。
「黄瀬クン、そういうの好きなの? 知らなかった」
「今そーゆー気分なんすよ。黙ってて」
それ以上何も言わないでいると、涼太は黙々と私の両足を拭きとっていった。
「あのさ、黄瀬君」
「なに」
「進路ってどうするの?」
涼太はぴくり、と身じろぐとその作業を止めた。表情は判別できないけれど、相変わらず綺麗な顔が私をのぞきこむ。
「そっちこそどうしたんすか、いきなり。さっきからもだけど、今日なんか名前、変だよ?」
「私ね、獣医になるって決めてたんだ。ちっちゃい頃から。動物がすごく好きで、犬も飼ってたし。頑張って国立行って、家の負担にならないように、」
「名前」
涼太は真剣な顔をした。
はらり、とタオルが落ちて、足の神経が外気と反応する。
「子ども出来ちゃった」
「……え?」
涼太の強い視線を感じながら、剥がれかけの赤いペディキュアを見る。
「さっき病院行ったから確かだよ。2ヶ月だって」
「それで、どうするんスか」
1時間くらいは腑抜けている、想定だったのに、即座に正気に戻ったような声がした。
表情もほぼいつも通りだ。
ふうん。
「わかんないや。うん、わからない」
正直なところを言ってみると、涼太は少しだけ嫌そうな顔をした。
しかし、それは涼太も同じらしい。タオルを持って立ち上がりながら「今日は親も姉貴も帰ってこねえよ」とだけ言った。
「ううん、今日はゲンジツ的な話をしにきたんじゃないから」
「は? ……ちょっと待って、着替えてくる」
身を翻そうとした涼太のブレザーの端に手を伸ばし、指でつかむ。
初めて眉間にしわがよった。
「もう帰るから、このままで、ひとつだけ訊いていい?」
「……どうぞ」
苦々しい顔すら美しい。
私のものは。
黄瀬涼太は。
「私を愛してくれますか?」
涼太は何かで殴られたような表情をした。ひょっとすると妊娠のことを言ったときよりも、衝撃が強かったのかもしれない。
私にとっても、その言葉は目眩がするほど重いものだった。
愛してるなんて一生言うことはないと思ってたし、安っぽいし、涼太が嫌いな言葉ナンバーワンだし。
ああ、グラグラする。よくわからない。
どうにかカバンを持ち上げて、玄関まで歩くと、大小ふたつのローファーがきちんと並べられていた。
迷うことなく、濡れていない大きい方のそれに足を入れる。
重いドアを体でこじ開けると、夜の湿った匂いがした。
上の階からカンカンとヒールの足音が響いている。
エレベーターに乗った。
管理人室を過ぎた。
並木道を通った。
コンビニの明るさが横切った。
そこで初めて自分が走っていることに気付いた。
息がもう上がっている。サイズの合わない靴は今にも脱げそうだし、晩春の夜風は露出した足には少し冷た過ぎる。
それでも足は止まらなくて。
駅が見えて、改札が見えた、と意識レベルで認識したときにはもう下り線のプラットホーム、1号車の位置に立っていた。
柱に屋根をつけただけの、風通しのいい小さな駅。向かいのホームにも、ほとんど人の姿は見えない。
自分の荒い呼吸の音だけが聞こえている。
一体なにをしているんだろう?
「3番線に回送電車が参ります」
帰らなきゃ。帰らなきゃ。逃げなきゃ。涼太こないよね。気持ち悪いよね。もう8時だ。携帯の電源はないし。親になんて言おう。どうしよう。つわり。22週。愛してるなんてなんで言っっちゃったんだろう。愛してる。愛して。
早く。
早く。
早く!!!
「名前」
首のあたりに腕の感触がした瞬間、電車がつんざくようなクラクションを鳴らした。
ガタンゴトン。ガタンゴトン。
すぐ目の前を、静かな光に満ちた無人の列車が走り抜けていく。
その音が聞こえなくなると、急に背面全体に動物的な体温を感じた。
私は誰かに抱きすくめられていた。
「ひとの靴、持ってくとかマジないすわ」
「……涼太」
「あのさ、落ち着けよ。せめて俺の話聞いてからにして。こんなこと」
こんなこと、と言われて背筋がひゅっとした。私がホームのへりに立っている、意味をようやく呑み込んだ。
「あれ……?」
「あれ、じゃないっすよ。あれ、じゃ。マジふざけんなっつーの……」
からまりつくような涼太の腕にぎゅっと力がこめられる。頭に顔をうずめられたような感触がした。
「ねえ、名前、愛してるっスよ。愛してる。こんなことさせてごめん。今までごめん」
「名前、俺たち、恋人やめないっスか?」
瞼を閉じて、その言葉の余韻が消えるのを待つ、ゆっくりと。
涙が頬骨のあたりをなぞるように落ちていった。
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