くいこむ


じゃあウィンターカップ、一緒に行こう。

「え?」と彼は動かしていたシャーペンを止めて、弾かれたように顔を上げた。

この三十分間、一ページも進んでいない英語の参考書には過去完了形の用法とある。うっかりすると過去の過がゲシュタルト崩壊しそうだ。

「でもあれ、チケット買わねーと入れねえぞ」
「知らないけど、修ちゃんさっきから上の空じゃん」

私がそう言うと、彼は窓の外に目をやって、「ちげえよ」とため息をついた。それから何か言うのかと思いきや、彼はそのまま、残光の消えつつある空を見つめている。私たち以外誰もいない教室は、エアコンの音だけが聞こえていた。

「見に行きたいんじゃないの? 中学の後輩たち、みんな出てるんでしょ」

つい三十分前、彼が唐突に発した言葉を噛みしめるように繰り返す。
私が口を出せることじゃないのは分かっていた。けれど、彼をこのまま放っておいたら後悔する気がしていた。

てっきり怒るとばかり思っていた彼は、予想に反して、静かな表情で私を見た。

「後輩、ねえ。どうなってんのか気になるっちゃ気になるけど……」
「でしょ? 行こうよ。私も興味あるし」
「今更、親父の病気を理由に逃げ出したキャプテンが、どんな顔して会えばいーんだよ」

キャプテン、という言葉に思わず目を見張った。
彼の出身校の帝光中学といえば、バスケでは強豪中の強豪だ。

だからバスケ部から執拗に勧誘が来ていたのか、と納得するのと同時に、それを断るたびに彼が何とも言えない表情をしていたのを思い出した。

「冗談やめてよ。修ちゃんはそんなこと、しないよ」
「ま、どう思われても仕方ないってこった。中途半端に放り出してきたのは事実だからな。現に高校入ってからボールすら触ってねーし」
「でもさ、見るくらいなら、いいんじゃないの?」

彼は頬杖をついていた手で筆記用具を片付け始めた。もう勉強する気は無いらしく、過去完了形のページも閉じられる。

「もう帰るの?」と椅子を引いた彼に問うと、それに答えるようにどん、と机の上に鞄を置いた。

「チケット、買いに行くんだろ?」


数秒遅れて、やっとうなずくと、彼はいつもの性急さで「下で待ってる。名前、一分な」と言って教室を出て行ってしまった。
慌てて荷物をまとめて、階段を駆け下りると、外練帰りの陸上部の集団とすれ違った。



息を切らせて外に出ると、彼は正門前で、コートのポケットに両手を突っ込んで待っていた。

「おせーよ。寒いっつの」
「うっさいな。修ちゃんが待ってくれないだけでしょ」

私が呼吸を整えるひまもなく、彼はスタスタと歩き出した。信号は青に変わったばかりだ。
意地になって早足で抜かそうとすると、彼はふっと笑った。

「何よ」

「名前、」と差し出す手を思いっきりつかむ。
ひんやりとして、乾燥した大きな手を感じた。走ってきた分のあら熱が引いていくようだ。

「ってーな馬鹿力。そんな手のつなぎ方する女子がどこにいんだよ」
「は、ここにいるでしょー」

私はそのとき、訳も分からず苛立っていた。いや、気が昂ぶっていた、の方が近いだろうか。
何に対してかは分からないけれど、彼に対してこんな感情を抱くのは初めてだった。


「あのさ、後輩ってどんな子なの?」
「あー…赤い奴に青い奴、緑と水色と、あと黄色いのもいるって話だな」
「……それって何が? 頭?」
「その通り、揃いも揃ってカラフルで、バカみたいにバスケが出来る連中だよ」

彼は前を向いたまま、嬉しそうな顔でそう言った。

胸の鼓動が早くなって、呼吸がしづらくなる。
もしかしたら、付き合ってから初めて、虹村修造という人間の柔らかな場所に触れた瞬間かもしれなかった。


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