どうしようもない海


 キセクン、と呼ぶ彼女の声が好きだった。
 どれくらいかと言えば、知り合ってからしばらく経っても、付き合ってからも、結局一度も名前を呼ばせなかったぐらい。

 好きだ、そう小さく声にして、遊泳禁止と書かれた堤防に飛び乗る。
 そうして彼女が、「キセクン?」と声を掛けてくれるのを待った。

 思えば、俺は彼女と付き合ってから、いつもこんなことばかり考えている。

 この前だってキセクンと言うまで彼女が話しかけてくるのを無視した。
 テレビに出てた俳優が誰だか分からないんだけど知ってる、レベルの話題だったが、無性に腹が立ったのだ。
 これは一応の成功をおさめ、ねえキセクンってば、と苛立った声を聞くことができた。

 またいつかは、彼女にキセクンと叫ばせるためだけに、遊園地でわざとはぐれたことがある。
 夏の暑い日だったが、すごい人混みで、こっそり彼女の様子を窺うつもりが本当に迷子になってしまったのだった。
 おかげで彼女と一時間は会えず、怒らせてしまった上、その日はろくに口も聞いてもらえなかった。


 たしかに彼女は、ほどよく低く、角のない魅力的な声だ。
 しかし、自分がどうしてここまで熱狂しているのか、という問いの答えではない。

 そう、いつだって砂浜を駆けて行く彼女の姿が目に浮かぶだけで、俺の思考はガラスにぶつかってくるハエみたいに落っこちてしまう。

 不恰好に右手を差し出したまま。



「ちょっと、リョータ? どうしたの。変なところでとまんないでよ」

 右頬に熱っぽい湿った感触がして、思わず払いのけた。何よ、と怪訝な顔をしている。なぜか自分の下に上半身裸の女がいた。
 誰だっけこいつ。

 どくどく、どくどく、どくどく。
 拍動が頭の芯をゆすぶる。波の音が遠ざかっていく。

 現実だった。

 見慣れた自分のベッドの上だった。名前も知らない女と寝ている最中だった。

「ねえ、どうしたの?」
「……うっせ」
「え?」

 甲高い声がとどめをさすように、透明な藍色のベールに包まれた映像はガラガラと崩れ落ちた。

 組み敷いていた女の歪んだ顔。ぶ厚いコンクリの壁に空いた画鋲の穴。一週間前の今日にバツ印がついたカレンダー。
 生々しいものたちが目に眩しく主張を始める。

「悪いけど、出てって」


 波打つ白いシーツをすくうようになぞると、片仮名を読みあげるような、それでいて清冽な音の羅列を聞いた気がした。

 ゆっくりと後ろを振り向く。
 どうしてかこの部屋には彼女がいない。


 title by さよならの惑星


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