絆創膏の上から指でなぞる


住む場所が変わっても、おは朝の占いだけは名前の今までと同じように流れているらしい。

今日のさそり座は12位だという女子アナの甲高い声に、顔をしかめながら、名前はソファから起き上がった。
背もたれの向こうに、コーヒーを注ぐすらりとした後ろ姿が目に入る。細身のジーンズと、七分袖の、おそらくVネック。

いっそう眉を寄せて、毛布をひっぱり直した途端、その人影はポットを持ったまま向き直った。

「おはよう、名前。ご飯出来てるよ」
「……ママは?」
「お仕事。昨夜言ってたろ、朝から収録なんだって」

知ってる、とにべもない返事をして、名前は背もたれに頬をうずめるようにして丸まった。全くもって12位だ、ママのココアが飲みたかったとふてくされながら。


先々週の金曜日、突然名前の前に現れたその男は、氷室辰也と名乗った。
母親より幾分若く見えた氷室は、12歳の名前の目にも整った容姿をしていたため、その数日のように、新居祝いに母親の事務所の後輩が訪れたのかと、彼の右手を握りかえすまでは思っていた。

「今日から一緒に暮らすことになったから、どうぞよろしく」

ふざけんな、とよっぽど殴ってやろうかと思ったし、今も思っているけれど、彼があとから一つだけ持ってきたスーツケースはいっこうに母親の部屋から移動する気配はない。
それどころか、今や氷室と過ごす時間は母親より長いありさまだ。

つまりはそういうことだった。


「今日は何飲む?」
「……ココア」
「オーケー、すぐ出来るからテーブルで待ってて」

ね?と甘ったるい声がまた名前を苛立たせる。かといって食卓につかないという暴挙に出れば、「お目覚めのキス」が降ってくることは立証済みだ。

枕にしていたうさぎのぬいぐるみを片手に、しぶしぶとダイニングへ向かうと、ガラス張りのテーブルにはすでに二人分の朝食の準備が出来ていた。

真っ白いプレートにはレタスが数枚とミニトマト、トーストが1枚。こんがりと焼けた表面にバターが塗られた部分だけほろほろと崩れるようにへこんでいる。

それも全て氷室がやってくるまでは、無かったものだった。


「……いただきます」

こっそりと手を合わせて、フレンチトーストを真ん中からフォークを入れる。ふわりと良い香りが漂った。

「どうぞ、今日こそは遅れないように行くんだよ」

金属が触れる硬質な音がして、マグカップは名前のそばに、氷室は真正面に座った。
にこにこと微笑まれて、なんともいえないじれったさと苛立ちに襲われる。思わずフォークの代わりにマグカップを手に取った。

ゆらゆらと歪んだ狭い視界に、映る、サラダを咀嚼しようとするその手つきすら、何か完成されたもののように見えた。


「今日は学校行く気分じゃない」
「どうして?」
「12位だもん。何しても上手くいかないよ」

秀麗なそれが困り顔に変わるのを感じながら、ココアを口につける。その熱さに、舌がピリピリと痛んだ。

「そんなことはないさ。俺も12位だけど、今日は朝からラッキーだったよ」
「なにが?」
「名前がやっと、まともに朝ごはんを食べてくれるようになったこと」

意味わかんない、と言うと、氷室は更に訳のわからない言葉を返してきた。

「つまりね、俺は名前が幸せなら、運勢なんて関係なく幸せなんだ」なんて、どこかの映画でも見ているようだ。

そういえば氷室の口調はどことなく洋画の吹き替えを思わせる。いかにも常套句然としたそれに、名前は思わずこう言い放っていた。


「信じらんない。自分の子でもないのによくそんなこと言えるよね」

氷室がぴたりと動きを止めたのが分かった。さすがに言い過ぎたかと少しだけ後悔したけれど、一方で、それは名前の本音でもあった。

「参ったなあ……信じらんない、か。何て言えばいいのかな」

じっと見つめると、氷室も名前を見つめ返した。大きなけものみたいだ、となぜか思った。それに続くように生活感という言葉が脳裏にちらつく。

もしかしたら、氷室辰也という人間にあまりに生活感がなさすぎて、人という実感がなかったのかもしれない。名前がそんなことを考えている間に、氷室の口は動いていた。

「俺、白状すると、朝ってすごく苦手でさ。バーテンダーやってたから、料理は人並みに出来るんだけど、今までしばらく昼夜逆転生活だったんだ。名前たちよりよっぽど不健康だよね。でも、やめることにしたよ」

考えていたより難しかったけど、と小さくもらすのを名前は黙って聞いていた。


「名前のママにここに来てほしいって言われてね。タツヤが良ければ名前の面倒もみてくれないかって。正直言って、面食らった。ママのことはもちろん好きだったけど、そのとき結婚するつもりは全くなかったし、子どもの相手なんて御免だって思ってた。名前と初めて会った日、ママに別れ話を切り出すつもりだったんだーーでも、気が変わった」

どうして、と名前が問うと、氷室は微笑んだ。

「覚えてるかな、初めて会ったとき、名前と握手しただろ?そのとき一緒に暮らすビジョンが見えてしまったんだ、うっかりね。俺がここに来たのは半分はママを愛してるからだけど、半分は名前のせいだよ」

氷室はそう言い終えると席を立って、空になった食器を片付け始めた。


名前はすっかり冷めてしまったココアに目を落とし、そして思いっきりマグカップを傾けた。底の方にココアの粉のダマが溶け残っている。母親のようには上手く作れないようだ。
けれど、初めて美味しいと思った。


「タツヤ、ちょっと思ったんだけど」と名前が言うと、氷室は驚いたように振り向いた。

「なんだい、名前」
「わたしこのままだと今日も遅刻だね」

氷室を追い抜いて、シンクにマグカップを戻すと、後ろから「全くだ」と嬉しそうな声がした。


0308 『黄昏』:提出


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